おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

関東村跡地

2011-12-05 20:01:09 | 歴史・痕跡
 1965(昭和40)年10月10日「東京オリンピック」開幕。当時、代々木にあった米軍施設と住宅(通称ワシントンハイツ)は選手村(オリンピック終了後は、「代々木公園」として整備された)とするために、米軍関連施設は、府中基地周辺と調布飛行場周辺に移転されることになった。「関東村」とは、現・調布飛行場近辺地域に移転してきた米軍施設や住宅を総称して付けられた名称である。
 「調布飛行場」は、かつては旧帝国陸軍の「帝都防空部隊基地」。敗戦後に米軍に接収されたが、1972(昭和47)年に返還された後、民間航空会社の飛行基地(伊豆七島の一つ・新島へ行く便など)として使用されている。
 関東村は、その調布飛行場の北西側、西武多摩川線の多磨駅近くに位置していた。現在、広大だった敷地は、東京外語大学(北区から移転)、警察学校(中野区から移転)、「武蔵野森公園」などになっている。
 現在、一箇所のみ、当時の「関東村」が残されている。それは、東京外国語大学キャンパスに隣接した区画で、外語大に接する北側に細長く一区画、道路をはさんで一区画(こちらは大きい)。周囲はフェンスで覆われていて、敷地内に入ることはできない。
 かつては、この区画内には14棟ほどの建物があった、という。現在は再開発のための環境調査が行われている。区画内の建物はほとんどが取り壊されてしまっているようだ。
 仮に残っている廃屋があったとしても、いずれも敷地内の奥に位置しているため、その詳細を把握することは全くできない。フェンスの中は大きな樹木と雑草、ツタなどに覆われて自然のままのようす。
 フェンスの外から中を見ると、ツタに埋もれて何か建物があるようだが、肉眼では、守衛所みたいなものが二つ見えるのみ。ただ、関東村跡地内にあった消火栓。これだけは、ポツンと一つ残っている。
東南の角からのようす。一面、窪地状のところに雑草が密集している。
建造物があったと思われる敷地。奥にも建造物が。
フェンス際にあった建物の土台部分。一面、ツタが匍っている。
多磨駅寄りの通り沿いのフェンス。
消火栓。唯一はっきりと確認できる痕跡。
東京外語大のキャンパス。



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