京成の東京側のターミナルとなっていた押上駅は、都心へ出るには便利とは言えませんでした。
そのため、京成は、都心部への延伸を目指して、浅草~上野まで路線延長の特許申請を繰り返しますが、同じ頃、業平橋から浅草延伸を計画していた東武鉄道と競合します。
1928年(昭和3)年に「京成電車疑獄事件」が発覚、社長・専務ら会社幹部が逮捕される事態となり、結果的に浅草延伸は断念に追い込まれました。
ですから、戦前はもちろん、戦後になっても、中学生の頃までは、京成の押上線は、文字通り「押上」駅が終点でした。今のような地下駅ではなく、地上駅。浅草へ出るには、駅の改札口を出ると、アーチ状の案内板をくぐり、北十間川の橋を渡って広い通りに出る。
そこで、トロリーバスかタクシーに乗るしかありませんでした。南の繁華街・錦糸町駅方向に行くにも、バスしかありませんでした(都電は通っていなかった)。
死んだ父親が、「浅草国際劇場」(その跡地が「浅草ビューホテル」。その前の通りは、今でも「国際通り」といいます。)のレビューが好きで、しばしば、押上からタクシーに乗って、連れて行かれた記憶があります。
東京オリンピック開催に合わせて、都営地下鉄1号線(現浅草線)が西馬込から押上まで建設されることになり、京成電鉄は、京浜急行電鉄とともに東京都が担当する1号線(現・浅草線)に相互乗り入れすることとなりました。
京成と京浜急行とでは軌道の幅の違い(京成1372mm/京浜急行1435mm)が、最大の問題となりましたが、京成・京急・都での協議の結果、軌間は1435mmに決定。
そのため、京成電鉄では全線を11工程13工区に分けて改軌工事を実施、運転を継続したまま、1959(昭和34)年10月9日夜から12月1日朝までの50日間の突貫工事で完工しました。
青砥駅がその工区と工区の境目であったために、広軌の電車で到着した乗客は、それまでの狭軌のホームに移動して乗り換えるなど、ある意味でかなり乱暴な方法でしたが。
1959(昭和34)年、押上駅の地下移設工事に着工し、翌1960(昭和35)年、新駅が営業開始となります。
その年の12月4日、待望の「押上」~「浅草橋」間 (3.2km)が開業し、都営地下鉄と京成電鉄による相互直通運転が開始されました。これによって、千葉の京成沿線から電車の乗り換えなしで、都心、銀座・新橋に出られることになりました。
都市「伝説」では、千葉の田舎者が銀座に進出したのを嫌って、銀座から赤坂、六本木、新宿、渋谷、吉祥寺とおしゃれな街が西へ移動していったなどという「しゃれ」にもならない話がまことしやかに伝わっていますが、はたして?
最近では、東京メトロ半蔵門線「押上」駅の開業により、東武線への乗り換えなど、乗降客も多い駅になったようです。
今度、「東京スカイツリー」がその地上駅だった西側の東武の敷地内に出来ます。またまた大きくこの辺りも変化していくでしょう。
写真は、押上駅の地上部の案内表示です。かつては、大きなアーチ型のものだったような気がします。今は、しゃれた案内アーチになっています。左手が京成電鉄の本社の建物です。中央の奥が駅入り口。
そのため、京成は、都心部への延伸を目指して、浅草~上野まで路線延長の特許申請を繰り返しますが、同じ頃、業平橋から浅草延伸を計画していた東武鉄道と競合します。
1928年(昭和3)年に「京成電車疑獄事件」が発覚、社長・専務ら会社幹部が逮捕される事態となり、結果的に浅草延伸は断念に追い込まれました。
ですから、戦前はもちろん、戦後になっても、中学生の頃までは、京成の押上線は、文字通り「押上」駅が終点でした。今のような地下駅ではなく、地上駅。浅草へ出るには、駅の改札口を出ると、アーチ状の案内板をくぐり、北十間川の橋を渡って広い通りに出る。
そこで、トロリーバスかタクシーに乗るしかありませんでした。南の繁華街・錦糸町駅方向に行くにも、バスしかありませんでした(都電は通っていなかった)。
死んだ父親が、「浅草国際劇場」(その跡地が「浅草ビューホテル」。その前の通りは、今でも「国際通り」といいます。)のレビューが好きで、しばしば、押上からタクシーに乗って、連れて行かれた記憶があります。
東京オリンピック開催に合わせて、都営地下鉄1号線(現浅草線)が西馬込から押上まで建設されることになり、京成電鉄は、京浜急行電鉄とともに東京都が担当する1号線(現・浅草線)に相互乗り入れすることとなりました。
京成と京浜急行とでは軌道の幅の違い(京成1372mm/京浜急行1435mm)が、最大の問題となりましたが、京成・京急・都での協議の結果、軌間は1435mmに決定。
そのため、京成電鉄では全線を11工程13工区に分けて改軌工事を実施、運転を継続したまま、1959(昭和34)年10月9日夜から12月1日朝までの50日間の突貫工事で完工しました。
青砥駅がその工区と工区の境目であったために、広軌の電車で到着した乗客は、それまでの狭軌のホームに移動して乗り換えるなど、ある意味でかなり乱暴な方法でしたが。
1959(昭和34)年、押上駅の地下移設工事に着工し、翌1960(昭和35)年、新駅が営業開始となります。
その年の12月4日、待望の「押上」~「浅草橋」間 (3.2km)が開業し、都営地下鉄と京成電鉄による相互直通運転が開始されました。これによって、千葉の京成沿線から電車の乗り換えなしで、都心、銀座・新橋に出られることになりました。
都市「伝説」では、千葉の田舎者が銀座に進出したのを嫌って、銀座から赤坂、六本木、新宿、渋谷、吉祥寺とおしゃれな街が西へ移動していったなどという「しゃれ」にもならない話がまことしやかに伝わっていますが、はたして?
最近では、東京メトロ半蔵門線「押上」駅の開業により、東武線への乗り換えなど、乗降客も多い駅になったようです。
今度、「東京スカイツリー」がその地上駅だった西側の東武の敷地内に出来ます。またまた大きくこの辺りも変化していくでしょう。
写真は、押上駅の地上部の案内表示です。かつては、大きなアーチ型のものだったような気がします。今は、しゃれた案内アーチになっています。左手が京成電鉄の本社の建物です。中央の奥が駅入り口。
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