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テロと宗教戦争と日本

2017-11-02 01:06:49 | 時事問題

なぜ日本にテロが(ほぼ)ないのか

永井津記夫  

  前のブログでも言及したが、テロを防止するために先進国の中で一番ととのった文化的・宗教的背景と体制を持っているのは日本であると言って過言ではないだろう。このことに日本人自身が明確には気づいていない。なぜなら、この体制は16世紀末にほぼ達成されて日本人には当たり前のこと(伝統的習慣)になっているからである。

  この状況の要因は三つある。

  第一は日本が遠い昔(6世紀末)に仏教と神道の宗教戦争(=第一次宗教戦争)を終え、神仏を習合しえたことである。具体的には、仏教が新しい宗教として国家的に認められ、神道を護持する勢力から排除をされることがなくなったということである。つまり、仏教と神道が共存する時代になったのだ。

  第二は、戦国時代の16世紀後半に“天下布武”のスローガンの下、日本の統一を押し進めた織田信長が武装宗教集団を破壊し(比叡山焼き討ち[1571]、伊勢長島一向一揆の殲滅[1574]、石山本願寺の攻略[1570-1580]など)、宗教勢力が政治権力に抵抗できないことを思い知らせ、“政教分離”を徹底したことである。信長が比叡山を焼き討ちする前に、第二次宗教戦争とでもよぶべき争乱が起こっていた。法華宗徒による山科本願寺焼き討ち[1532年]、比叡山による法華宗(=日蓮宗)寺院二十一寺院本山の焼き討ち(天文法華の乱:1536年)など戦国大名を巻き込んだ激しい宗教戦争(殺し合い)が起こっていたのである。

 戦国時代の宗教集団は武装宗教集団であり下手な戦国大名よりも強力な軍事力を持っていた。信長の比叡山焼き討ちも政治的経済的特権と武力を持った武装宗教集団との戦争という文脈で考える必要がある。信長は宗教集団を屈服させた後、彼らが政治権力に逆らわない限り、布教等の宗教活動は認めた。

  第三は、信長のあとを継いで、日本統一を達成した豊臣秀吉が農民から武器を取り上げたこと、いわゆる“刀狩り”を行なって“武”と“農”を分離したことである(当時の農民は“半”武装集団であった)。また、彼は宗教集団の武装解除もさらに徹底した。キリスト教に関しては、最初は信長と同じくその布教を許していたが、スペインとポルトガルが領土的野心を持っており、他国においてキリスト教の布教にともなってその土地を植民地にしていることと、ポルトガル商人が日本人を含むアジア人を奴隷売買していることを知り、バテレン追放令を出し(1587)、そして、1596年に禁教令を出した(注1)

  秀吉の後を承けた徳川家康は、完全に宗教集団(寺社)と一般国民(農・工・商)が武器を持たない状況をつくり出し、政治権力の絶対性を確立した。家康自身も三河国の領主であった時に一向一揆に直面し、家臣団の半分が一向宗門徒側につき、領国を二分する戦いとなり、政権が危機的状況に陥ったことがあった。それゆえ、家康は宗教集団の恐ろしさを実体験しており、宗教組織が政権に関与する形のまったくない国家をつくり出したのである。その政治体制、つまり、徳川幕府は270年間継続し、島原の乱を除けば、宗教的にも安定した、犯罪の非常に少ない、世界に類のない安全な国家を生みだした。

  徳川幕府を倒した薩長連合政権の明治政府は、武家政治の中では、政治の最高権力者を承認する権威として機能していた天皇を形式的に最高権力者に担ぎ上げ、その権力と権威を利用する政治体制をつくり出した。権威と権力を誇示するために、天皇家と深く結びついて保持されていた神道を国家神道として“国教”の如く振る舞わせた。皇祖神アマテラス大神の直系の子孫である天皇を最高神とする“一神教”をつくり出し欧米列強のキリスト教による一神教の世界と対抗しようとしたのであろう。信長・秀吉・家康という三人の戦国時代の英雄がおそらく世界ではじめて達成した完全な“政教分離”の政治体制を、明治政府は“王政復古”の名のもとに、廃仏毀釈を敢行し、神道に国教の地位を与え、それまでに確立していた政教分離の体制を御破算にしようとした。しかし、仏教を弾圧・禁止することはできず、飛鳥時代、奈良、平安の時代を経て、鎌倉から江戸時代まで続いてきた神仏習合、神と仏が共存する形態(これが日本の伝統である)を根本的に変えることはできなかった。

