ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

青春18きっぷ活用ハイキング第2弾は光城山~長峰山

2014年09月23日 | ハイキング/長野県

青春18きっぷで日帰りできるハイキングコースはだいたいエリアが限定されて来ます。前回は北の新潟県へ行きましたから、今回は西の山梨県や長野県です。どの山へ登ろうかと、いろいろと調べる中でこれまで知らなかったたくさんの情報を知ることが出来て、そのこと自体も楽しみなのです。

2014/9/10  今日は青春18きっぷが使える最終日。もし天気が悪かったならば、横浜中華街にでも出かけて、美味しい中華料理でも食べて来ようかと考えていました。でも、天気は持つようです。ひと安心。

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▲ここはどこかと言えば、長野県の篠ノ井線田沢駅前です。松本駅で乗り換えて、最初の駅。10:12ころ。

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▲駅前の国道19号線を北へ歩きます。目の前に見えている山が光城山(ひかるじょうやま911.7m)。10:20ころ。

実はこの時、ひとつ大きな問題を抱えていました。行動食がなかったのです。田沢駅周辺にコンビニくらいあるだろうと高を括っていたのですが、見当たりません。国道沿いにもまったく見当たりません。
実は非常食も北アルプスでほとんど食べ尽くしてしまっていて、ひとつ残っているだけ。確認しないまま忘れていたのです。
「万が一店がなくても、これくらいのハイキング、食べなくても大丈夫だよ」と、一番シャリバテしそうな僕が強がっても、あんまり説得力はありません。
本当は光城山の南麓登山道から登りたかったのですが、店が見つかりませんから、光城山西麓まで来てしまいました。
国道を離れて登山口へ右折する信号、ここで山へ向かえばもう店などありそうにないのですが、その交差点に来た時、遠く前方左に酒屋さんの看板がありました! 僕一人だけ見に行くと、お店です! 開いてます! お酒以外も売っています! ただ、おつまみばかり。おつまみの中から、行動食になりそうな食べ物を選んで購入。助かりました。

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▲登山口の案内板です。11:04ころ。
トイレも駐車場もあります。

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▲桜並木遊歩道をスタートしました。11:05ころ。

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▲登山道はよく整備されていて、とても歩き易いです。尾根筋の登山道がメインですが、たびたび巻き道も付けられていて、この写真の道も巻き道で、「アカマツコース」と名付けられています。11:39ころ。

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▲光城山山頂は北アルプスの展望台です。今日は雲が多く、見晴らしはききませんが、こんな山々が見渡せるようです。11:48ころ。

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▲わずかですが、北アルプスの山並みが顔を出していました。中央付近が蝶ヶ岳だと思うのですが。右の雲の中は常念岳かと。11:49ころ。

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▲光城山山頂の休憩小屋です。綺麗な小屋ですね。11:51ころ。

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▲小屋の裏にトイレがふたつあります。写真のようにとても綺麗に維持されています。11:52ころ。

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▲小屋の横で小鳥の死骸がありました。ゴジュウカラでしょうか。11:54ころ。
むき出しだと可哀想なので、草で覆ってきました。

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▲小鳥の遺骸の上ではヤマボウシの実が赤く色づいていました。12:09ころ。
この実は甘くて美味しいのです。白い花は目立って気がつくのですが、この赤い実は山ではあまりお目にかかることはありません。光城山はヤマボウシの木がとてもたくさん生えていましたね。車道の街路樹としても植えられていたのには驚きました。

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▲休憩小屋での休憩を終えて、出発です。12:09ころ。

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▲こちらが本当の山頂911.7mだと思います。古峯神社だそうです。神社の名前が書かれている額は明治13年と記されていました。12:11ころ。

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▲長峰山に向かって林道のような広い山道が伸びていました。12:15ころ。

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▲そのうち舗装された車道と合流します。車通りはほとんどなく(今日は平日ですし)、日陰になっているので、心地よい散歩道ですね。12:22ころ。

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▲綺麗な黄色いチョウチョが飛んでいました。家で名前を調べてもよく分かりません。ツマグロキチョウがいちばん近い気がするのですが。12:30ころ。

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▲ウマオイの♀ですね。家で写真をよく見直すと、ちょうど餌を食べているところでした。餌になったのはコオロギかゴキブリのようですね。ウマオイは生きた昆虫や死んだばかりの新鮮な昆虫を食べるのだそうです。12:46ころ。

