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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

サムエルの経験 第12回 デイビット・カン説教より

2016年10月15日 | 日記

第四天使のメッセージ

 

四度目に神様の声が聞こえた時に、サムエルは理解していました。黙示録18章に第四天使が出てきますね。第四天使、この第四天使は神様の栄光に満たされて地を明るく照らします。第四のメッセージです。皆さんこそが、この第四のメッセージを伝える器なのです。その人たちは、その前の三天使のメッセージを本当の意味で理解している人たちです。三天使のメッセージによって清められている人たちです。神様の声を聞き始めている人たちです。聖霊の経験にあずかっている人たちです。ですから皆さんは、この永遠の福音を本当の意味で理解しなければいけないのです。これは神様の栄光の福音を理解することなのです。すなわちイエス・キリストのご品性を理解することです。イエス・キリストの義について、私たちは本当に啓蒙されなくてはいけないのです。聖霊の光によって私たちは心が照らされて、信仰による義を本当の意味で理解することが出来るようになります。その結果、全世界がその栄光の輝きによって照らされるようになるわけです。

私がこの信仰による義のメッセージを、聖書の言葉でもって語りましたら、その結果、多くの人たちが、5時労働者たちが諸教会から出てきました。その中には牧師もいれば信徒もいるわけです。指導者たちもいました。本当に真理を求めて来た人たちです。ある人たちは、ユーチューブで私の説教を流してくれました。誰がやったかは分かりませんが、私の知らない所で色んな人たちが、インターネットのユーチューブで流しているわけです。なぜなら彼らは真理のメッセージによって祝福を受けたからなのですね。その結果いろんな方法を通して、多くの教会の人たちが私のメッセージに触れました。そして至る所から私たちのミニストリーに連絡が入るようになりました。このような質問がたくさん来ました。「皆さんはいったいどういう人たちですか?ライトフォーライフミニストリーとは何ですか、デイビット・カンという人はいったいどういう人なんですか。本当に彼のメッセージは素晴らしいです。彼は真理を語っています。私は彼のメッセージによって回心しました。もっともっとメッセージを下さい」。これが第四天使の使命なのです。

第四天使の使命とは、キリスト教会に存在する誤謬、罪をあらわにする働きなのです。そして神様の民をそこから呼び出すのです。皆さん、私たちにもサムエルが必要なんです。神様はサムエルに、ある啓示を与えられました。それはエリの家、彼の家族に関するメッセージでした。それは率直な証だったのです。これは、これこそは、バプテスマのヨハネのメッセージでもありました。私たちには残された時はあまりありません。何かしなくてはいけないんです。イエス様が間もなくお出でになるからです。

 

お祈りしましょう。

天のお父様、今朝のメッセージを心から感謝いたします。今教会は本当に深い闇におおわれています。神様の啓示が真の意味で理解されていることが、まれにしかありません。どうぞ私たちに教えて下さい。私たちの魂を清めて下さい。聖霊が満たされる純潔な器となることが出来ますよう助けてください。そしてこれらのメッセージを聞く方が誰であっても、それらの魂をあなたが祝福して下さい。第四天使のメッセージを宣べ伝える器を、どうぞあなたが起こして下さい。イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン


サムエルの経験 第11回 デイビット・カン説教より

2016年10月14日 | 日記

本当に天からの声が聞こえると言う意味でしょうか?そういった声が実際に聞こえるということではありません。霊的な洞察、理解のことを言っているのです。神学者たちの教えるいろんな理論とかそういったものではありません。個人的な経験です。

私は牧師として、安手礼を受けた牧師として長年働いてまいりました。しかし、それにもかかわらず、神様の言葉が本当に理解できていなかったのですね。確かに神学的に理解し、教えていました。神学校へ行って学びました。そこで学位も受けました。ですから自分は神様のことは分かっていると思っていたのです。しかし実際にはそうではありませんでした。自分では分かっていると思っていました。そして実際に説教もしました。色んな良い説教をしました。色んな人たちから、カン先生の説教は素晴らしいと言われました。あなたこそが将来の私たちの教会の指導者にふさわしい、と言われました。にもかかわらず、悔い改める人がいなかったのです。そのことは分かっていました。私の説教を聞いて、回心して悔い改める人が現れなかったのです。そこで自分自身の心と闘いました。私の何が間違っているのだろう?もっと勉強すべきだろうか、もっと説教学の深い技術を会得すべきだろうか。