  この明治の新体制は、天皇制という観点から見て、日本のそれまでの伝統にない体制である。天皇が政治権力においても宗教界においても最高の地位を持つ存在となったのである。

  天皇が最高権力者の地位にいる体制は過去において存在した。雄略天皇の時代(5世紀後半)、天智天皇、天武天皇の時代(七世紀後半)を見れば明らかのように天皇は絶対権力者であった。雄略天皇は有力な皇位継承者である兄弟と従兄弟を皆殺しにして皇位につき、皇位についたあとも気にくわないことをした側近などを何名も斬り殺している。恐ろしい絶対権力者であった。奈良時代には、聖武天皇が仏教を国家鎮護の柱として国政を運営しようとした。東大寺が所蔵していた『聖武天皇勅書銅板』に、菩薩戒弟子皇帝沙弥勝満」と聖武天皇は称していて、彼は自己を菩薩戒を受けた仏弟子」とし、仏より下の存在としており、自己を“最高神”とはしていない(中国南朝・梁の武帝は自らを「三宝奴さんぽうのやっこまたは仏奴ほとけのやっこ」と称した)。平安時代に入り、桓武天皇から数代の天皇は実際上の最高権力者であったが、その後、実際の政治権力は摂政、関白の地位についた貴族がにぎった。宗教的には神仏の習合がすすみ、鎌倉、室町時代と武士政権の世となり、実際上の政治権力は武士がにぎり、天皇は武士の棟梁を“征夷大将軍”に任命する“権威”を有する存在でしかなくなった。「本地垂迹説」が広く行き渡り、神仏の習合は深化した。

  歴史的に見て、平安時代に藤原良房が866年に摂政についてから明治時代の始まる前まで、天皇が政治権力の座から離れ、政治権力をにぎる筆頭者を任命する権威としての役割を果たし、神仏が習合し、神道と仏教が争わない形が千年ほど継続したのである。日本の伝統を尊重すると言う“保守”と自称する人たち(政治家も含めて)の言動を見ていると、彼らの言う“保守”は、千年続いた天皇制と神仏の習合する社会形態ではないようである。

  薩長連合勢力がつくった明治政府は、秀吉と家康が禁じていたキリスト教を解禁し、四民平等の社会を実現したという点で徳川幕府より近代的な社会であると言えるのであるが、仏教を禁止・弾圧こそしなかったが廃仏毀釈を容認し、神道を国教とし廃仏を押し通そうとする勢力に加担した点において、信長・秀吉・家康という戦国時代の覇者が築いた完全なる“政教分離”を逸脱する政府であり、軍部が国政の主導権をとってからの日本は国家が神道を擁護し、天皇を現人神として最高神に祭り上げる形となったのである。そして、天皇の絶対権力を利用した軍部の“独走”によって、日中戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)に突入し、三百万人を超える死者(軍人と民間人を合わせて)を出し、日本国内の主要都市は焦土と化し、破滅的な結果を生じた。

  日本人は、なぜ、太平洋戦争に敗れたのか、その原因は何か。軍事戦略的な敗因は何か。思想的、宗教的背景に原因はなかったのか。日本は、国家としても軍(自衛隊)としても太平洋戦争の敗因をきちんと分析・反省せず、米軍の物量作戦の前にどうしようもなかったのだというようなことを言う人が多い。しかし、それでは、“反省”にもならないし、建設的でもない。

