人はなぜ苦しむのか 第20回
24節でパウロは「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」と、語りました。パウロのこの証しに注目しましょう。パウロは他者のために苦しみを受けていると語り、さらにキリストのからだである教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、彼のからだによって補っていると言いました。彼のこのような発言は、「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」(ピリピ3:10、11)という言葉とつながっています。パウロは「苦難にあずかることとその死のさまとひとしく」なることを熱望しました。実は、これこそがイエス様を信じる私たちの生涯における、最高の目標であり、愛の姿なのです。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)
パウロは、他人のために苦しみを受けて死ぬという、そのような自分の犠牲や功績が、自分自身の救いを達成することになると信じていた人ではありません。彼は自分の愛する救い主が与えてくださった真理として、苦痛を受けることを喜び、「キリストの苦しみ」にあずかることがいかに天において祝福されたものであるかを味わい知っていたのでした。パウロは、キリストのように自分も代理的な苦難と死の道を歩むことによって、キリストの心にあった喜びを体験していきました。
絶望から希望へ 第22回
間違った学びの結果
皆さんは聖霊に従って、聖霊の導きに従って生きているでしょうか。聖霊に従わない人、聖霊に導かれない人、肉の心にあまりにもあふれている者には、救いはありません。聖霊が臨むという意味は何でしょうか。聖霊が臨むということは、異言で語るということでしょうか。病気の人を全部癒すことでしょうか。皆さん、申し訳ないことですが、現在キリスト教会の中で起きている奇跡や異言などは、サタンの働きによるものが多いのです。皆さんは何よりも見分ける霊を持って下さい。それが、み言葉とはっきりとつながっているかを分別して下さい。聖霊様は静かに臨まれます。特に、聖霊よって歩む者は聖霊の実を結びます。それこそが聖霊の働きです。病の者を癒しながら姦淫している牧師がいます。それが聖霊の働きでしょうか。異言はたくさん語るけれども、いつも夫婦喧嘩ばかりしている人がいます。これが聖霊の働きでしょうか。それはみんなサタンに捕らわれていることです。