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▲長峰山との途中にはこんな立派な施設もありました。「天平の森」というそうです。安曇野市の公共施設のようですね。食事、入浴、キャンプ、BBQ、天体観測などが出来るそうです。12:51ころ。
ここのことを知っていたら、行動食なしで、昼食はここでいただいても良かったですね。

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▲念のために看板を見て下さい。

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▲ここまで舗装道路を歩いて来ました。この案内図のあるところから再び山道が始まります。12:56ころ。

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▲ここが山道の始まる分岐。12:58ころ。

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▲まだ山頂ではありませんが、心地よい東屋がありましたから、ちょっと休憩。13:01ころ。

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▲秋の七草の女郎花(おみなえし)と尾花(すすき)です。東屋の周りで咲いていました。13:16ころ。

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▲同じく秋の七草、萩です。13:22ころ。

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▲長峰山山頂への最後の坂道。13:25ころ。

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▲ありゃ~! なにやら凄い展望台が立っています! 長峰山933m山頂です。13:27ころ。

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▲そしてこの奇妙なオブジェ。「歴史の塔」という題名だそうです。下から過去、現在、未来を現わしているのだとか。でも、これはどう見ても鎖としか見えませんから、鎖にがんじがらめに縛りつけられた人類の歴史を呪っているようにも思われて仕方ありませんね。それに、せっかくの雄大な北アルプスの景観の邪魔だと思いますが、どうなんでしょう? 13:28ころ。

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▲S子の手にまだあまり色づいていない赤とんぼがとまりました。13:29ころ。

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▲ 左に展望台と歴史の塔が見えています。中央にはS子がいて、こちらに向かっています。この草っぱらは気持ちがいいですね。13:31ころ。

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▲前の写真にも端っこが写っていますけれど、この板の台は坂になった発射台です。何の発射台かと言えば、パラグライダーですね。この板の坂を駆け下るのは、ちょっと勇気が要りますね。13:32ころ。

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▲ニッコウキスゲにしては薄い黄色なので、正式名は調べてもよく分かりませんでした。13:33ころ。

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▲展望台に登ってみました。13:38ころ。

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▲北方を望む山並ですが、山座同定はちょっと無理でした。13:40ころ。

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▲ここが最上段です。土台部分だけは鉄筋コンクリートのようですが、他はすべて地元の木材を使用しています。なかなかいい感じでした。13:41ころ。

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▲中央少し右寄りの山が光城山だろうと思います。13:43ころ。

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▲展望台の東側は大きな駐車場になっています。13:50ころ。

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▲舗装道から外れて土の林道に入りました。路肩決壊だとかで車の進入は禁止されていますから、静かに歩けます。左の尾根筋にも山道があるとは思いましたが、入口が分からず、林道を歩くことにしました。森の中のような心地よい道でした。14:04ころ。

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▲車道に再び出会ったかと思うと、丸い池がありました。その畔には無数の石碑が立ち並んでいます。こんな道祖神もあれば、文字が刻まれたものもあります。14:25ころ。

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▲これがその池。名前は金玉池。可笑しな名前ですが、読み方は「きんぎょくいけ」ですから要注意。伝説の巨人「でえらぼっち」が座った跡なのだそうです。14:26ころ。

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▲大山阿夫利神社と三峰山三峯神社を祀ってあるようです。何故、関東の神社なのでしょうね? 14:39ころ。

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▲雲龍寺横の墓地に出て来ました。写真中央の富士山のような山は有明山でしょうか? 14:51ころ。

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▲安曇野市指定文化財にもなっている雲龍寺山門は重厚な雰囲気を醸し出していました。14:58ころ。

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▲明科駅です。田沢駅の隣りの駅になります。15:16ころ。

駅周辺で食事を出来る店を探したのですが、まだこの時間帯で食事できる店はありませんでした。仕方なく、16:05の電車で松本へ行き、今年2回目のお店「どまんなか」へ。なかなかいい店です。


青春18きっぷ活用ハイキングで直江兼続ゆかりの坂戸山へ

2014年09月20日 | ハイキング/新潟県

北アルプスから帰ってくるときに、松本駅で青春18きっぷを購入し、それで帰って来ました。せっかくの利用期間なので、S子と遠出のハイキングをしようと思ったからです。
今回はその第1弾!

