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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

二つの契約 13

2013年03月18日 | 日記

            庭の馬酔木がたくさんの花をつけました。少し香りもします。   

   ひまわりさんより(3月18日)

今日の日課の言葉をご紹介いたします。「聖書のいう清めを経験する者は、謙遜の精神をあらわす。彼らは、モーセのように、聖なるおかたのおそるべき威光を眺め、無限のおかたの純潔と崇高な完全さとにくらべて自分たちの無価値なことを認めるのである。・・・

現在、宗教界において注目を集めている清めには、自己称揚の精神と神の律法の無視とが伴っており、このことは、それが聖書の宗教とは異なったものであることを示している。その主唱者たちは、清めは瞬間的な業で、信仰だけによって、完全な清めに到達すると教えるのである。彼らは、「ただ信じなさい。そうすれば、祝福が与えられる」と言う。・・・     それとともに、彼らは、神の律法の権威を拒否し、自分たちは戒めを守る義務から解放されたと主張する。しかし、神の性質とみ旨の表現であり、何が神のみこころにかなうかを示している原則に調和せずして、人間は、神のみこころと品性とに一致して清くなることができるであろうか」『各時代の大争闘』下巻198~200p  

私たちは、地上のことでも、本当に尊敬する人に出会ったら、その人のようになりたいと思うようになります。そのように、神様を愛する心を頂いたら、神様のご品性を表したいと思うようになるのだと思いました。

     イエス様は勝利の模範(デビット・カン講演13)

私たちが新しい契約のうちにあるとき、そういう人は罪に定められることがないのです。私たちが新しい契約のもとにあるならば、罪の奴隷とはなっていないわけです。イエス様は、アダムが堕落したあとの性質をとってこの世においでになりました。遺伝の法則によって、あらゆる弱さ、罪深さというものを、彼は背負ってこの世に生まれてこられました。しかしイエス様は聖霊に満たされていました。そしてご自分の罪深い肉を、常に聖霊に屈服させて歩まれたわけです。ですから彼は完全な勝利者として、一度も、ただの一度も罪を犯すことなく、生涯を全うされたわけです。


二つの契約 12

2013年03月17日 | 日記

 

     ひまわりさんより(3月17日)

今日は、次男の学校の保護者会の役員会で、夫とともに東京へ出かけました。午前中会議で、夕方は長男と夕食をしながら2時間半ほど信仰のことについて話しをしました。そこで、クリスチャンの証というのは、イエス様によって罪を赦していただいたということだけでなく、罪に勝利させていただいた経験であることなどを熱く語り合いました。黙示録14章の「永遠の福音」は、永遠を失わせた原因である罪に勝利する経験を与えるものだと思います。罪に勝利する体験を深めていただき、イエス様の義が、しっかりと自分の中に根付くようにすることが、今自分たちに一番必要なことだということを、語り合いました。親子でこうして信仰について語りあい、励まし合うことができて感謝しました。

      命のみたまの法則とは

私たちは、皆、良い目的、よい意図は持っているのです。しかし、しばしばサタンが私たちに勝利します。私たちは罪によって、罪の性質によって打ち負かされてしまいます。次のローマ人への手紙8章1,2節では、「こういうわけで、今やキリストは・イエスにある者は、罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにある命のみたまの法則は、罪と死の法則からあなたを解放したからである」 この節の中の、キリスト・イエスにある者というところでは、日本語訳では省かれている言葉があります。欽定訳では、「肉によって歩まず、霊によって歩む者」とあります。キリスト・イエスにある者とは、聖霊に従って歩いている人たちです。肉の命令に.聞き従わない人達のことです。イエス・キリストにある者というのは、そのような人たちのことです。


二つの契約 11

2013年03月16日 | 日記

 

         森で見つけたセリ  

   ひまわりさんより(3月16日)

今日の午後は、お天気が良かったので、久しぶりに近くの県民の森へ散策に出かけました。静かな森の中を抜けて、今日はいつもと違う道を通ろうと、車が1台通れるぐらいの狭い林道を歩いていたら、小さな湿地がありました。私が、「こんなところにセリが生えてないかしら」と言ったら、夫も同じことを考えていたそうです。そしてよく見たら、本当に小さなセリがたくさん顔を出していました。さっそく夫と二人でせっせと摘みました。日当たりが悪いせいか、少し細身の華奢なセリでしたが、家に持って帰っておつゆの中に入れて少し苦みのある味を楽しみました。今までセリなど食べたことのない息子も、「春の味だね。おいしい」と言って食べてくれました。最近我が家では、だんだん加工食品よりも、自然の物をそのまま食べることが人気になってきました。もしかすると、神様を通して嗜好も変えられていくのかもしれません。食料危機の時代に備えさせられているようにも思います。

  朝の散歩の途中にはカワズ桜が満開でした

     罪に勝利する道は?(デビット・カン講演11)

