ちょっと想像していたような公園ではなかった(学校と公園との一体的な利用など)ので、少しがっかりしながら、残りの二つに向かいました。ところが、「中和」も「菊川」も建設当時の考え、一体化がまだ残っていたのです。
①中和公園
西側から望む。北側には「中和小学校」。
西側部分に遊戯施設。中央は広場。
公園との仕切りは、緑の大きな網。開閉が出来るようになっている。すでに放課後。指導員の元で数人の児童が遊んでいた。中和小の屋上、「創立139年」と。墨田区内で現存する小学校の中では最も古い歴史をもつ小学校。
HPにある「沿革」によると、
明治5年学制が頒布、近代的な学校制度が始まり、弥勒寺を借りて「育幼社」という名で学習をしていた。そして、明治7年に第六学区一番土屋学校の分校として開校、これが墨田区で一番の伝統と歴史のある中和小学校の始まりである。次の年、明治8年8月町の人たちの寄付金で木造の校舎が新築され、名前も改称された。親しまれている校歌は、♪夏は来ぬ♪の作曲者「小山作之助」である。滝廉太郎の才能を見いだして育てた作曲者でもある。また作詞家「中村秋香」は国文学者であり、宮内庁御歌所寄人をつとめた。
とありました。
「中和」の由来は、「中庸」の内容からきている、とのことです。
なお、「中和小学校」より更に古い公立(墨田区立)小学校は、昭和21年3月廃校になった「牛島小学校」(現・都立本所高校の敷地)。
東側から公園中央を望む。平日の授業中などでは、公園との仕切りを開け、校庭の延長として大いに活用しているのだろう。
また、この地域一帯は「東京大空襲」で壊滅的被害を受けたところ。
「比企の丘から」(「blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/b9e4c844b81102293f59123fc9e42818」)に、海老名香葉子さんの本が紹介されています。引用させてもらいます。ここに、「中和小学校」のことが出ています。
「うしろの正面だあれ」(金の星社1985年刊)
1933年東京下町の本所堅川(現墨田区立川)に生まれた香葉子さん。実家は「竿忠」という代々続く竿師・・・手作りの高級和竿を作る職人。曾祖父は1900年のパリ万国博に出品して入賞した名人。作家の長谷川伸、彫刻家の朝倉文夫、落語家の三遊亭金馬もお得意様だったようです。
職人兼お店の主人、飛び切り金持ちではなく、たまに近所に気兼ねしながらスキ焼きを食べる程度、ごく普通の生活を営んでいたことが窺えます。優しい家族に囲まれて成長。下町娘ですから、近所の悪ガキと遊んだり、好きでない三味線を習わされたり、楽しかった思い出ばかりです。
やがて日本は戦争に突入、1945年3月10日東京大空襲。静岡県の沼津に疎開していた香葉子さんのほかは東京にいた家族は避難した中和小学校で6人が焼死、三兄の喜三郎兄ちゃんだけ奇跡的に生き残ります。
疎開していたおばさん夫婦の転勤で沼津から石川県の穴水町へ、おじさんの失業で中野のおばさんの家に、焼け跡からトタン、木材を集め作った三畳ぐらいの部屋、おじさん、おばさんと子ども、それに香葉子さんの4人で暮らします。
1945年の暮れ本所堅川の実家の焼け跡に立ち、目をつぶり・・・そっと目をあけます。
坊さん坊さん どこ行くの わたしは田圃に稲刈りに
お前が行くとじゃまになる このかんかん坊主くそ坊主
うしろの正面だあれ
ふり向いてもそこには母の姿も、友だちの姿も見えません。
・・・
この他にも「東京大空襲」の大惨事・悲劇について、中和小の地域を含め、地域の子ども達に語り続けている方々がいるようです。後世、特に若い人々にしっかり語り伝えていかなければならないことです。
②菊川公園
菊川小学校との緑の仕切りは開かれ、体育の授業を行っていた。ハードルが公園内まで並べられてハードル走の練習中。
西側は遊戯施設。親子連れは、こちらのエリアの方で楽しむ。
小高い丘をしつらえて大型の遊具が置かれ、けっこう楽しめそう。
藤棚もあった。
木々もほどよく配置されている。校庭にもなる中央、東側の運動広場と遊戯施設がある西側とを明確に区分したかたち。
