おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

松尾芭蕉。熱田荘。丹羽家。・・・(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その7。)

2015-07-27 21:20:46 | 旧東海道

 「七里の渡し」には、まだまだ興味深いものがあります。


東海道五十三次之内 宮 熱田神事 / 歌川 広重

 熱田神宮の門前町であるが、伊勢参りの旅人も集ったので、たいへん賑わい、東海道の中で最大の宿駅であった。画面は馬追祭の様子であるが、神宮にはこのようなしきたりはなく、御馬献上の行事とも考えられる。天と地を暗い色にすることにより、夜であることがわかる。左の先頭の男の右手を頂点として、紡錐形に右側に広がる構図である。
桑名まで約27.5km

(「知足美術館」HPより・「保永堂版」)

「隷書版東海道五十三次・歌川広重」
     HPより

 「七里の渡し舟着場跡」解説板には、この浮世絵が掲載されています。

    

松尾芭蕉と七里の渡し

 松尾芭蕉(1644~94)は、日本を代表する俳人で「野ざらし紀行」「おくの細道」や「古池や蛙飛び込む水の音」などの句が有名です。
 旅の初期に熱田を度々訪れ、林桐葉(現熱田神宮南門付近)の計らいで、名古屋、鳴海の門人達と交流。七里の渡しから舟遊びで、あゆち潟(愛知の語源)を楽しみ、熱田三歌仙を残しました。

 「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」妙安寺石碑
 「海暮れて鴫の声 ほのかに白し」妙安寺石碑五・五・七
 「なんとなしに 何やらゆかし すみれ草」宮中学校石碑

 子の舟遊びで五・五・七の歌などを開拓し、生涯作風が十二たび変化する「芭蕉の時代」となるきっかけが生まれました。後に名古屋が「蕉風発祥の地」と言われる由縁です。
 また熱田神宮が「蓬莱宮」と読んだのに因み、芭蕉は名古屋を(京都から見て)蓬左として、書状などに度々使っています。

 平成26年11月吉日 名古屋熱田ライオンズクラブ


宮の宿とシーボルト

 ここ宮(熱田)の宿・神戸(ごうど)の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。
 名古屋の本草(ほんぞう)学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトが文政9年(1826)2月オランダ使節に随行して江戸へ参府する際と、4月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。
 彼らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした。

 名古屋市教育委員会

 通りをはさんだところには、宮の宿の賑わいを彷彿させる建物が残されています。

    

熱田荘

 木造・二階建・切妻造・桟瓦葺・平入り・正面庇付で、この建物は明治29年(1896)武藤兼次が建てた「魚半」という料亭であった。太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用されている。
 建造は新しいが、近世の町家形式を継承しており、旧船着場丹羽家(伊勢久)とともに、宮の宿の景観をしのばせる数少ない遺構の一つで、市の有形文化財に指令されている

 名古屋市教育委員会


 
丹羽家住宅

 丹羽家は場期末の頃、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各藩の名のある提灯箱などが遺されている。正面の破風付玄関は、かっての格式の高さを残している。創建は不明であるが、天保12年(1841)森高雅画の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。

 こうして名残惜しいですが、公園でしばらく足を休めて(目の前の川を見ながら、のんびりと)「七里の渡し」を後にしました。
午前8時30分前に「豊明」駅を出発して、ここの到着時間は、午後2時前。けっこうはかどりました。帰途は「伝馬町」交差点に戻って、名城線で名古屋まで出て、新幹線で帰京。夕飯には十分間に合う時間には帰宅できました。

 次回は、桑名宿への行き方は、

・その名の通り、海上七里を船で行く(ツアーがあるようです)←貸切でけっこう金額は高い。
・「国道1号線」(江戸時代初期の海岸線)を行く。←基本:マイカー。
・「国道23号線」(江戸時代後期の海岸線)を行く。←基本:路線バス乗り継ぎ。
・「明治東海道」跡(明治初期の「東海道」。これは興味深い道筋)を行く。
・「佐屋街道」(「七里の渡し」を経由しない陸路。これも興味深い)を行く。
・名古屋から鉄道で移動。

 等の方法があるようです。
 この中で一番楽な方法「桑名まで名古屋駅から鉄道で移動」にしました。次回は、42番目の宿場・桑名宿~となります。


1880頃のようす(「今昔マップ」より)。↓がこの頃の「東海道」。○が「七里の渡し」。


現在のようす(「今昔マップ」HPより)。


《補足》

 現在熱田神宮がある場所(名古屋市熱田区)は、縄文・弥生時代は岬のようになっており、名古屋市の熱田神宮以南は海の中にありました。
 7~8世紀頃、熱田神宮から木曽川河口には広大な干潟が広がっていました。
 江戸時代の初めには、熱田神宮(名古屋市熱田区)のあたりから、下之(しもの)一色(いっしき)(名古屋市中川区)という町まで海岸線でした。
 江戸時代に入り、米の生産拡大のために熱田区以南の新田開発が進んできました。江戸時代初期の海岸線は東海道(現在の国道1号線)のあたりでしたが、江戸時代後期には現在の国道23号線付近まで干拓が行われていたものと考えられています。現在の藤前の土地や永徳(現在の稲永スポーツセンター(名古屋市港区)がある土地)という場所は、江戸時代末期に干拓されたようです。

(以上「環境省」HPより)

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