  宗教的見地からは、日本(大日本帝国)と連合国との太平洋戦争における戦いは、天皇を最高神とする“一神教”とキリスト教という一神教を奉じる欧米との戦いであった、と私は考えている。当時の日本のスローガンである「八紘一宇(全世界を一つの家とする)」も天皇を最高神とする一神教から出てきた考えであろう。日本の伝統からはずれた数十年の歴史しかない明治維新後の日本の“一神教”は千年以上の歴史を持つキリスト教という一神教に敗れたのである。「八紘一宇」のスローガンは立派であるが、にわかづくりの一神教では、ローマ帝国が公認してから1600年以上にもなるキリスト教の一神教には敵わなかったのである。仏教を国教のように考えていた聖武天皇でさえ自己を「仏弟子」としていたのに昭和10年代の軍部と神道勢力は天皇を「最高神」に祭り上げたのである。明治初頭の神道勢力は江戸時代の仏教優遇政策に怨念をいだいていたためか過激な廃仏毀釈と仏教排除を行なおうとしたが、仏教勢力の抵抗によって後退をよぎなくされた。その後、神仏習合の状態はある程度保たれていたのであるが、日中戦争から太平洋戦争に突入する過程で、軍部と連携することによって神道勢力が明治時代初頭に目指していた天皇を最高神とする国家神道の形ができあがったのである。「日本は神国であり戦争に負けることはない」という意識を植え付けた結果、敗戦後の神道は大きな痛手を受けた。これは、神道の“神々(最高神とされた天皇も含めて)”がけっして悪いわけではなくそれを奉ずる不完全な人間の側に責任があるのだ。

  一神教は危険な宗教となりえる。一神教そのものが悪であるとか、その神が悪いということではない。「愛」を説くキリスト教はすばらしい宗教である。イスラム教もまた然り。が、それを奉じる人間は不完全な存在であり、神を利用して、異教徒や異なる考えを持つ人々を排除し、殺害、虐殺も行なってきたのだ。また、その宗教の信徒である商人の中には奴隷売買を商いとするものがおり、アフリカ黒人やアジア人を奴隷として売買していたが、彼らの所属する国家は奴隷売買を容認または黙認していた。秀吉がキリスト教を弾圧・禁止にした大きな理由の一つにポルトガル人による日本人の奴隷売買を知ったことがあった。

  日本人の宗教にかかわる考え方の深層を形成しているのは、古来からの神仏習合であり、信長、秀吉、家康が成し遂げた世界初の完全な“政教分離”政治の確立と、武装宗教集団の武装解除と、農民(人民)の刀狩り(=武装解除)である。

 イラクではイスラム教のスンニ派とシーア派の間で激しい対立があり、武力衝突、殺し合いが今でもおこっているが、日本では日蓮宗門徒と浄土真宗門徒のあいだで対立が起こり、武力衝突、殺し合いになることはあり得ない。現在、日本人は宗派間での虐殺のようなことは夢想だにしない。しかし、これは信長、秀吉、家康のつくった国家体制のお陰であって、戦国時代には激しい宗派間の争いがあり、虐殺も行なわれたのである。

 もし、人を殺すこともよしとするほどの信仰心を持っているのが宗教的な人と言うなら、戦国時代の日本人たちは非常に“宗教的”な人たちである。日本人はよく宗教心がないと言われるが、私に言わせれば、日本人は殺し合いを許容するような段階の宗教から抜け出した、一段階ワンランク上の宗教心を持った人たちである。その宗教心は、聖徳太子時代の宗教戦争以後の“神仏習合”の過程のなかで培われてきたものである。日本人はもう少し宗教心についても再考し、自信を持つべきであろう。

  日本の宗教的伝統は神仏習合である。 明治維新後、太平洋戦争敗戦までは神仏習合を悪とみなし、仏を排除し、神を第としようとした時代であり、日米戦争に敗れ、300万人以上の戦死者を出し、焼夷弾と原爆によって国土は焦土と化した。戦後のGHQによる宗教改革、つまり、神道の国教という資格の剥奪は、神仏習合の初期段階である“神仏共存”にもどしたのである。現在は明治以前の1000年以上続いている“神仏習合”にもどりつつある状態と言えるだろう。