2014/8/29  最寄駅を始発で発つと、新潟県の六日町駅には9:21に到着します。意外と早く着くのです。

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▲六日町駅前の広場です。そこから目の前に見えている山が坂戸山633.9m。9:42ころ。

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▲駅前をまっすぐに歩いて行くと、この六日町大橋。さすが、直江兼続の「愛」兜がデザインされています。9:56ころ。
この橋を渡り、左へ進みます。

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▲坂戸山登山口への道標が適度に見つかり、だいたいの方向へ進んで行きます。山麓にあった家臣たちの屋敷跡です。10:09ころ。

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▲坂戸城跡です。10:13ころ。
鎌倉時代にまで遡ることのできる由緒ある山城。上杉謙信の実の姉を母に持つ長尾景勝の居城。景勝は上杉謙信の養子となり、上杉家の家督を継ぐことになります。
普段は麓で暮らしているそうですが、ひとたび戦になると、山頂の山城を拠点として戦に臨むのだとか。

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▲山裾の路も舗装道路はいつしか消えて、土の林道になっています。
トレールランナーでしょうか、走り抜いて行きました。10:24ころ。

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▲城坂遊歩道の山道がここから本格的に始まります。10:32ころ。

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▲この案内板を見ていただくと分かりますが、城坂遊歩道を登り、寺が鼻遊歩道を下るコースが最も坂戸山全体を知るにはよいコースだと考えてこのコースどりにしました。10:33ころ。

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▲城坂遊歩道は小さな谷状地形にそってジグザグに登って行く山道でした。10:35ころ。
何人もの登山者と行き交いましたが、この写真にも一人写っていますね。

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▲山城で心配なのは水です。小さな山の五合目あたりですが、まだ水が流れています。10:54ころ。

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▲葉脈だけを残して、食い散らかされた草がありました。こんな風景よく目にはするのですけれど、どんな虫がこんな風にしたのかは知りません。小さなコガネムシがたくさん付いていたりしたのは見たことがあるような気がするのですが。
植物名の方もよく分かりません。全体的な印象からはイラクサ科の植物のようですね。図鑑で調べる限りでは、カラムシのように思えます。もしカラムシなら、この茎の繊維で織られた織物、ここ新潟県魚沼地域の越後縮もからむし織なのだそうです。11:00ころ。

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▲六合目を過ぎ、背後には魚野川や関越自動車道が見えていますね。11:06ころ。

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▲城坂遊歩道の大部分は日当りのよい山道。ときおりこの写真のような日陰の道もあり、ホッとします。11:14ころ。

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▲この写真の手前、主水郭への山道は崩落のため通行止めになっていました。
写真のこの広場は桃之木平だと思います。11:19ころ。
水場がすぐそばにありますから、水と関わりのある建物が建っていたのかもしれません。
それでなくとも、上屋敷は建っていたそうですね。

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▲水場入口です。11:23ころ。

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▲ちょろちょろとですが、しっかりと水が流れていました。11:24ころ。

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▲谷筋の道から尾根道へと出て来ました。11:39ころ。

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▲山頂にある神社が見えて来ました。11:40ころ。

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▲S子の後ろに見える川は魚野川支流の三国川ですね。11:40ころ。

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▲写真をクリックし、拡大してから読んでみてください。坂戸城の歴史です。11:42ころ。

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▲南西方向を眺めました。谷川連峰や苗場山は雲に隠れています。中央部に手前から突き出た尾根が今日下る予定の寺が鼻遊歩道。11:45ころ。

山頂の神社の日陰でお昼休憩をとりました。近くに座ったご婦人といろいろとお話ししました。このご婦人は地元の方で、多いときには年間60回ほどこの坂戸山に登るのだそうです。雪がある時季にも登ったことがあるそうです。雪山になっても登って来る人はいるようですね。
途中、たくさんのワラビが生えているのを見ましたが、夏のワラビは繊維が硬いと思って、採ろうとはぜんぜん思いませんでした。このご婦人はワラビをたくさん採って来ていて、束にしていました。それを僕たちにくださったのです。重曹などを入れて煮立たせ、火を止めてからもそのままお湯の中に浸けておけば柔らかくなる。と教えてもらいました。
帰宅後、教わった通りやってみましたが、煮立たせる時間が長過ぎたようで、柔らか過ぎる出来あがりになってしまいました。でも、美味しく食べることは出来ました。

