おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

長岡~水戸。その3。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-13 21:52:44 | 水戸街道

 2011年の「東日本大震災」では、ここ水戸も大きな被害を受けました。その爪痕は目に付く範囲にはなく、整然とした街並みが続きます。
 かつて「水戸街道」歩きをしていた方が、その3月11日に大地震に遭遇しました。その時のようすを生々しく記録しています。無断で申し訳ありませんが、引用させていただきます。

 「大震災に遭遇する」(はやとちりの  旧 街 道 旅 日 記)www.geocities.jp/y8_momi/m9nagaoka.http...さんの体験。

 元吉田十字路(交)(注:上の写真の右手先)の右手には旧吉田村の庄屋だった綿引家があり、そちらに向かいます。
 その時、地面を突き上げるような激しい揺れと同時につれが「お父さん地震よ」と叫ぶ。足元がおぼつかないなか高い建物から離れ、幸いにしてすぐ脇にあったフェンスにしがみつき激しい揺れに耐えます。その瞬時に周辺の屋根瓦が崩れ落ち、空に舞い上がる土埃があたり一面をセピアカラーに変色させ日本沈没が脳裏をよぎりました。わずか2~3分の悪夢の出来事です。
 建物と言う建物からは人が飛び出し、ある人は座り込みまた茫然と立つくし、誰もが何をする事もできず不安の表情で虚空を見上げています。
すぐに携帯で娘に連絡を入れたが、圏外の文字とプ―プ―と空しい音が聞こえるだけ。つれと二人あちらこちらに連絡をとろうとしたが全て駄目。
 少し落ち着いてそばに居た人から情報を得ようとしましたが、誰も同じようにまだ何の情報も持っていません。向かいのコンビニは電気が消え、ガラスが割れて商品が散乱し、地震の後にテレビで見るあの光景を一段と悪くしたような状態で、「怖くてとても入れない」と店の方は。
 まったく情報はありませんが揺れもおさまり、一区切りと思い江戸末期に建てられた藁葺屋根の綿引家住宅にカメラを向けます。母屋と蔵が県指定文化財に指定されている建物ですが、塀の外一面には飛び散った藁屑だらけ。
 この時点ではまだ事の重大さを認識していない暢気な二人は気を取り直して先に進みます。・・・
 水戸街道は台町で右に左にと曲る枡形になっています。ここで再び地面を突き上げるような激しい揺れに襲われ、道端の目に付いた物に必死に掴って身体を支えます。
 Dクリニック前に集まっている方から再び情報を得ようとしましたが、クリニックの損傷具合からそんな事を聞くこともはばかられます。
 随所に惨憺たる情景が見られますが、とてもシャッターを押す心境にはなれませんでした。
 この状況から水戸が一番ひどいのだろうと思っていました。しかしカーラジオを聞いている方からの情報だとまだ此処は良い方だとか。
 震源も宮城だ福島だ震度は7だ、6強だと情報は輻輳していますが、もはやのんびりと街道を歩いている状況ではなさそう。
 狭い道路は危険。再び揺れが来ないうちにと広い道路、駅南中央通りに出ます。そして一縷の望みを託し今日の宿に急ぎます。しかしその通りでも近代的なビルの窓ガラスが歩道に散乱し、高い所から今にも崩れ落ちてきそうな塀が見え決して安全ではなさそうです。途中にあった公衆電話で自宅近所の家に連絡が取れ、かなり揺れたけれど隣近所とも異常がないことがわかりやや安心します。

(筆者たちは、泊まる予定だったビジネスホテルも損壊し、避難した地元の方と避難場所へ移動)

