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鶴見川を越えて「鶴見市場」、「八丁畷」方向へ。
「鶴見川橋」(旧鶴見橋)。「鶴見橋」の名称は「第一京浜」が「鶴見川」に架かる橋の名になった。
「鶴見川に架かる橋(鶴見区内)一覧」(www.asahi-net.or.jp/~tv4y-szk/turumigawa/turumigawa.htmより)
対岸(鶴見市場方向)から望む。
「鶴見市場」方向。
橋のたもとの公園にあった説明板。
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「鶴見橋」界わいの情景
この橋から見えた富士や箱根の山々、海原に浮かぶ帆掛け舟などが多くの旅人や文人たちの心をとらえました。
・・・界わいは、名産だった梨の木が一面に続き、街道沿いの茶店には鶴見名物の「よねまんじゅう」が売られていました。また、橋のたもとには当地の産物などが運ばれた「市場河岸」があった・・・
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「鶴見川橋」
慶長6年(1601年)頃架けられたといわれており、東海道とほぼ同じ歴史をもっています。
大正末期までは「鶴見橋」の名称で多くの人に親しまれ、日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋で、長さ25間、幅3間といわれておりました。(多摩川は「渡し船」で渡った)
橋の周辺は視界が開け、橋上から大山や箱根連山が見えたという風光明媚な場所でありました。
・・・平成8年に鶴見川をひとまたぎするアーチ橋として生まれ変わりました。
案内板。
ほぼまっすぐな道が続く。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
「市場西中町一里塚公園」。2013年に整備されたばかり。塚に当たるところには、鳥居と小さな神社(祠)が祀られている。かつての写真を見ると、祠の南側に接するように民家があった。
上の地図で、ほぼ北西から南東に流れる川(地図上では六郷川・多摩川の支流から分かれ、鶴見川に注いでいたようだ)に架かる橋付近。川は現在は道路になっていて、バス停が「市場橋」。
「市場橋」の親柱。
「武州橘樹郡 市場村一里塚」碑。
説明碑。
【市場の一里塚】
慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4Km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。
ここは、江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。
昭和8年(1933)6月「武州橘樹群市場村一里塚」の碑が建立されました。
平成元年(1989)横浜市地域文化財に登録されました。
横浜市教育委員会文化財課 財団法人横浜国際観光協会 平成5年3月
「由来記」碑。
【市場村一里塚由来記】
昔街道一里毎に塚を築き塚上に榎を植えて標示とした。 これを一里塚といい、江戸日本橋を起点に東海道に造られた。 市場村一里塚もその一つで、今(昭和三十八年)から三百六十年前、即ち慶長九年、 徳川家康が東海・東山・中山の諸道を修理する時築いたもので、明治初年までは 相対して道の両側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。 日本橋から数えて五里(二十粁)に当る。 永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるので、地元有志これを惜しみ、 昭和二十五年八月、大谷石をもって土止めをし、こえて三十八年五月補修を加え、この碑を建つ。
昭和三十八年五月
熊野神社宮司 萩原 豊英
一里塚保存会代表 鈴木規久藏
松本喜代之介
外有志一同
案内板。
【市場西中町一里塚公園】
「市場西中町一里塚公園」は、現存する一里塚の横にあることから、地域の要望により命名され、平成25年3月に整備されました。
一里塚は、慶長9年(1604)、徳川家康が街道を整備する際に、里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4Km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えたものです。ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。一里塚は、明治9年(1876)地租改正で民間に払い下げられ、現在、民有地の一里塚はほとんど残っていません。
市場村一里塚は、地元の人々の史跡を残そうとした努力もあって、昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場一里塚」(添田担書)の碑が建立され、当時の場所に現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。平成元年(1989)には、横浜市地域文化財として登録されました。
公園の園名柱は一里塚の碑をイメージしてデザインされました。昔から一里塚が地域に愛され残されてきたように、この「市場西中町一里塚公園」が地域に親しまれることを祈ります。
この案内板には、昭和8年当時のようすを示す写真が掲示されています。
「京急ストア」前。商店街になっていきます。「鶴見市場」駅付近。熊野神社前には、三叉路が組み合わさってのスクランブル交差点あり。
そこを抜けると、しばらく住宅街が続きます。まもなく横浜市鶴見区から川崎市内に入ります。
「市場上町」交差点。ここから「川崎市」。道幅も広くなります。
地名は「下並木」。かつての「八丁畷」。
鶴見川橋手前の案内板。この↓のところが「八丁畷」。
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1880年頃のようす(「同」より)。直線の道が「八丁畷」。田畑の中を幅も広い、並木道になっている。下方が「鶴見市場」。