そして分かったことは、私の魂のうちに聖霊が欠けていたということでした。聖霊が私の心を支配しておられるなら、その証拠が見られるに違いありません。その証拠とは何でしょうか、罪に勝利するという証拠なのです。それはどう言う意味でしょうか?神様の戒め、聖霊に従うことが出来るようになることです。そのことが分かってきたのです。そして私は悔い改めに導かれました。イエス・キリストの死のいさおしによって、私の魂が聖霊に抵抗しなくなってきました。自分自身を神様の祭壇にささげて献身しました。自分が本当に邪悪な罪人であるということを、私は神様の前に認めたんです。そして神様の憐れみ、恵みを請い願いました。「イエス様どうぞ私を憐れんで下さい」と・・・。

それから私は、聖書が本当の意味で分かるようになってきたのです。私にとって証の書が全く新しいものになってきました。神様の言葉、イエス・キリストの啓示が見えてきたのです。それから私は語り始めました。人々に今までとは違う、新しい語りかけをしたのです。そしたら奇跡が起こり始めました。人々の心が揺り動かされて、揺さぶられて、イエス様の前に悔い改める人が増えてきました。泣いて自分の罪を告白し、神様の赦しを請い求める人が現れてきたのです。そこで私は思いました。「これは何なんだろう、どういうことだろう、今まで見たことのない現象だ、なぜ人々が悔い改め始めたのだろうか、自分にその力はないはずだから、誰がそれをやっているんだろう。これは神様のみ業に違いない。聖霊の業に違いない」。ですから自分の手柄にすることはできませんでした。そして恐れの心が出てきたのです。


サムエルの経験 第10回 デイビット・カン説教より

2016年10月13日 | 日記

 天からの声を聞くとは?

 サムエルの経験から、私はあることが分かりました。神様は三度彼を呼ばれましたね。三度とも彼は理解できなかったのです。そこで大祭司の所へ行きましたね。そして四度目に神様が呼ばれた時に、もうその時には分かっていたのです。天からの啓示を、み言葉を受ける用意が出来ていました。そのことを、私たちの霊的経験にあてはめてみましょう。黙示録14章に三天使の使命というものがあります、それは何でしょう?第一天使のメッセージは、永遠の福音です。これは、もし永遠の福音を拒んでしまうならば、バビロンの状態に倒れてしまうことになるというメッセージです。そして第二天使のメッセージは、バビロンは倒れたと言っています。次に第三天使のメッセージは、獣の像を拝んで、獣の刻印を受けないようにしなさいと言うメッセージです。そして結論として、神様の民は神様の戒めを守り、イエスの信仰を持っていると伝えています。

しかし現在、神様の民が、この三天使の使命の本当の意味を理解できないでいるのです。もう過去150年以上にわたって、このメッセージは語り継がれてきました。伝えられてきました。しかし神様の民が本当の意味で理解してきていないんです。ですから教会からこのメッセージが、大声で叫ばれて、強いインパクトを世に与えることが出来ないんです。三天使の使命は、私たちの間では語られることがあるかもしれませんが、しかし私たちの言っていることを、世の中のどれくらいの人が分かっているでしょうか。あるいは教会の中でどれほどの人たちが、三天使の使命の真の意味を理解出来ているでしょうか。神様はご自分の民を呼んでおられます。

「サムエルよ、サムエルよ、私の声を聞きなさい」。しかし、そういった召しがあった時に、その意味を知りたいと思って多くの神の民が、教会の偉い人たち、教授とか先生と呼ばれる人たちの所に教えを請いに行ってしまうのです。それが聖霊が欠けているという状態を表しているのです。今こそ神様の声を直接聞くべき時なのです!


