ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

熊本への青春18きっぷの旅、第2日目は笠岡市の我が母校を訪ねて西条へ

2016年09月17日 | 帰省の途中旅

2016/8/12  初日に滋賀県までしか進んでいませんから、二日目もそれなりに進まなければなりません。ムーンライトながらに乗れなかった影響がこんなところにも出て来ます。
今夜の宿は東広島市の西条ですから、途中どこかへ立ち寄る時間はあまりありません。S子には申し訳ないのですが、僕の個人的な郷愁の旅に付き合ってもらうことにしました。 

南彦根は7:30の比較的遅めの出発でした。近江八幡、姫路、相生、岡山と乗り換え、僕たちが行ったのは・・・・


▲ここは笠岡駅。おそらく笠岡といってもほとんどの方は御存知ないでしょうね。12:33ころ。

岡山県のいちばん西の端、広島県寄りの町です。


▲笠岡が全国に誇れるものの一番はカブトガニ。カニとは言われていてもカニの仲間ではありません。クモやサソリに近い動物だそうです。5億数千年前に出現し、2億年前には現在と同じ形態だったようです。ですから、「生きている化石」とも言われています。12:35ころ。


▲僕が笠岡に住んでいた小、中学生のころはこの地図中央の「笠岡干拓」はまだ着工もしていませんでした。左端の「日本鋼管福山製鉄所」が出来始めていたころです。僕自身は中央の水路のような場所の右、「横島」に最初は住み、「笠岡干拓」に移り住みました。「笠岡干拓」の社宅がまだ完成していませんでしたから、それまで「横島」に住んだのです。でも、すぐに移ることは明確でしたから、小学生の僕は笠岡駅そばの小学校に越境入学することになったのです。越境入学は反則なのですが、どうやら当時はまだ存在していた「米穀通帳」を操作し、他人の住所に移すことで、形式的には越境入学ではなくしたようです。「横島」はほとんどが田んぼの田舎でしたから、近所の子供たちとの付き合いや初めてのバス通学など、色々と楽しい思い出があります。12:36ころ。


▲笠岡駅前ロータリーです。昔がどうであったかの記憶は薄れてしまいましたけれど、こんなに広くなかったことだけは確かですね。12:43ころ。


▲この通りが昔の中央通りです。親父の勤務していた銀行の建物はなくなっていました。12:48ころ。


▲中央通りはアーケードの商店街だったのですが、奇跡的にこの写真の部分だけが残っていました。一軒一軒のお店も昔のままのようですが、シャッターが閉まっている店も多いようでした。まだやっているのでしょうか? 12:50ころ。


▲市役所横のにこにこ食堂で昼食をいただきました。ここは障がい者が就労している食堂です。値段も安く美味しかったですね。13:09ころ。


▲にこにこ食堂の外観。13:37ころ。


▲僕の卒業した小学校です。13:38ころ。


▲昔の記憶はあやふやですが、これほど綺麗でなかったことだけは確かです。13:42ころ。


▲僕が通っていたころの小学校の校門がこれです。子供のころは知らなかったのですが、笠岡は江戸時代は徳川の直轄領だったそうで、ここに代官所があったのですね。明治になると、廃藩置県によりこの地域は小田県となり、笠岡に県庁がおかれました。代官所が県庁になったのです。小田県が岡山県に合併された翌年には、ここに小学校が移され、この門が小学校の校門になったというわけ。僕もここをいつも通っていたのです。13:43ころ。

でも、現在はこの門は使われていないようです。その理由は次に。


▲上記の古い門の数10m左にごく普通の校門があります。そこを入って校庭や校舎を写したのがこの写真。今はこの小学校は「笠岡小学校」なのですが、僕の通っていたころは「笠岡東小学校」と「笠岡西小学校」に分かれていたのです。この写真左に講堂が見えますが、その講堂の左から写真の右手前に向かってさほど高くない木の塀があって、東小と西小に分断されていたのです。雪が降ると、小石を入れた雪玉で雪合戦をしていたものです。ちなみに僕は東小。13:46ころ。


