おやじのつぶやき

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常夜燈。笹屋うどん。東西線「南行徳」駅~武蔵野線「船橋法典」駅。その3。(「木下街道」をゆく。第1日目。)

2020-11-05 20:12:31 | 木下街道

                     「常夜燈」。

 市川市指定有形文化財第1号である常夜灯は、文化9年(1812)に、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山にお参りする講中の人々が航路安全を祈願して建てたものです。
 高さ4.31メートルの石造りで、側面には協力した人々の名前が刻まれています。昭和45年、旧江戸川堤防拡張工事のため、位置の移動を余議なくされたり、袴腰の上に設置されたこともありましたが、平成21年12月12日、常夜灯公園のオープンに伴い、常夜灯は免震装置を施しリニューアルして公園内に設置され、より安全に皆様に親しんでいただけるようになりました。

 江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは、寛永9年(1632)のことです。航路の独占権を得た本行徳村は、この地に河岸を設置し、船は毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていました。この船は一般に「行徳船(ぎょうとくぶね)」と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由して、日本橋小網町まで、約12.6キロメートルを就航していました。現在の常夜灯周辺は、新河岸(しんかし)と呼ばれ、『葛飾誌略』によると、元禄3年(1690)に景観整備されたと推察されます。
 やがて文化・文政期(1804~1830)になると、成田山への参詣路として旅人の利用が多くなり、当初10隻だった行徳船も幕末期には62隻にも増え、江戸との往来がますます盛んになりました。

 渡辺崋山の『四州真景図巻』(ししゅうしんけいずかん)や、『江戸名所図会』(えどめいしょずえ) 、『成田土産名所尽』(なりたみやげめいしょづくし)などの絵画には当時の周辺の様子と、常夜灯が描かれています。 常夜灯は江戸川を行き交う船や人々の目印の役割もはたしてきたと思われます。

(この項、「」HPより)

       

新河岸跡」碑。

行徳新河岸~新河岸の賑わい~

江戸時代の新河岸(現在地)は、船で往来する人や物資などで賑わう場所で成田山につながる成田道の起点でもありました。江戸川・常夜灯を背にして、旧行徳街道までの間は江戸名所図会にも描かれており、その様子が伺えます。

この道筋には、まず番人が詰める施設と掟などが記された高札場や、旅人などが休息をした信楽などの旅館がありました。旅館信楽は、近江国信楽出身者が行徳にちなむ呼称です。信楽から道(旧行徳街道)を挟んだ向かいの建物が「笹屋」と言われるうどん屋です。「笹屋」は、江戸時代の文学作品にも記され、源頼朝が訪れた伝承を残しています。

明治時代に入り、江戸川に蒸気船が運航されると、地元では「蒸気河岸」とも呼ばれるようになりました(下図)。「蒸気河岸」の発着場として新河岸界隈は多くの人々で賑わっていました。市川市教育委員会

「日本橋」と刻まれています。 

    

 

「旧江戸川」。

対岸(江戸川区)。

常夜燈前の通り。行徳街道へ。

市指定有形文化財 常夜灯 昭和35年10月7日指定

この常夜灯は文化9年(1812)、江戸日本橋の成田講中成田山新勝寺への講)の人々が建てたものです。成田講中が航路安全を祈願して建てたと推察されます。なお、側面には協力した人々の名前が刻まれています。江戸時代、成田山新勝寺には江戸から多くの人々が参詣しました。行徳は、江戸から成田にかけての重要な中継地でした。

左下の図は「江戸名所図会」に描かれた現在地の景観です(下図・再掲)

左隅に常夜灯と思われる灯篭が建っています。江戸時代後半の記録にも、常夜灯は「川岸に立つ」とります(「葛飾誌略」)。また図には、現在のような堤防は描かれておらず、船から降りた人々は高低差の小さな地から陸地に上がったとみられます。

そして、常夜灯付近の現在地を新河岸(船着場)とも呼びました。

「新」の字が示すように、元禄3年(1690)、図にあるような景観が整備されたと推察されます(「葛飾誌略」)。また、この地から江戸に向けて船が行き交っていました。一般に、この船は行徳船と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由し、日本橋小網町まで就航していました(約12.6km)。成田講中の人々や行徳産の塩も、行徳船を利用して江戸に運ばれたようです。

また有名な人物として、松尾芭蕉俳人)や渡辺崋山田原藩家老)なども行徳を訪れています。特に渡辺崋山は、「四州真景図巻」という作品の中で常夜灯及び周辺景観をスケッチしています。

明治時代になると、江戸川には蒸気船が見られるようになります。

「成田土産名所尽」という記録には、明治期以降の常夜灯周辺の様子が描かれています。常夜灯周辺が多くの人々で賑わった様子がわかります。そのため、常夜灯は江戸川を行き交う人々の目印の役割もはたしてきたと思われます。

平成21年(2009)、現在地周辺は常夜灯公園として整備されました。

2012年市川市教育委員会

街道の右手に「笹屋うどん跡」。

 

本行徳の笹屋は、江戸時代うどん屋として繁盛した店で、新河岸近くに位置していたため立ち寄る旅人も多く、紀行文などを残す。市川市教育委員会

            

・・・船から降りた旅人はまっすぐ東に進み、つきあたりの「八はた舟はし街道」と記された道(現在の旧街道)を思い思いの目的地へ歩むことになる。ちょうどそのつきあたりに位置していたのが笹屋うどんである。船を利用する者が足を留める所としては恰好な場所であった。紀行文などにもしばしば登場している。
  十返舎一九の『南総紀行旅眼石』〔享和2年(1802)刊〕には、「行徳の里に到り笹屋といへるにやすらひはべる。此處は饂飩の名所にて、往来の人足を留め、饂飩、蕎麦切たうべんことを、せちに乞ひあへれど、打つも切るもあるじひとり、未だそのこしらへ、はてしもあらず見へはべれば、御亭主の手打ちの饂飩待ち兼ねていづれも首を長くのばせり」と記されている。
  笹屋の繁昌は、交通の要衝としての行徳の繁栄を背景にしていたといえよう。・・・

笹屋には店の由来譚を記した六曲屏風が伝えられてきたが、昭和57年当主の飯塚正信氏より当館へ寄贈していただいている。
  由来譚は屏風上部に記された文字とその下に配された絵によって構成されている。物語は源頼朝が石橋山の合戦に敗れ安房国へ逃げ落ちる途中、下総国行徳に漂着したことに始まる。兵糧がつきて行徳に着いた頼朝らに、うどん屋仁兵衛は早速うどんや酒肴をこしらえて出す。これによって軍勢は力を得ることができ、このとき頼朝が笹りんどうの紋を与えたので仁兵衛は家名を“笹屋"と改めたと記されている。このあと話は、千葉介常胤、胤政父子や上総介広常の娘、末広姫をまじえて展開し、笹屋仁兵衛が活躍する場面も設定されている。
  屏風の製作年代は定かではないが、安永6年(1777)に刊行された黄表紙『月星千葉功(つきほしちばのいさをし撰者鈴木吉路、画工恋川春町と内容が著しく類似している点は注目すべきところである。

(この項、「資料紹介  “笹屋"の屏風 小泉 みち子」HP http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kyouiku/rekisi/rekihaku/ronbun/koizumi/koizumi93.htmより)

まだまだ行徳界隈は見所満載です。

※江戸川土手の遊歩道を歩いて、「常夜燈」のところまで来ましたが、行徳街道をそのまま歩くと、二ヶ所、鈎型があります。

                              

1880年代のようす。                  2010年代のようす。上部に「常夜燈」。                           


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