  神教が国家に浸透している国家やイデオロギー中心の無神論を国是とするような国家は、他に対して(自国民の反対派も含めて)排他的であり寛容ではないゆえ、世界の指導的地位を占めるのは世界にとって良くないことであるし、危険なことであろう。これらの国はテロが多発し戦争を引き起こす可能性が高いのである。とくに、神仏を否定するようなイデオロギー国家、共産主義国家などは三世代(=90年)もたないと言う人がいるが私もその通りだと思う。日本の伝統である“神仏習合”の宗教的状況は一時期の例外(昭和十年代から敗戦まで)を除いて世界が見習うべき形態であり、世界に広まるべきものであると私は考えている。

  

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(注1) 秀吉がバテレン追放令を出し、キリスト教の布教を禁止した。キリシタン大名の大村純忠が長崎港とその周辺地区をイエズス会に寄進し、そこがローマ教皇領になっていたが、秀吉はそれを簡単に取り戻すことができたのであるが、それはなぜか。前のブログでも書いたように徳川幕府がいわゆる鎖国政策を行ない(朝鮮と中国とオランダとは貿易は許可していた) 、他国と通商を禁止することができたのは、秀吉から家康の時代にかけて鉄砲の総数はスペインやポルトガルの比ではなく、おそらく世界最高であり、動員兵力数もヨーロッパ諸国の数よりも圧倒的に多かったことがある(関ヶ原の戦いにおける東西両軍の総数30万、一方、スペインなどの欧州の国はせいぜい数万)つまり、スペインもポルトガルも日本の世界最高水準の軍事力の前に引き下がらざるを得なかったのである。当時、スペインやポルトガルは南米やインドなどを武力征服し植民地としていたが、自国の国力を背景にした宣教師や貿易商人たちも、日本の軍事力を背景にした秀吉や家康や徳川幕府の命令に従わざるをえなかったのである。徳川幕府の “鎖国政策”は軍事力を背景にした“(軍事)武装鎖国”であった(これはどの歴史研究者も言及していない。拙論「隅田八幡鏡銘文の解読」(『季刊邪馬台国69号』1999年冬号)に「(軍事)武装鎖国」についての説明がある)。(この部分11月12日追記)

天皇陛下が譲位(生前退位)の意向を示されたとき、一部の勢力が強い反対の意向を示した。私はこれを見て驚いたのである。いわゆる“保守”と呼ばれる勢力は陛下の意向をそのまま尊重するものと私は考えていたからである。が、その勢力の意を体する学者や評論家たちは口をそろえて“天皇が個人の意向で退位することは容認できない”という趣旨の意見を出した。私から見ればこの人たちは“似非” 保守である。天皇が絶対権力を持っていた時代なら、天皇の意向に逆らうわけであるから斬り殺されても仕方がないことになる。

 天皇の譲位は江戸時代まではかなり繁雑に行われた。『日本書紀』によると、最初の譲位は6世紀前半に在位した継体天皇で、譲位の当日に没したことになっているが、次の安閑天皇との間に、記述に従うと2年の空白期間があってこのあたりの紀年が不確実なこともあり継体天皇から安閑天皇への譲位は大多数の研究者が疑問符を付けている。が、その後、645年に皇極天皇が弟の孝徳天皇に譲位したのが歴史的に明確な譲位とされていて、それ以降、五十数人の天皇が譲位をしていて、飛鳥時代から江戸時代まで天皇の譲位はかなり頻繁に行なわれたと言ってよいのである。そして、平安時代の摂関政治が始まり、江戸時代の終わりまでは、天皇は絶対権力者でなく実際の政治権力者を任命できる権威の象徴の存在となり、現行の憲法の「象徴天皇制」にかなり類似した存在であった。