▲何十年ぶりの小学校訪問のあと、再びさっきのアーケード街に来ました。どうしてこんなボロなアーケードが残されているのでしょうか? これから僕の住んでいた家を探しに行きます。14:01ころ。


▲山陽本線の踏切。昔と同じですね。まだSLが走っていたころです。14:06ころ。


▲トンネルは昔と同じですが、高架道路が出現しています。県道60号線のようです。14:11ころ。


▲この伏越港は昔からありましたけれど、港湾の広さが倍以上になっていました。小さな漁港のようでしたが、今では漁港といった様子は見えませんね。白石島と北木島へのフェリーが就航しているようです。14:12ころ。


▲僕がいたころはこの「笠岡干拓」にポツンポツンと家が建っているだけでした。親父もゴルフの練習を家の前の干拓地でしていました。打ちっ放しなのです。僕がそのボールを拾う係でした。今は違います。建物だらけです。風景がまったく変わってしまっていましたから、近くの国道2号線や山との距離感から大体の見当を立て、探してみると、ありました! まさかあるとは思っていなかった僕の住んでいた家がまだ残っていたのです! 14:17ころ。


▲これがその家。人は住んでいないようです。建築関係の会社の小さな置き場になっているのでしょうか? 門は広げられ、建物の右端には昔はなかった入り口が作られていました。14:18ころ。


▲家の玄関も昔と同じままでありました。14:19ころ。

まさか数十年前の家がそのままの形で残っているとは思いませんでした。
庭で飼っていた犬の太郎のことや、庭の植木や花や野菜のこと、縁側に寝っ転がって見物した花火大会、たくさんの思い出が脳裡をよぎります。


▲駅へ戻ります。伏越港には白石島へのフェリーがとまっていました。見えている山は笠岡城が建っていた山です。村上水軍で知られた能島村上家の要害として造られた山城でしたが、明治時代に干拓のため山頂部分が削られて城の遺構はほとんど残っていません。14:26ころ。


▲「笠岡湾干拓」が見えています。遠くには工場群の煙突が林立しています。14:26ころ。


▲中学は電車通学でしたから、この道が僕の通学路でした。14:43ころ。


▲昔はこの踏切付近で自分が乗る列車によく追い抜かれたものです。そんな時には、この踏切から線路に入り、線路内を走ってホームに駆け上がるのです。すでにスタートしている列車をホーム上で追い駆け、追いついて、デッキの鉄の棒を掴んで飛び乗るのです。今と違って、列車の乗車口は自動で閉まる訳ではなく、いつも開いていますから、そんなことも可能だったのです。
その逆に、下車の際も飛び降りなどよく(毎回)してましたね。14:46ころ。

笠岡とはこのあたりでお別れです。東広島市の西条に向かいますが、笠岡からはそれほど遠くはありません。


▲西条駅です。初めて降りる土地ですが、僕のイメージよりずっと新しい大きな街でした。16:40ころ。

駅前の大きな通りを市役所の先まで歩き、今宵のホテルに入りました。
観光パンフレットを読み探して、夕食の場所を決めます。ゆっくり休んでから出かけましたが、第一候補の店は予約なしでは無理なお店でした。昨夜の居酒屋さんでは酷い想いをしたので、今夜は心地よく美味しいお店に入りたいものです。


▲入ったお店は駅前の『しょうの助』。店内の雰囲気はいいですね。18:41ころ。


▲右は広島名物の「がんす」です。左は上品に薄味付けされたオクラ。18:49ころ。


▲カルパッチョです。18:54ころ。


▲カマンベールの天麩羅。どんな味がするのか、興味深かったので食べてみました。19:15ころ。


▲黒酢入り酢豚。丁寧な作りですね。19:20ころ。


▲広島風お好み焼き。僕は大阪風が好きなのですが、せっかく広島にいるので。19:43ころ。

とってもいいお店でした。地酒を頼みましたが、賀茂泉、賀茂鶴、関西一、どれも美味しかったです。
昨晩の居酒屋が散々でしたから、今晩こそはと思っていました。いいお店で本当に良かった! 価格的にも満足度と比較すればとっても安価に収まりました。
せっかくの旅です。その土地の美味しい料理とお酒を味わいたいものですね。