十悪五逆の悪人こそ救われるの教えから東国では何をやっても救われ浄土へ行けると、悪の意味を拡大解釈して造悪無碍(悪をはばからずさわりなし)の思想がはびこっていると。
悪人のことばがはっきりしない。世の中は善行は救われ、悪行は地獄というのが知れ渡っている。
しかし、仏法では動物の生命は考えても、草や木に生命があるとしなかったが、果たしてそうかと疑問に思い、親鸞は一木一草にも生命があり、畑のナスをもぎ大根を抜く時には言葉にならない痛みを感じるという。
法然の浄土宗の親鸞の悪、禅宗の道元の悪を考えると
道元の悪では殺生は悪、不殺生は善とするが、いかなる殺生その行為では悪とは言えない、また、不殺生も無条件で善とは言えないという。道元は殺生は罪相としながら、不殺生も等しい絶対の姿として即ち空そのものの真の姿で善であるという自力の世界観である。
それに対して、親鸞の絶対悪は悪人正機説で唯円歎異抄の三で、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。・・・」とある。親鸞は他力の立場で、殺生という行為は宿業によるものであり、絶対的な意味では善でも悪でもない他力の世界観である。
この善悪は宗教的絶対的世界観でさとりの世界への志向で成立するものであり、道徳倫理上の善悪は日常の生活では自明のものとして受け取るべきものである。
悪人のことばがはっきりしない。世の中は善行は救われ、悪行は地獄というのが知れ渡っている。
しかし、仏法では動物の生命は考えても、草や木に生命があるとしなかったが、果たしてそうかと疑問に思い、親鸞は一木一草にも生命があり、畑のナスをもぎ大根を抜く時には言葉にならない痛みを感じるという。
法然の浄土宗の親鸞の悪、禅宗の道元の悪を考えると
道元の悪では殺生は悪、不殺生は善とするが、いかなる殺生その行為では悪とは言えない、また、不殺生も無条件で善とは言えないという。道元は殺生は罪相としながら、不殺生も等しい絶対の姿として即ち空そのものの真の姿で善であるという自力の世界観である。
それに対して、親鸞の絶対悪は悪人正機説で唯円歎異抄の三で、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。・・・」とある。親鸞は他力の立場で、殺生という行為は宿業によるものであり、絶対的な意味では善でも悪でもない他力の世界観である。
この善悪は宗教的絶対的世界観でさとりの世界への志向で成立するものであり、道徳倫理上の善悪は日常の生活では自明のものとして受け取るべきものである。