 が、明治維新後の天皇は形式的には絶対権力者に担ぎ出されたのであるが、担ぎ出した薩長連合勢力は平安時代の摂関政治を行なった貴族の如く実権をにぎり、それまでの神仏習合の宗教政策を否定する形の、天皇を最高神とする神道国教化政策をすすめ、昭和の初頭から戦争への道を進んでいった。そして、敗戦という大きな破局に至ったのである。

 明治維新から太平洋戦争の敗戦までの天皇制は、神仏習合の日本の伝統に反する、政教分離の日本の伝統にも反する「特殊な天皇制」で、日本の伝統とはとても言えないものである。が、現在、一部の自称“保守”勢力はこの特殊な「天皇制」を正当なものと見なしているようである。もし、これが “神仏”に祝福されたものであるなら、明治維新から昭和二十年の敗戦までの78年間で国が壊滅するような結果、数百万人もの日本人が戦死する結果を招かなかったはずである。

 もし、私が現憲法下で真の保守を規定するとするなら宗教的には神仏習合を唱道・擁護し、完全な政教分離の政治権力をつくることを本分とし、権威の象徴として存在する天皇を主権者の国民が保持することを追求する人々である。

 ※一人や二人の“天才的”思想家が30年、40年考察を続けてつくり出した考え(イデオロギー、哲学)は一時期、広まることはあっても永続することはむずかしい。なぜなら、天才は一方面(あるいは複数の方面)の現象をよく分析することはできても、複雑な人間性の分析を完全にすることはできないからである。共産主義国家が80年足らずで崩壊したのもマルクスの分析の及ばないところがあったからである。人間が三、四十年かけて考え出した思想など千年、二千年の歴史を積み重ねてきた伝統的思考や宗教的思考に及ばないと考えたほうがよい。明治維新後の天皇を最高神とする一神教も神道学者の一部が考え出したことであろうが、千年の重みを持つ“神仏習合”の伝統には及ばないものである。(*ここで、私が思い出すのは『北斗の拳』の主人公ケンシロウの台詞である。悪徳非道の圧政王国の支配者、超能力で相手のわざを封じる元グリンベレーの大佐の男とケンシロウが闘った時、「長年の修練で相手の全ての動きが読める」と豪語する大佐を倒したケンシロウは「お前の能力はしょせん二、三十年の訓練の成果だ。オレの北斗神拳は二千年だ」と言い放った。つまり、たかだか四、五十年の人間の思考成果など、千年、二千年の歴史の重みと智恵にはかなわないということである)

歴史は勝者の歴史である。勝者は敗者の歴史を良く書くことはない。前政権を倒して新政権ができるわけで、新政権は前政権を“悪”と見て、打倒したのだから、前政権をよく書かないのが常であろう。徳川幕府の行なった経済政策、文化政策、教育政策、軍事外交政策も基本的な見直しが必要であろう。明治政府によってすべてが歪められている可能性がある。

 明治維新政府は徳川幕府政権を否定し打倒して成立したのであるから、江戸幕府の制度や政策をよく言うはずがない。

 戦後、日本を占領し支配した米国のGHQも戦前の日本の政権を打ち破って占領に成功したのであるから、日本の諸政策、行動のほとんど全てを否定していることは確かである。大日本帝国憲法、教育制度、経済政策、文化政策、軍事外交政策など、良いものも含めて全て否定していると考えられる。戦前の見直しは必要であるが、明治維新以後、太平洋戦争終結まで良いものと悪いものを峻別して考える必要がある。

 明治維新後の日本の経済的発展、人口の増加など目を見張るものがある。これらがGHQとそれに便乗する〝自虐史観〟を持つ論者によって不当にゆがめられていることがある。私は、明治維新体制は八十年たらずで太平洋戦争に敗れ、国土は焦土と化したのであるから、根本的に大きな欠陥を有していたと考えているが、身内を卑下し貶める〝自虐史観〟の中にいる日本人の言動や日本が戦争に至った経緯や行動をすべて悪と見る米国の占領政策を断行したGHQのやり方を是認してはいない。