こうしてJR・京急「八丁畷」駅に着きました。
正面の高架がJR線。
京急のホームから見上げるJR線ホーム。
「京急鶴見」駅前などの商店街を含め、「旧東海道」が道筋も道幅も、ほぼ当時のままに残っていることは驚きでした。
今度は、神奈川宿から西へ挑戦してみましょうか。以上、品川宿~神奈川宿でした。
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橋のたもとの公園にあった説明板。
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「鶴見橋」界わいの情景
この橋から見えた富士や箱根の山々、海原に浮かぶ帆掛け舟などが多くの旅人や文人たちの心をとらえました。
・・・界わいは、名産だった梨の木が一面に続き、街道沿いの茶店には鶴見名物の「よねまんじゅう」が売られていました。また、橋のたもとには当地の産物などが運ばれた「市場河岸」があった・・・
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「鶴見川橋」
慶長6年(1601年)頃架けられたといわれており、東海道とほぼ同じ歴史をもっています。
大正末期までは「鶴見橋」の名称で多くの人に親しまれ、日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋で、長さ25間、幅3間といわれておりました。(多摩川は「渡し船」で渡った)
橋の周辺は視界が開け、橋上から大山や箱根連山が見えたという風光明媚な場所でありました。
・・・平成8年に鶴見川をひとまたぎするアーチ橋として生まれ変わりました。
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上の地図で、ほぼ北西から南東に流れる川(地図上では六郷川・多摩川の支流から分かれ、鶴見川に注いでいたようだ)に架かる橋付近。川は現在は道路になっていて、バス停が「市場橋」。
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【市場の一里塚】
慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4Km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。
ここは、江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。
昭和8年(1933)6月「武州橘樹群市場村一里塚」の碑が建立されました。
平成元年(1989)横浜市地域文化財に登録されました。
横浜市教育委員会文化財課 財団法人横浜国際観光協会 平成5年3月
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【市場村一里塚由来記】
昔街道一里毎に塚を築き塚上に榎を植えて標示とした。 これを一里塚といい、江戸日本橋を起点に東海道に造られた。 市場村一里塚もその一つで、今(昭和三十八年)から三百六十年前、即ち慶長九年、 徳川家康が東海・東山・中山の諸道を修理する時築いたもので、明治初年までは 相対して道の両側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。 日本橋から数えて五里(二十粁)に当る。 永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるので、地元有志これを惜しみ、 昭和二十五年八月、大谷石をもって土止めをし、こえて三十八年五月補修を加え、この碑を建つ。
昭和三十八年五月
熊野神社宮司 萩原 豊英
一里塚保存会代表 鈴木規久藏
松本喜代之介
外有志一同
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【市場西中町一里塚公園】
「市場西中町一里塚公園」は、現存する一里塚の横にあることから、地域の要望により命名され、平成25年3月に整備されました。
一里塚は、慶長9年(1604)、徳川家康が街道を整備する際に、里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4Km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えたものです。ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。一里塚は、明治9年(1876)地租改正で民間に払い下げられ、現在、民有地の一里塚はほとんど残っていません。
市場村一里塚は、地元の人々の史跡を残そうとした努力もあって、昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場一里塚」(添田担書)の碑が建立され、当時の場所に現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。平成元年(1989)には、横浜市地域文化財として登録されました。
公園の園名柱は一里塚の碑をイメージしてデザインされました。昔から一里塚が地域に愛され残されてきたように、この「市場西中町一里塚公園」が地域に親しまれることを祈ります。
この案内板には、昭和8年当時のようすを示す写真が掲示されています。
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こうしてJR・京急「八丁畷」駅に着きました。
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「京急鶴見」駅前などの商店街を含め、「旧東海道」が道筋も道幅も、ほぼ当時のままに残っていることは驚きでした。
今度は、神奈川宿から西へ挑戦してみましょうか。以上、品川宿~神奈川宿でした。