ローマ人への手紙7章6節を読みます。「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」

私たちが死んで、古い文字によってではなく、新しい霊によって、とあります。ここでパウロは、古い契約と、新しい契約について述べているわけです。7章19節を読みます。「すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている」 パウロは、自分は義人になりたいのに、なれないでいると叫んでいるのです。善を行いたいのに、自分が行いたくない悪を行ってしまう、24節で叫びをあげていますね。「わたしはなんというみじめな人間なのだろう、だれがこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」 わたしたちは、この死の体にとどまっていて、それを脱げないでいるわけです。解決は何でしょうか。このような問題に、どのように勝利できるでしょうか。

 


二つの契約 10

2013年03月15日 | 日記

        世界らん展より

   ひまわりさんより(3月15日)

王は答えて言った、「しかし、私の見るのに4人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、何の害をも受けていない。その第4の者の様子は神の子のようだ」(ダニエル3:25)

・・・・・

「この三人のヘブル人は本当に聖化されていた。真のクリスチャンの原則は結果を思いはかることをしない。もしもわたしがこうすれば人々はわたしのことをどう思うだろうかとか、もしそうするならわたしの世的な可能性にどのような影響がでるだろうかと問わない。神の子らは、最も熱烈なあこがれを持って自分たちの働きが神に栄光を帰すことができるために、神が何を自分たちにおさせになりたいかを知りたいと願う。主は、ご自分に従うすべての者の心と生活が神の恵みによって支配されうるようにと十二分な備えをしておられるが、それは彼らが世の中で燃え輝く光となることができるためである」(E・G・ホワイト)

このような記事を読んでも、今までは他人事のように感じていました。でもこの三人の姿は、最後の時代に、生きてイエス様を迎える人たちの心の状態であり、私たちが大きな艱難を乗り越えなければならない時の、神様の導きの約束、励ましとして書かれたのだと思い感謝しました。

     二つの契約 10 福音の力を求めよ

皆さんは、今どんな問題をかかえておられますか。罪深い何らかの習慣をまだ持っておられますか。勝利するのに、困難を覚えている何らかの習慣がありますか。お金ですか。プライド、誇りですか。何らかの娯楽ですか、自分の短気とか癇癪ですか。どんな問題がありますか。何であれ、イエス様に捧げましょう。そして、福音の力を下さいと、お願いして下さい。イエス様は、間もなくおいでになるにちがいありません。現在のこのような状態で、世界が長く続くわけがありません。

次に、ローマ人への手紙7章1~6節です。ここには二人の夫が出てきます。女性が男性と結婚して、夫を持ったら、その夫が死なない限り、第二の夫を持つことはできません。そして、使徒パウロは、人間を、律法と結婚した女性という形で描いていて、彼女は、その良い行いによって、つまり、律法に従うことによって救われようとしているというのです。そのような人間が、イエス様と再婚するためには、最初の夫が死ななければならないわけです。

     


二つの契約 9

2013年03月14日 | 日記

                        庭の沈丁花(白)が咲きだし、甘い香りを漂わせています
    ひまわりさんより(3月14日)

今日も、午後からデイサービスでの機能訓練に行きました。今日は5人の方の個別機能訓練を行いました。その中で、Kさんは、以前からデイを利用しておられたのですが、最近脳こうそくのため入院し、退院とともにまたデイへ来られるようになった方です。自分の手足が不自由になり、思うようにしゃべったり、考えたり、字を書いたりすることができなくなり、心身共に不安を抱えておられました。この方に、どんなサービスをしたらいいか話を聞いていたら、この方は小さい時から股関節脱臼があり、体のあちこちに無理が生じ、そのためにいつもどこかが痛かったということでした。痛みをなくすため、いろんなマッサージを受けているうちに、いつの間にか体のどこを押すと痛みが消えるか、どこを押すと楽になるか分かるようになり、入院する前は、他の方にやってあげていたのだそうです。時には電話で、「ここが痛いんだけどどうしたらいい?」と聞かれることもあるそうです。確かに、指の力も強く、押してもらうと、ツボにピッタリ来て気持ちよくなりました。そこでこの方には、こちらがやってあげるのでなく、やってもらうようにお願いしました。するとKさんは、「あなたは体を使うから、こういう所が固くなるのよね」などと言いながら、生き生きと一生懸命やってくれました。こういうリハビリがあってもいいのだなと思いました。

     福音とは勝利の力(デビット・カン講演10)

では福音とは何でしょう。福音とは神の力、私たちに勝利を得させる、救いを得させる神の力なのです。誘惑がやってきたとき、私の肉が「こうしろ」と命じる時、「ノー」と言えるわけです。堅く、「ダメだ」と言えます。神様の恵みによって、私たちは、自分自身をコントロールできるようになります。そのような時に、聖霊が不思議に働いてくださるわけです。そして、意志力が強められます。そして、どういうわけか、私たちは、聖霊の働きによって、喜んで神様の命令に、戒めに、進んで従いたいという思いになるのです。そして、イエス様に従うのを、好むようになります。なぜなら、イエス様を知っているからです。このあわれな魂を救うために、どれほどのことを彼がしてくださったかという事を、知っているからです。そのようにイエス様を知るということが、皆さんの永遠の命なのです。