サムエルの経験 第9回 デイビット・カン説教より

2016年10月12日 | 日記

忠実な僕はどこに?

 サムエルは神様の声を聞いた事がありませんでした。そこで指導者の所に行ったわけですね、そこで分かったことがあります。自分の指導者、尊敬している指導者が自分を呼んでいるのではないということでした。彼は神様と話をしようと願いました。どうやったらよいか分かりませんでした。彼の時代にはそのお手本となる人がいなかったからです。今日も、私たちは同じ問題を抱えているのですよ。子どもたちの世代が全く同じ問題を抱えています。聖霊が私たちの教会にあまりにも欠けているのです。皆さんも目覚める必要があります。神様との個人的な生きた経験を持つ必要があります。個人的に聖霊を受けなければいけません。そして私たちが、他の人たちのための模範とならなければいけないんです。今イエス様は教会を目覚めさせようとしておられます。あまりにも長い間、教会は神様のメッセージを拒んできました。

教会はこのメッセージに対して、大きな、大きな壁を築いてきたのです、世の中と同じような大学とか色んな学校を建て、色んな学位とか称号、博士号とかを教会の学校で学生たちに授与することによって、神様の言葉に対する壁を築いてしまったのです。世俗の教育システム、制度を教会に取り入れてしまうことによって、世俗の文化、哲学、そういったものを教会に取り入れることによって、その結果多くの指導者たちが神様の言葉を識別することが出来なくなってしまいました。今現在、神様はサムエルのような忠実な僕を探しておられるのです。

三度目にサムエルがやって来た時に、エリが言ったわけですね。「もしかしたら神様がお前を呼んでいるのかもしれない。私はそんなの聞いたことがない、でも神様はお前を呼んでいるんだろう。私は経験がないので、教えることは出来ないけれど、今度声が聞こえてきたら、自分で応答しなさい。次に呼ばれたら、神様に答えなさい」。サムエルが床に戻った時再び声が聞こえてきました。「サムエルよ、サムエルよ」。サムエルはすぐに床から下りてひざまずいて「主よ、しもべはここにおります。どうぞお語りください」と言いました。そしたら神様ご自身が、サムエルに啓示をお与えになったのです。

日本にハンナのような方おられますか?神様と格闘して、霊的な子供を授かるように求めている人はいらっしゃいますか?神様の息子たちは誰でしょうか。ローマ人への手紙8章によりますと、神様の霊に従っていくものが神様の子であると言われています。私たちは霊のうちに歩かなければなりません。肉のうちを歩くべきではありません。私たちは自分の肉の声、衝動に駆られて歩くべきではありません。聖霊の声を聞いてそれに聞き従って歩むのです。歩くとはとはどういうことでしょうか。ステップを踏む、その連続ですよね、一歩一歩踏むたびに神様の声を聞く必要があります。どのようにして神様の声を聞くんでしょうか。ここにあります。ここにみ言葉があります。たくさんの本がありますよ。これを読み、よく考えて学びましょう。その時神様が皆さんの心に語りかけて下さいます。そして皆さんが本当に成長して、成熟の域に達した時に、聖霊の導きを直接感じることが出来るようになります。その時皆さんは、識別するという聖霊の賜物をご自分のものとすることが出来ます。どれが本当の神様の声かということを理解出来るようになります。

もう世の中にはいろんな声があふれています。教会にも色んな声が、異なった声があふれています。しかし本当の神様の声を識別し、聞き取ることが出来るでしょうか?今現在、教会と世にみ言葉の飢饉が起こっているのです。


サムエルの経験 第8回 デイビット・カン説教より

2016年10月11日 | 日記

み言葉によって甦る

 

