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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ  59

2013年07月21日 | 日記

  

  59

IV.聖所:聖化の経験

 

 罪人が外庭において、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)を凝視し、回心して清められた後は、(信仰によって)第一の部屋である聖所に入る。ここで彼は、良心をどのように清く保つかを学ぶ。それゆえ、聖所は聖化の過程を象徴している。これは、救いに不可欠である。救いというのは、一度受けたら永久にそのまま維持されるものではない。救いは神の恵みであり、私たちへの賜物であるが、それが与えられるときには、心の中で特別な変化〔変質〕が起こる。そしてそれは、何らかの方法で維持されねばならない。「一度救われれば、常に救われている」などというものはないのである。

 私たちは、神の力と恵みにより、毎日この経験を保持しなければならない。ゆえにキリストにあって生まれ変わり、日ごとに贖いの経験をしなくてはいけないのである。この真理は、ヨハネによる福音書15章のブドウの木の譬えに見出される。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5)。

 

  説教集:どうしても愛せない時 ⑥ 赦す心はどこから               

 もうひとつ、赦す理由があります。これは旧約聖書の物語ですが、ヤコブという人に12人の息子がいました。そのうちの下から2番目のヨセフという子をお父さんは溺愛しました。それを妬んだ兄さんたちは、ヨセフをエジプトへ奴隷として売りとばしてしまいます。

 エジプトへ行ったヨセフは、神様を恐れつつ真面目に働き、不思議な導きによって総理大臣にまでなります。ヨセフがエジプトへ来てから20年後、ヨセフの兄弟たちは、飢饉のため食料を買いにきて、エジプトの大臣となったヨセフと再会します。自分たちが殺したと思っていた弟と会ったのですから、驚いてしまいました。そして、きっと昔のしかえしをされるに違いないと恐れるのです。しかし、兄たちの心配をよそに、ヨセフはこう言いました。

 「わたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うためにあなたがたより先にわたしをつかわされたのです。……神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」(創世記45章5~8節)  

 ヨセフは、自分の人生の背後に神様がおられることを知っていました。自分の受けた幸も不幸も、すべて神様の不思議な導きの中にあることを学んでいたのです。彼は、人間の計略や知恵のいっさいを超えて、神様が人間の運命を支配しておられることを感じていました。それゆえに、兄たちが自分を奴隷としてエジプトへ売ったことも、そのために、さんざん苦労したことも、自分にとって意味のあること、その中から人生の大切なことを学ぶ場だったのだということを実感し、兄たちを赦したのです。

 全く理不尽な、不可思議なできごとの中にも、神様がおられ、神様が導いて何かを教えようとしておられる、そう思える時、私たちは広い心を持ち、人を赦すことができるようになります。そして、私たちを苦しめた、あのこと、このこと、その一つ一つを明るい光の中で見ることができるようになるのです。「自分の人生を導いておられるのは、神様ご自身である」、そう言える人は、どんなことにも、赦しの心を持つことができます。 

  《 あなたの心に人を赦す思いが広がりますように 》


福音の道しるべ 58

2013年07月20日 | 日記

 

  58

礼典律に結びついた洗いと注ぎはすべて、たとえられた教訓であった。それは、違反と罪によって死んだ魂を清めるための、内なる心の再生という働きの必要と、聖霊の清めの力の必要を教えるものであった。

しかし、ゆるしは、多くの人が考えるよりももっと広い意味を持っている。・・・神のゆるしは、罪の宣告からわたしたちを解放する法的行為であるばかりではない。それは罪のゆるしであるだけでなく、わたしたちを罪から救うことである。心を変えるものは、あふれる贖罪的愛である。ダビデは、「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」と祈ったとき、ゆるしということを正しく理解していた。 

もしあなたが献身するなら、彼はあなたの良心を活気づけ、心を新たにし、愛情と思いを清め、彼に奉仕するために、あなたのすべての力を整えて下さる。イエス・キリストはあなたのあらゆる動機、あらゆる思いを支配なさるであろう。 

わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる(エゼキエル362527)。

義認とは、良心が、死んだ業から清められ、聖化の祝福を受けることのできる所に置かれることを意味している。

  説教集:どうしても愛せない時 ④ 愛はどんなときにも赦す

 私たちにとって、人を赦すということは、決してたやすいことではありません。以前、私が住んでいた神奈川県で、当時5歳の牧師の娘さんが、教会に時々出入りしていた青年によって、殺されるという事件がありました。娘さんが夜になっても帰ってこない。心配してずっと待っていると、明け方近くになって、警察から電話が入りました。「お宅のお嬢さんらしい子が見つかったから病院へ来てください」という連絡です。ご両親は取るものも取りあえず病院へ行きました。病室のドアの前でーーそのドアの向こうには、娘さんの亡きがらがあるかもしれないのですがーー奥さんが、旧約聖書の言葉を語られました。

「主が与え、主がとられたのだ」(ヨブ記1章21節)

 「神様が命を与えられたのなら、何か意味があって命を取られるのだから、神様にすべてをおまかせしましょう」。そう言って病室へ入られました。やはり、ご自分の娘さんでした。それからはもう、毎日毎日が、砂をかんでいるような生活だったと言います。ご飯を食べていても味がない。1日が何年にも感じられるようなつらい日々だったと……。

 やっと2年たって、この父親は自分の心境を書けるようになりました。その手記の最後のところに、「被害者の親もつらいけれども、加害者の親もつらいだろう。ご両親にも、イエス様のことを知っていただきたいと、キリスト教の雑誌を送り続けました」とありました。そして、「この2年間、牧師だから赦さなければならないんだとか、あるいは、牧師だから頑張らなけりゃいけないだとか、そういう気持ちじゃなくて、本当に神様に支えられて、人を赦すということを学んできました」と結んでおられました。自分の娘を殺されたら、親としてはもう、相手を八つ裂きにしても足りないくらいではないかと思うのですけれども、神様は私たちが求めるなら赦す心をつくり出して下さるのです。



福音の道しるべ 57

2013年07月19日 | 日記

  57

 テトスへの手紙3章5節から7節の中で、使徒パウロは、外庭の経験における洗盤の役割を説明している。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救い主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである」。

 民数記16章には、250人のつかさらと結託して謀反を起こしたコラ、ダタン、アビラムのことが記されている。神は、彼らを地に飲み込ませて裁きを執行なさった後、彼らが聖所の儀式に用いた真ちゅうの火皿を集め、これらを打ち延ばして祭壇の覆いを作るようにとお命じになった。

 これらの真ちゅう製のうろこは、祭壇に置き去りにしなければならない反逆心を表していた。私たちは、聖霊の恵みとみことばの力により、洗盤で神への反逆心を洗い落とさねばならない。真理の教えによって、洗い清められねばならない。そうするときに初めて、キリストと共に聖化の道を歩むことができるようになるのである。

 

  説教集:どうしても愛せない時 ③ 赦す理由を見つけて赦す

 聖書の教えの中心は、「赦し」ということです。ところが、赦しというと、私たちは、どうしてあんなひどいことをした人を、赦さなければならないのかと思うかもしれません。

 実は、赦すということは、自分を幸せにすることなのです。人を赦さないと、自分自身が不幸になってしまいます。人を赦さないでおくということ、これは大変に大きなマイナスのエネルギーとなります。このマイナスのエネルギーは、私たちの心と体に大きな悪影響をもたらすのです。

 現代では、がんをはじめいろいろな病気がストレスによって起きやすくなることが知られています。人を赦さないという心は、最大、最悪のストレスとなって、私たちをむしばむのです。

 もちろん私たちは、たとえば、「あんな人を赦したら正義もなにもあったものではない」などと思うかもしれません。ある場合には、法律的な手段を行使して罰を与えるようなこともあるでしょう。しかし、基本的には私たちは、相手に対する悪感情(たとえそれが正義のために怒っているというようなものであっても)を持ち続けてはならないのです。そのような感情は必ずその人自身にはね返ってきて、その人の心と体を損なうことになってしまいます。