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▲下山する前に、大城・小城跡にも寄って行きます。12:24ころ。

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▲右側に坂戸山山頂の神社が見えています。細い一本尾根を辿るとこの広場に付きます。
この辺りに大城・小城が建っていたのでしょうか? 12:40ころ。

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▲途中、カミキリムシを見つけました。カミキリムシは形も色も美しいので好きな虫です。
これはゴマダラカミキリです。12:46ころ。

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▲坂戸山の山頂には実城と呼ばれるお城があったそうです。大城・小城と実城がこの尾根道で結ばれています。天然の難攻不落な構築物ですね。12:51ころ。

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▲山頂からは薬師尾根遊歩道を下ります。このコースは傾斜が急だと言われていましたが、案の定、階段が続きます。13:03ころ。

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▲カワラナデシコでしょうね。13:04ころ。

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▲階段が続きます。ときおり、小柄なS子には大き過ぎる段差も出て来ます。13:07ころ。

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▲ここから寺が鼻遊歩道です。13:14ころ。

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▲大城・小城への尾根道もそうでしたけれど、登山者はたくさんいるのに、そちらの方は誰もほとんど歩かないようで、クモの巣がたくさん張ったまま残っていました。この寺が鼻遊歩道も同様、否、それ以上で、猛烈にたくさんのクモの巣が張られています。それらを丁寧にひとつひとつ払い除けながら進むのですから、通常の何割増しもの時間がかかってしまいます。13:46ころ。

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▲黒い一粒一粒がどうやら植物の種のようです。どんな動物がこの実を食べ、この糞をしたのでしょうか? 13:55

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▲後方のいちばん左の山が坂戸山です。大城・小城の跡はその右のどの辺りでしょうか? 14:45ころ。

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▲途中、たくさんの蟻が何故かこの場所でじっと動かずにいました。なぜ、動かないのでしょう? 14:48ころ。

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▲里が近くなり、大山阿夫利神社がありました。神奈川県の丹沢の大山阿夫利神社と同じ名称です。どういう関係があるのでしょうか? 15:04ころ。

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▲左から摩利支天、三笠山大神、御嶽神社、八海山大神。15:06ころ。
調べてみると、どうやら、この4つとも木曽御嶽山と関連があるようです。摩利支天山と三笠山は御嶽山に存在する地名です。また、御嶽山大滝口を開山した木食泰賢行者が越後出身であったことが縁で、八海山大神が木曽御嶽山に勧請されたようですね。
摩利支天信仰が武家に広まっていたようですから、山城の守り口にこれらの神々が祀られていたのかもしれません。

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▲寺が鼻遊歩道の登山口に出て来ました。15:12ころ。

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▲左のピークが坂戸山。そして、右へ降りているなだらかな尾根が寺が鼻遊歩道です。15:30ころ。

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▲魚野川にはシラサギがたくさんいました。15:33ころ。
午後から降るかもしれないと予報されていた雨がポツポツと当たり始めます。山中で降り始めるかも、と思っていましたが、下山後で助かりました。傘をさして歩きます。
この時刻なので、食事ができる店が開いていません。食事は諦めて、駅近くの「湯らりあ」で温泉に入ることにしました。公衆浴場、つまり銭湯ですから、石鹸やシャンプーは置いてありせん。ひとつ100円で購入します。入浴料は400円。

駅前のお土産屋さんで地酒とおつまみを買いました。高崎駅で再びお弁当と「ふなぐち菊水一番しぼり 生原酒」を買って、八高線の車内でチビリチビリとやります。

青春18きっぷを使ったこんな山旅も僕は大好きですね。


ウェストンの槍ヶ岳登頂横尾本谷ルートの解明―――大喰峠はどこだ!? 2/4

2014年09月01日 | ハードハイク/北アルプス

2014/8/13  まだ暗い中、目を覚まして一番心配だったことは今日の天気。15日も予備日として確保してあるとはいえ、明日以降の天候は再び下降気味の予報でしたから、実質的に今日がラストチャンスなのです。
結果的には晴天でした。帰宅後、気象庁の上高地における今月のデータを見てみると、8月3日から19日までこの13日以外は雨が降らない日はずっとなかったようです。多くの社会人が休みとなる9日~17日の9日間の降水量は232ミリ、1日平均29ミリも降ったのです。