日本の歴史については、縄文時代から昭和時代まで、日本人の身内を悪く言ったり、謙遜したりする“自己卑下”傾向のために曲がっている場合が多くある、つまり、正当な評価を受けていない場合がかなりある。日本の歴史書『日本書紀』の記述のほとんどはその時点の為政者から見た“事実”を記したものと私は考えているが、人間(勝者)は自己行為を正当化する存在であることを忘れてはならない。が、古代(欽明天皇以前)の紀年については書紀の編者が「辛酉革命説」を信じすぎたためにかなりゆがんでいると考えなければならない。詳細はここでは述べないが、安本美典氏が説くように神武天皇の即位年は西暦290年頃と私は見ている。書紀では神武天皇の即位年は紀元前660年となっているので昭和15年に皇紀2600年ということで盛大な祝賀行事なども行われたが、書紀の紀年を安本説によって(私見も加えて)修正すると、現在は皇紀1727年となる。それでも日本は現存する世界最長の皇室(王室)を有する国である。

 また、隣の朝鮮と中国の歴史も正確に学ばなければならない。李氏朝鮮の歴史や奴隷の存在する身分制度についても日本人としてよく理解する必要がある。また、日韓併合後の日本の統治時代の歴史も正確に知る必要がある。中国についてもその歴史をよく理解しなければならない。共産党中国が文化大革命などでどれほど多くの人民を殺したのか、チベット民族への弾圧と虐殺、ウィグル族に対する弾圧、虐殺なども冷静に正確に知る必要がある。そして、国家としての朝鮮や中国を非難することが必要になる。戦後、誕生した韓国、北朝鮮も自国の歴史を無視して、日本を非難している場合がある。日本は政府みずからでなくとも何らかの組織を通じて日本人式の遠慮や内弁慶的傾向(外国人の非を咎める勇気がない傾向)を払拭して中国や韓国や北朝鮮の非を咎める必要がある。ただし、その政府を非難するのであって、その国民は国家によってゆがめられた歴史を教えられているとして責めないほうがよい。インターネットなどでは、韓国人や中国人に対して聞くに堪えないような罵詈雑言を浴びせている場合があるが、これは止めるべきだ。日本人の品位を下げることになる。非難するなら、国家や政府を非難すべきである。

 実体験を持たない子供が国家教育によって虚構の日本の非道を教え込まれると、実際に体験した人以上の激しい怒りや怨みをいだくことになる場合が多々ある。これは不幸であり、その世代が大人になり政権の中枢を占めたとき戦争を引き起こしかねない危険な状態である。想像で日本に怒り、怨み、復讐心をいだく中国や韓国の若者をつくり出さないために日本政府や外務省は真剣に中国や朝鮮の歴史とその非道を明らかにすべきである。沈黙していても問題の解決にはならない。真実が明らかになれば困るのは中国であり、韓国である。遠慮はいらない。要るのは日本人に欠けている勇気である。

 海外に在住する韓国人や中国人が日本に怨みや怒りをいだき中韓連合反日団体となって海外の都市に従軍慰安婦像の設置をやっている。彼らの多くは祖国に希望を失い祖国を見限って外国に渡った連中である。祖国を恨むならまだしも日本を恨むのは筋違いだと私は思うが、祖国に対する怨念が叩きやすい日本にすり替わっているように思われる。日本はこのような連中を生み出さないためにも中国共産党の人民虐殺や少数民族虐殺の非道と朝鮮の非道(李氏朝鮮の人民に対する非道、北朝鮮で進行している強制収容所の惨状など)を明確に日本人に知らせるようにすべきである。ただし、日本の子供(若者)に中韓に対する怒りや怨みをいだかせるような教育などをすべきではない。

※参考:

  How to Teach Other Countries’ Atrocities to the Next Generation

  外国の非道をどのように次世代に伝えるか

 

 


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