 さて、ではどうしたら人を赦せるかということですが、クリスチャン・カウンセラーである伊藤重平先生は、「赦すためには、赦す理由がいる」と言っておられます。問題をうやむやにしたり、感情を押し殺して赦したように見せかけるのではなく、何か理由を見つけて人を赦すのです。そうしないと理性が納得しないのです。たとえば、「ああ、あの人があんなに怒ったのは、虫のいどころが悪かったんだ」とか、「誰だって失敗はあるんだから」とか、「まだ若いんだから」、「あの人はあんないいところもあるんだから」、「私もやったことがあるから」と、そのように考え、何か理由を見つけることで人を赦すことができるようになります。

 作家の三浦綾子さんの本にこういうことが書いてありました。三浦さんが若いころ、家族で食事をしていたら、弟さんがあやまって茶碗を落として割ってしまったのです。それを三浦さんがひどく叱ったところ、お母さんは「綾ちゃん、あなたは一回も茶碗を割ったことがないの。そんなにきつく言っちゃだめよ」と優しくたしなめられたというのです。

 人を赦せないと私たちが言う場合、そこには、自分は正しい、自分だったら絶対しない、というような思いがあります。同じ立場になったら、自分だってやるに違いない、と思える人は赦すことができるのです

 聖書の中にこのような言葉があります。

 互いに情け深く、憐み深い者となり、神がキリストにあってあなた方をゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい            (エペソ人への手紙4章32節)。

 これを書いたのは使徒パウロという方です。彼はクリスチャンになる前は、キリスト教の大迫害者でした。その彼がキリストと出会い、心を入れ変えて、宣教者になったのです。彼は自分のことを、別の箇所で、「罪人の頭」(テモテへの第1の手紙1章15節)とも言っています。彼はキリストを知る以前には、クリスチャンを迫害していた、という汚点を生涯忘れることがありませんでした。しかし、このような罪深い自分でさえ、キリストによって赦されたのだから、私たちは誰をも赦さなければならない、と言うことができたのです。

 自分の弱さや罪深さを本当によく知っている人は、他人の過ちを赦すことができるのです。

 


福音の道しるべ 56

2013年07月18日 | 日記

  

 56

F.洗盤

 洗盤は、「大杯」とも「海」とも呼ばれている、大きな、水を満たしたたらい〔水盤〕であった。聖所の務めを始める前と後、犠牲をささげた後、また特に聖所の中へ入る前に、祭司たちはそこで自分たちの手足を洗った。洗盤は真ちゅう製で、この真ちゅうは、信心深い女性たちの鏡から作られたものであった。それは、私たちの品性と心を映し出す、自由の律法を象徴している(ヤコブ1:23-25;Ⅱコリント3:17-18参照)。

 この鏡に見入る人は、聖霊と神の言葉を象徴する水によって、自分の罪が洗い清められたことを認識する。血を流すことによって罪は清められる。そのことが要求されたのは一度だけだが、私たちは日々、水による清めと回心の経験をしなくてはいけない。

キリストが十字架で死なれた後、聖霊が弟子たちを罪から清め、そして彼らに降り注いだ。同様に、聖所へ入る前に、燔祭の祭壇(十字架を象徴)から恵みを体験するための洗盤へ行き、知っているすべての罪から清められねばならなかった。また、キリストが天の聖所に入り、聖職を始められる前に、ペンテコステにおける聖霊の恵みが注がれた。聖化の経験をとおして、信仰によってキリストと共に聖所に入る私たちも、まず十字架のもとで自我に死んで罪を悔い改め、聖霊の恵みをとおして罪を完全に断ち、み言葉で己を洗い清め、聖霊の印を受けなければならない。