公園東入口付近からのスカイツリー。
①中和公園
西側から望む。北側には「中和小学校」。
西側部分に遊戯施設。中央は広場。
公園との仕切りは、緑の大きな網。開閉が出来るようになっている。すでに放課後。指導員の元で数人の児童が遊んでいた。中和小の屋上、「創立139年」と。墨田区内で現存する小学校の中では最も古い歴史をもつ小学校。
HPにある「沿革」によると、
明治5年学制が頒布、近代的な学校制度が始まり、弥勒寺を借りて「育幼社」という名で学習をしていた。そして、明治7年に第六学区一番土屋学校の分校として開校、これが墨田区で一番の伝統と歴史のある中和小学校の始まりである。次の年、明治8年8月町の人たちの寄付金で木造の校舎が新築され、名前も改称された。親しまれている校歌は、♪夏は来ぬ♪の作曲者「小山作之助」である。滝廉太郎の才能を見いだして育てた作曲者でもある。また作詞家「中村秋香」は国文学者であり、宮内庁御歌所寄人をつとめた。
とありました。
「中和」の由来は、「中庸」の内容からきている、とのことです。
なお、「中和小学校」より更に古い公立(墨田区立)小学校は、昭和21年3月廃校になった「牛島小学校」(現・都立本所高校の敷地)。
東側から公園中央を望む。平日の授業中などでは、公園との仕切りを開け、校庭の延長として大いに活用しているのだろう。
また、この地域一帯は「東京大空襲」で壊滅的被害を受けたところ。
「比企の丘から」(「blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/b9e4c844b81102293f59123fc9e42818」)に、海老名香葉子さんの本が紹介されています。引用させてもらいます。ここに、「中和小学校」のことが出ています。
「うしろの正面だあれ」(金の星社1985年刊)
1933年東京下町の本所堅川(現墨田区立川)に生まれた香葉子さん。実家は「竿忠」という代々続く竿師・・・手作りの高級和竿を作る職人。曾祖父は1900年のパリ万国博に出品して入賞した名人。作家の長谷川伸、彫刻家の朝倉文夫、落語家の三遊亭金馬もお得意様だったようです。
職人兼お店の主人、飛び切り金持ちではなく、たまに近所に気兼ねしながらスキ焼きを食べる程度、ごく普通の生活を営んでいたことが窺えます。優しい家族に囲まれて成長。下町娘ですから、近所の悪ガキと遊んだり、好きでない三味線を習わされたり、楽しかった思い出ばかりです。
やがて日本は戦争に突入、1945年3月10日東京大空襲。静岡県の沼津に疎開していた香葉子さんのほかは東京にいた家族は避難した中和小学校で6人が焼死、三兄の喜三郎兄ちゃんだけ奇跡的に生き残ります。
疎開していたおばさん夫婦の転勤で沼津から石川県の穴水町へ、おじさんの失業で中野のおばさんの家に、焼け跡からトタン、木材を集め作った三畳ぐらいの部屋、おじさん、おばさんと子ども、それに香葉子さんの4人で暮らします。
1945年の暮れ本所堅川の実家の焼け跡に立ち、目をつぶり・・・そっと目をあけます。
坊さん坊さん どこ行くの わたしは田圃に稲刈りに
お前が行くとじゃまになる このかんかん坊主くそ坊主
うしろの正面だあれ
ふり向いてもそこには母の姿も、友だちの姿も見えません。
・・・
この他にも「東京大空襲」の大惨事・悲劇について、中和小の地域を含め、地域の子ども達に語り続けている方々がいるようです。後世、特に若い人々にしっかり語り伝えていかなければならないことです。
②菊川公園
菊川小学校との緑の仕切りは開かれ、体育の授業を行っていた。ハードルが公園内まで並べられてハードル走の練習中。
西側は遊戯施設。親子連れは、こちらのエリアの方で楽しむ。
小高い丘をしつらえて大型の遊具が置かれ、けっこう楽しめそう。
藤棚もあった。
木々もほどよく配置されている。校庭にもなる中央、東側の運動広場と遊戯施設がある西側とを明確に区分したかたち。
公園東入口付近からのスカイツリー。
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