・・・街灯も民家の灯りも、ネオンも看板の明かりもない真っ暗やみの中、隆起したり陥没していたりする悪路を、再び20数分中学校まで引率されて行きます。やはり指示されて小学校に来たという方々と総勢20人程がぞろぞろと。
 真っ暗な千波中学校多目的ホール(翌日になって分かったのですが)には、すでにかなりの人が避難しています。そこに割り込んで場所を確保し、ひとまず落ち着きます。すると今まで夢中だったからか、気にならなかった寒さを急に感じます。多少ましな防寒対策をしているはやとちりでも寒さが身に凍みるのに、春物のオシャレをしてきた一般の観光客の方には気の毒なくらいです。暗い中、目を凝らすと毛布を被った人も大勢います。後で分かったんですが地元の方も避難していて、こういった方は自宅から防寒対策品を持参していたんです。
 余震の不安と寒さから寝るどころではない状況に、やっと毛布が配られたのが夜中の2時頃。有難いがそれも全体的には二人に一枚程度。段ボールを敷いて毛布を被って横になりますが、寒さをしのぐには焼け石に水。
 余震におびえながらほとんど寝れなかった夜が明けると、昨夜一緒に避難してきたグループがいつの間にか一箇所に集まります。滅多にない恐怖を体験したからか、ほんの少し一緒に居ただけなのに、特殊な仲間意識が芽生えたんです。持っているお菓子などのやり取りをしながら。
 昨夜の夜食はその仲間から頂いたおにぎりが一個だけ。朝は市から塩味の効いたクラッカーが一人に一個(20枚入り)が配られました。しかし、興奮しているのか緊張しているのか食欲はあまりありません。こんな物を貰う羽目になって涙が出たと、つれは後に述懐しています。
 学校の2階に公衆電話があり長い行列の末、娘と連絡が取れ無事を報告。
・・・午後に電気は通じます、でも水道はまだ、昼もクラッカー。「次はおにぎりが配れると思います」と市の職員が報告。3時頃だったろうか厚木市からの支援物資が届き、これがお湯を注ぐとおかゆになる久しぶりの暖かい食べ物で子供たちは「チョ~美味い」と大喜び。大人だってみんな美味しく感じたらしい、そう言うはやとちりも厚木市に感謝しつつ。
でも中には、次はおにぎりだと言ったではないか、と感情的になっって職員と小競り合いを起こす場面も。米が集まらなかったらしい。
 この時点で一番の悩みはトイレです。次から次へとトイレを利用するが、全く水が流れない水洗トイレの状況を想像して下さい。この時は昔の汲み取り式があればと痛切に感じました。段ボール組立て式簡易トイレが設置されたのは翌日未明のことです。
 携帯電話が使えるようになると、つれが持っていた充電器は引っ張りだこ。いつもは持っていないのに何となく持ってきたという、殊勲賞ものです。
 夜は安心米、これはおかゆではなく普通のご飯。避難所の受け入れ態勢が徐々に整いつつあることを感じながら、2回目の夜を迎えました。

 (息子さんたちとようやく連絡がとれ、車で迎えに来てもらえることに)

 そして明けた翌日、9時前に息子が到着、3時半頃に出て約6時間かかったと。とんぼ返りの強行軍で申し訳ないが、小山まで歩く覚悟をしたご夫婦共々、異常な体験を強いられた水戸から脱出することができました。
 一昨日からの仲間を始めまだ多くの人が避難所に残り、この先いつまでここに留まるのかと思うと、申し訳ない気持もありましたが。

 2011年の「東日本大震災」から6年。被災した当時の建物もすっかり新築、修復されたようで、車や人々が行き交う街並みを進みました。

 (11:48)右手のおうちの庭先に「旧吉田村立余吉田小学校」跡碑。明治6年創立。
   

二つ目のカギ型。

「台町」交差点を左折。

左手に「薬王院」。奥に藁葺き屋根の山門。

「神楽屋敷跡」碑。

 (12:03)坂道を下って行きます。正面奥の杜が「吉田神社」。


途中見かけたおうち。

 「男坂」「女坂」と真ん中の道「新道」との交差点。




 真ん中の直線道を一気に下れば、「銷魂(たまげ)橋」に出ますが、旧道(女坂)を通ります。
    

「吉田神社」自動車参道入口。続々と車が上って行きます。

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