  説教集:どうしても愛せない時 ② 赦そうと思えば赦せる

 ある主婦の方が、ご主人の転勤のために新しい仕事を見つけて働くことになりました。慣れない職場で、それなりに一生懸命やっていたのですが時々ミスをしてしまいます。あるとき主任からこっぴどく叱られてしまいました。それはもう、今まで聞いたことがないくらいひどい言葉で、しかもみんなの前で怒鳴られたのです。

 この方は家に帰っても、心が落ちつきませんでした。悔しさと、悲しさで、夜になっても眠れないほどです。そして、「もう明日からは会社に行くのをやめよう」とさえ思うようになってしまいました。ところが、そうしているうちに、ふと心に聖書の言葉が浮かんできました。

「互いに愛し合いなさい。わたし(キリスト)があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13の34節)。

この方はクリスチャンで聖書を学んでおられました。そして、キリストが人を愛し赦しなさいと教えられたことも知っていました。けれども、「あんなにひどいことを言った人を赦すことはできない。いやだ、あんな人は愛せない」と思っていました。しかし、「赦しなさい」という聖書の言葉が心に響いてきます。

心の中で戦いが続き、ますます眠れなくなって、最後に聖書を手にとって開いてみました。何気なく開いたページに次のような言葉がありました。

わが思いは,あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる(イザヤ書55章8節)。

 これを読んだ時、「オヤッ?」と思ったのです。「自分はあの人を赦せない、とうてい愛せないと思っている。でも神様の道は人間の考えとは違うんだよ、と聖書は言っている。自分ではできないと思うことを、できるようにして下さるのが神様ではなかったのか」と思ったのです。

 その次を読んでいくと、12節が目にとまりました。

 あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれていく(イザヤ書55章12節)。

 ここに書いてある、「喜びをもって出きて、安らかに導かれていく」という言葉、これは神様のお約束ではないか。赦せないと思っている自分にこの事を通して何かを教えようとしておられるのではないか、そう考えるようになったのです。

 翌朝になって、この方は、聖書の言葉を信じ神様が何か導いて下さるにちがいないと思いながら家を出ました。そして会社で会ったら、まず自分から挨拶をしようと、けなげな決心をして職場に行ったのです。

 会社のドアを開けたら、きのうの主任が目の前に立っていました。驚いたことにその主任はこちらが挨拶する前に、これまで見たこともないような笑顔で「おはよう」と言ってくれたのです。その瞬間、この方へのわだかまりがスーッと溶けてしまいました。それ以来この主任とは打ちとけて話すことができるようになったといいます。

 朝一番最初に会ったタイミングといい、この主任の態度と言い、まったく、神様のなさったこととしか考えられない、とその方は言います。心から、というわけではないにしても、聖書の教えを思い出し、それに従おうとしていくと、神様は、思いもよらない、素晴らしい解決法を与えて下さる、それがこの方の得た結論でした。

 この方は、自分にひどいことを言った人を愛せない、赦せないと思っていました。しかし、よく考えてみると、本当は、愛せない、赦せないのではなく、愛したくない、赦したくないと思っているのです。私たちは、赦したくないから、赦せないと思うのであって、もし私たちが赦したい、と思えば、赦す心は神様が与えて下さるのです。

 この方は相手を赦せるとは思いませんでしたが、聖書を読んで、赦したいと思うようになったのです。その心が相手にも伝わって、相手の方から声をかけてくれたのではないかと思います。

 人間の心は、目に一番よく表れるといいます。人間は好きな人の前に行くと瞳孔が少し開き、嫌いな人の前ではしぼむのだそうです。「いやだ、あんな人は受け入れられない」と思っていると、顔で笑っていても瞳孔がしぼんでしまうので、それは相手にも微妙に伝わるのです。反対に「赦したい」と思って入ると、「ああ、この人は、私があんなにきつく言ったのに、私のことを受け入れているな、赦しているな」と相手も感じるのです。 先ほどの主任は、瞬間的に自分が受け入れられていることを感じて、この人に笑顔を向けたのではないかと思います。



福音の道しるべ 55

2013年07月17日 | 日記

     