人間が書いた言葉、文字自体は、死んだものですが、このページ一つひとつはただの紙ですね。白い紙に黒い文字が書かれています。他の世俗の小説とか歴史書と何ら変わるものではありません。違いないわけですね。同じ物質です。しかしそういった見方で見ますと、聖書から神様の言葉を聞き取る事が出来なくなります。神様の言葉を読んで聞く時に、ただもう眠りに落ちてしまう、その神様の言葉が子守唄のようにしか聞こえないわけです。

私たちは神様の言葉を、本当の意味で理解しなくてはいけません。サムエルのように神様の声を聞くようにならなければいけないのです。神様が皆さん一人ひとりの名前を呼ばれるその声を、毎日毎日、私たちは個人的に聞いていきたいものです。そして神様からの生きたみ言葉を、私たちは自分の心に取り入れなければいけないのです。そしてこの言葉を噛み砕いて、み言葉を語らなくてはいけません。これが預言であると神様は言っておられます。預言というのは単に未来のこと、将来のことを予告するだけではありません。そういった死んだ文字を生きたものに解説する、解釈することが預言なのですね。死んだ文字を生きたものにする、それが預言の業です。

み言葉によって皆さんは、死んだ状態から蘇らせてもらうという経験にあずからなくてはいけないのです。毎日毎日、私たちは生きて甦る、生まれ変わる経験をしなくてはいけないのです。神様のみ言葉の力によって目覚めさせられる経験にあずからなくてはいけません。そうする時に私たちは、み言葉を語り始めるわけです。

 

赤ン坊が死んだら、その子はもう泣くことはありませんね。赤ん坊が生きていると、生きている赤ん坊は泣きます。しゃべります。ものを言うし泣くわけです。私にも孫がおりまして、2歳です。本当に私にとって可愛い孫です。私は二人の子供がいますが、自分の子どもがまだ小さかったころ、そのころはまだ子育てということをきちんと理解していませんでした。子供が駄々をこねて「ワー」と騒ぐ時に、どのように扱ったらよいのか本当に分からなかったのです。経験もあまりなくて、子供を愛してはいましたけれども、どのように扱って良いか分かりませんでした。また同時に、生活のために仕事に忙しかったのです。そういった理由で、子供にあまりかまってやることが出来ませんでした。仕事をしなければいけないので、子供を他人に預けることもありました。そういったことをもう今は、とても後悔しています。

今現在孫が与えられまして、孫というのは本当に全く違った存在、経験です。今はもう歳をとりまして、色んな経験がありますから、自分の孫を見ておりますと分かってくるのです。本当の意味で分かってくることがあります。この駄々をこねたり泣いたりしている時に、なぜそれをしているのかが分かるわけです。もっと心が大きくなっているわけですね。お孫さんがいらっしゃる方、私の言っている意味がお分かりになるでしょうか。だからおじいちゃんおばあちゃんは孫を甘やかしてしまうと言われるかもしれませんが、私は祖父として、おじいちゃんとして分かることがあります。孫が泣く時に、何で泣いているのかが分かります。荒れて騒ぐ時になぜこうやって駄々をこねているのか、分かるのです。ですから叱りつけることが出来ないのですね。あまり孫には厳しくすることはできません。よく理解できるからです。彼がやることなすこと全てよく分かるので、いつも慰めてあげるようにします。「孫よ、孫よ、お前のことよくわかるよ、何で泣いているか分かるよ、何が欲しいか分かるよ」。そこで抱き上げまして、彼の願いをかなえてあげるわけですね。そしたらすぐに喜んでくれます。

私の妻もその孫をとても可愛がります。その孫のためには、自分の持っているものを全部あげようとします。その結果、孫はお父さんお母さんよりも、おじいちゃんおばあちゃんの方が好きになってしまっているのです。なぜなら私たちは年を重ねた結果、親たちよりももっと包容力が出来たからであります。この孫が朝起きますと、まずおばあちゃんの所に走って行きます。困った時には、おばあちゃんの所に走って行きます。彼には分かるわけです。最近お話しも始めました。時には訳の分からない異言のようなことを話します。それから時には、私の言うことをそのまま真似します。私の言葉をそのまま繰り返します。もうお話しがしたくてしようがないのです。