久々の晴れ間。地下鉄「江戸川橋」駅スタートで、ぐるっと回って再び「江戸川橋」駅へ。約2時間、そして約15,000歩の上り下りでした。
「神田川」沿いの桜もすっかり葉桜になってしまった4月16日。
「目白坂」から「胸突坂」、「豊坂」・・・。
前回訪れた「小日向の坂」と「音羽通り」をはさんで西側の坂めぐり。「小日向台」に対して、「関口台」「目白台」ということになります。
なお、今回は、山野勝さん著『江戸と東京の坂』(2011年発刊・日本文芸社)をもとにしての探索です。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓Aが「目白坂」、←Bが「音羽通り」。中央の流れが「神田川(江戸川)」。「神田川」の北側沿いは現在は「江戸川公園」になっている。
目白坂
西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道路を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急に下るようになる。
この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。
そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
目白台の空を真北に渡る雁 稀に見る雁の四五十かも 窪田空穂(1877―1967)
文京区教育委員会 昭和63年3月
けっこう急な上り坂。
清戸道
神田川に架かる江戸川橋(現東京都文京区関口付近)を江戸側の起点とし、そこから北西へ約5~6里(約20~24km)の武蔵国多摩郡清戸(上清戸村、中清戸村、下清戸村、清戸下宿。現東京都清瀬市上清戸、中清戸、下清戸、下宿付近)との間を結んでいたとされる。
成立の経緯は明らかではない。江戸時代に尾張藩の鷹場が清戸にあり、そこへ鷹狩に向かう尾張藩主が通ったといわれているが、それよりも、農村であった清戸から、市場である江戸への農産物の輸送路としての役割が大きかった。5~6里という距離は当時徒歩で1日で往復できる範囲であり、清戸の農民は早暁、野菜等の農産物を背にかついだり荷車に積んだりして出発。江戸に着いたらそれらを市場や町家で売りさばき、また野菜栽培に欠かせない下肥を町家で汲み取り、それらを持って夕方には村へ帰ってこれたものと推測される。これに沿道の豊島郡練馬村(現東京都練馬区)などから練馬大根をはじめとする農産物の輸送も加わり、そうした往来から自然発生的に道が成立したものと考えられている。
1918年(大正7年)度に行われた1時間平均交通量の調査で、清戸道は中山道に次ぎ、川越街道(国道254号)よりも多かった。
清戸道の経路
神田川・江戸川橋(東京都文京区関口)-(東京都道8号千代田練馬田無線)-(目白坂下南交差点)-目白坂-(椿山荘前付近)-(「目白通り」)-(目白台二丁目交差点)-(豊島区南長崎3丁目付近・南長崎交番)-(南長崎郵便局)-(豊島区南長崎6丁目付近)-千川上水沿い(「千川通り」)-(練馬区・豊玉北六丁目交差点)-(「目白通り」)-(練馬区向山4丁目付近)-(練馬中入口交差点)-石神井川・道楽橋-(練馬福祉会館前交差点)-(「目白通り」)-(谷原交差点・富士街道(ふじ大山道)と交差)-(東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線)-(練馬区西大泉・四面塔稲荷前交差点)
なお、目白台二丁目交差点で「目白通り」に接続する「不忍通り」の坂道は「清戸坂」と呼ばれ、「清戸道へ上がる坂」がその由来となっている。
(以上、「Wikipedia」参照)
「目白坂」をそのまま上り詰めると、「椿山荘」の前を通り、「目白通り」に合流します。が、「関口台町小学校」の手前で左折して道なりに進むと、「江戸川公園」の上に出ます。
江戸時代には大洗堰が築かれ、「神田上水」との分岐点になっていた「大滝橋」付近の公園。このあたりは、すでに掲載済み。
以下、一部再掲。
神田上水取水口大洗堰跡
徳川家康の江戸入り(天正18年―1590)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。
大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。
大正末年には水質、水量とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。
上水道として最も古い神田上水の、取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。
文京区教育委員会 昭和62年3月
「大滝橋」より「江戸川(神田川)」上流を望む。
「堰」の遺構の一部。
神田上水取水口の石柱
・・・関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下の水道で、神田、日本橋方面に給水した。
この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止に寄り撤去されたものを移した。なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。 昭和58年3月 文京区役所
かつて、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(芭蕉庵)は400㍍程上流に復元されています。
大正8年、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和12年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌年、堰の部材を再利用して、由来碑を建てました。
左の碑文はその文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年、この碑文のみが見つかりましたので、ここに設置しました。平成3年3月 文京区役所
(以上、2013/10掲載文より)
公園を出て、神田川沿いの遊歩道を上流に進みます。右手が「椿山荘」。
「関口芭蕉庵」(「椿山荘」と一緒に紹介済。2014・6・11。)。
こじんまりと、風情のある「芭蕉庵」の庭。
「関口芭蕉庵」のすぐ西側にある急坂が「胸突坂」。
胸突坂
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永清文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる、東は関口芭蕉庵である。
坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人びとの苦労がしのばれる。
文京区教育委員会 平成10年3月
但し、1880年頃は、「胸突坂」(→A)と「駒塚橋」(←B)との位置関係は異なっています。「駒塚橋」は、「江戸川橋」以外では数少ない「神田川」の架かる橋でした。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
また、この辺りは文京区、豊島区、新宿区の区界が複雑に入り組んでいますが、「神田川」の旧河川時代の流れに沿って区界が成立しているためです。
かなりの急坂。胸突き八丁。
自転車を押して下る青年の姿がたちまち視界から消える。
坂道は「目白通り」まで続きます。その途中の左には、「永青文庫」、右手には「蕉雨園」。その先の右手は「和敬塾」本館。
「永青文庫」
日本・東洋の古美術を中心とした美術館で、旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の収集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。
「蕉雨園」
田中光顕邸(1897年築)。1919年、田中光顕はこの邸宅を渡辺治右衛門(渡辺銀行総裁)に譲り、その後、1932年に講談社創業者の野間清治が購入。現在は講談社の所有。
「和敬塾」。
1880年代のようす(「同」より)。
西側の○が「細川邸」(現 新江戸川公園・永青文庫・和敬塾)、東側の○が「山縣邸」(現 椿山荘)、↑が「芭蕉庵」。「胸突坂」がその西側。
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