おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「上菅谷駅」~「山方宿駅」。常陸鴻巣・瓜連・玉川村。山方宿(やまがたじゅく)・南郷街道。(「水郡線」の旅。その2。)

2024-10-08 19:35:24 | 鉄道の旅

「常陸鴻巣駅」。

ソバ畑が広がります。

「瓜連(うりづら)駅」。

茨城県那珂市瓜連にある。1918年(大正7年)に、水戸鉄道の駅として開業。当時は終着駅であった。1983年(昭和58年)に無人化になり、2000年に橋上駅化になる。乗車人員は、20年前は450人でしたが、現在は200人ほど。

※かつて、「常陸鴻巣駅」と「瓜連駅」のあいだに「常陸中里駅」がありましたが、1941年に廃止されました。

廃棄されたバス停がたくさん。

「静(しず)駅。

         駅舎はなく屋根付きのベンチのみ設置されている。

※「静駅」と次の「常陸大宮駅」との間に「常陸村田駅」がありましたが、1944年に廃止。

  

駅ごとに乗り降り(地元の方)があります。

「常陸大宮駅」。

                  

「玉川村駅」。

駅名はかつて属してい那珂郡玉川村に由来する。

駅舎は1996年に改築された木造平屋建てで、「玉川村駅交流センター」が併設された合築駅舎である。駅舎内に図書室があり、無料で利用できる。

               (「Wikipedia」より)

       野上原駅」。

                   ホーム部に屋根・壁のあるベンチが設置されている。

            「山方宿(やまがたじゅく)駅」。

常陸大宮市発足以前の旧・山方町の中心部で、かつての南郷街道の宿場町・山方宿であった地域。山方支所から当駅への道路沿いには集落が広がり、生活関連サービス施設が集積している。

駅舎は1993年に建設された木造平屋建てで図書館およびコミュニティ施設を合築したものである。駅舎の外観は地元特産のアユをイメージしたものである

(「Wikipedia」より)

車窓より。

山方町は、旧石器時代の石器が発見された駒形平遺跡をはじめ、縄文時代、弥生時代を通して数多くの遺跡が確認されています。地理的には奥州に接する地で、町の中心部は「常陸風土記」にも記述のある久慈郡の河内郷でした。また同書には、久慈川の鮎や照山地区の鏡岩の記述もあり、古来から豊かな自然と情趣に恵まれた地域であったことがわかります。

中世には佐竹氏の重臣山方能登守が館地内に支城を築き、当地域を支配しました。その支配は、慶長7年に佐竹氏が秋田に移封されるまでおよそ500年にもわたりました。

佐竹氏移封後は、徳川頼房を初代藩主とする水戸藩の領地となりました。水戸藩領時代の山方地域は、南郷街道の宿場町として栄え、今に「山方宿」の名を残しています。特に佐竹氏時代から始まり近世になって盛んとなった西野内和紙と、諸沢村の中島藤右衛門により産業化されたコンニャクで著名でした。また幕末には、同じ諸沢村から水戸学の大家、会沢正志斎を輩出しています。

徳川幕府が崩壊し、明治維新を迎えると、当地域は明治4年に水戸県へ、続いて明治8年に茨城県へ編入となり、さらに同6年の大区小区制の施行により、那珂郡山方村、同郡塩田村、久慈郡諸富野村、同郡下小川村、同郡世喜村の5か村が誕生しました。

このうち、山方村は昭和22年の町制施行により山方町と改称しました。そして昭和28年の町村合併促進法施行に伴い、同30年山方町に、諸富野村、下小川村及び世喜村、塩田村の一部が編入合併し、山方町が誕生しました。

(この項、「」HPより)

※南郷街道

水戸を起点に南郷(現福島県塙町、棚倉町)に至る道で、菅谷(那珂市)までが現在の国道349号線、瓜連(同市)以北が国道118号線とほぼ同じ道筋です。棚倉街道(現国道349号線)の脇往還として位置付けられていました。棚倉街道に対して険しい峡谷の山道なので、公用としては用いられず、大子地方からの年貢や特産物の輸送、商用や一般の旅行者のための街道でありました。

(この項「大子町教育委員会」HPより)


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