 55

E.愆祭

 愆祭は罪祭と似ているが、誰かが他人の所有物またはいけにえを盗んだとき、あるいは神聖な物を損なったことについてゆるしを求めたときにのみ、愆祭がささげられた。いけにえの他に、罪人は、盗品の返済または被害総額の五分の一を加えた弁償が求められた。「もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、すなわち預かり物、手にした質草、またはかすめた物について、その隣人を欺き、あるいはその隣人をしえたげ、あるいは落とし物を拾い、それについて欺き、偽って誓うなど、すべて人がそれをなして罪となることの一つについて、罪を犯し、とがを得たならば、彼はそのかすめた物、しえたげて取った物、預かった物、拾った落とし物、または偽り誓ったすべての物を返さなければならない。すなわち残りなく償い、更にその五分の一をこれに加え、彼が愆祭をささげる日に、これをその元の持ち主に渡さなければならない」(レビ記6:2-5)。つまり被害額の20パーセントを加えて弁償し、それから愆祭として犠牲をささげたのであった。

 愆祭の儀式のうちに、故意の罪の赦しを得るためのヒントが見られる。とはいえ、聖所の儀式はもともと、知らずに犯した罪、または計画的でない罪のために定められていた。

 知っていて罪を犯した人のために、愆祭に示された手順は、次のとおりである。第一に、罪人は罪を告白し、それから被害を受けた人のところへ行って自分の悪事を告白し、償いをしなくてはならなかった(レビ記6:6-7参照)。この償いの供え物について、もし誰かが神のみ前に供え物をもっていく途中で、兄弟に対して行った不正を思い出したなら、彼はいけにえを残して兄弟のところへ行き、償いをしてから犠牲をささげるべきであると、キリストは言われた。

   説教集:どうしても愛せない時 ①

       妬みと言う名の鬼がいる

 だいぶ前のことですが、私が九州の教会から東京の教会へ転勤することになりました。移転の日が近づくと、生まれも育ちも熊本の田舎育ちの私は、はたして東京でやっていけるかどうか不安になりました。そこで、東京の情報を集めようと新聞のニュースなども、気を付けて東京の話題を探していました。そうすると、そのうちにたいへんショッキングな事件が掲載されました。

 私の行く教会のすぐ隣の市で殺人事件があったのです。ことの起こりはこうでした。ある団地に向かいあって住む二つの家族。ご主人も、子供たちの年齢もほとんど同じくらいです。ただ、片方の家の奥さんは、たいへん美人で、夫婦仲もよく、子供も成績が良くてしつけもよかった。もう片方の奥さんは、自分があまり美人ではないと思っているし、夫婦仲もよくないし、子供の成績もよくない。そんなことで、この美人でない方の奥さんはいつも隣の奥さんにひけ目を感じていたのです。そのため、隣の奥さんが庭でフトンをパタパタたたいていると、私の家にわざとホコリが飛んでくるようにやっていると邪推しました。 また、家の前を掃除しているのを見ると、自分の家が汚れているので、あてつけて嫌がらせをやっているのだと思うようになってしまったのです。

 このような不愉快な感情を、ひがみとか妬みといいますが、その思いがだんだん強くなっていったある日のこと、隣の奥さんが、買い物カゴを下げて歩いている自分を、後から自転車でサァーッと追い越していきました。チリンチリンとベルを鳴らして、「お先に」と……。それでカーッとなってしまったのです。「私が自転車に乗れないのを馬鹿にしている!」。逆上して家に帰ると、包丁をつかんで隣の家に行きそこの奥さんを、メッタ突きにして殺してしまいました。60ヵ所ほど刺したといいますからすさまじいものです。

 人をうらやましがる、人を妬む、それは結局は、人を愛せない、人ゆるせないということです。そのような心がやがて恐ろしい殺人事件にまで発展していくのです。そして、私たちもまた、人は殺さないまでも心の中では、同じような思いを持つことがあるのです。想像や疑心暗鬼で、心がどす黒い思いでいっぱいになることがあるのです。(続く)