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▲3時に起床。朝食担当はK松さんです。アルファ米ですから、ここでは食べずに各自が持つことにします。そして、いよいよ出発。4:01ころ。

ウェストンは1891年に初めて槍ヶ岳の登頂を試みますが(その時は不成功)、その際初めて横尾本谷ルートを通ります。明神付近で泊まったウェストンは1891年8月6日の朝、横尾に到着します。
「とうとう谷間の路は二つに分れた。それで、私たちのとるルートを決めるのに緊急会議を開いた。『右側の峡谷(槍沢のこと)は長いことは長いですが、以前槍ヶ岳にのぼった二つのパーティーはどれもこのルートを取りましたから、路はよく分っています。けれども、旦那さんがたが“スポーツ”がお好きなら、左の方の路は多分それよりもっと短いし、もっと面白いでしょう。もっとも、路は私たちで見つけなければならないでしょうが』と一番年取った猟師が言った。『それじゃあ、左の路にしよう』と私たちは言った」
ウェストンの文章からの引用です。これからもそれを赤字で記しますが、引用文献は以下の通り。
『日本アルプス 登山と探検』(岡村精一訳 平凡社ライブラリー)
『日本アルプス再訪』(水野勉訳 平凡社ライブラリー)
『日本アルプス登攀日記』(三井嘉雄訳 東洋文庫)
ただし、上記三冊のうちのどれなのかは記載を省きます。悪しからず。

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▲横尾岩小屋跡です。暗いので標識だけ。4:25ころ。
「横尾谷をのぼって行くこの新しいルートは面白いことがまもなく分った。(中略)およそ800メートルもがいて行くと、峡谷の側面にある洞穴に達した」
今は岩小屋は崩れてしまっていますけれど、ウェストンの当時は使えていたようですね。
「猟師たちが日暮れまでには楽に帰れると保証したので、ここに大部分の荷物を置くことにした」
結局、ウェストンたちはその日のうちにはここに戻れなかったのですが、荷を軽くしたことは正解だったのではと、僕は思います。

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▲屏風岩右岩壁とお月さまです。左のピークは屏風ノ頭でしょうか? 4:48ころ。
「屏風岩の垂直でものすごい花崗岩の岩肌が生々しく目に飛び込んできた。右手にある横尾谷の激流の、低い裂け目を守る歩哨のように立っている」

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▲本谷橋到着です。4:57ころ。

ここで朝食タイムとしました。

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▲前の写真の山と同じです。朝陽が当たり始めました。北穂高岳3106mだと思います。北穂の東稜なのでしょうか? そこへ月が半分沈み始めています。5:09ころ。

ここから横尾谷に入渓してもいいのですが、連日の雨でいつもより水量が多いので、無理をせずにもう少し先の涸沢出合付近まで登山道を利用することにしました。ウェストンたちはずう~っと道なきルートを進んでいますから、感心してしまいます。
「岩の狭間を狂奔して流れくだる時沸きかえり渦立つ水の上を、丸石から丸石へと飛びながら、荒れた急流の川床をもがきのぼった。おりおり一方から一方へと氷のように冷い流れを渡らなければならず、あるいはまた、荒れた岸辺に取り付き、斧やナイフで、路をふさぐ蔓草や草むらのもつれた茂みを切って前進しなければならなかった」

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▲横尾本谷が登山道から見えて来ました。見えている山は南岳3032.7mなのでしょうか? シシバナの岩壁なのでしょうか? 5:26ころ。

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▲登山道が涸沢出合の真上を通過するあたりで、かすかな踏み跡を見つけました。以前はもっと明瞭な踏み跡があって、テープも付いていましたが、今回は見つけられませんでした。5:33ころ。

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▲涸沢出合の川原に降り立ちました。5:45ころ。

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▲横尾本谷遡行のスタートです。念のために、ハーネス、ヘルメットを装備し、靴も濡れていい靴に履き替えます。6:07ころ。

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▲歩く順番はO橋君、K松さん、Y根君、僕と一応は決めていますが、このメンバーですから、ほぼ自由。各自好きなところを歩いています。K松さんとY根君ですね。6:16ころ。

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▲二俣の手前で残雪が出て来ました。この辺りで標高は約2000mでしょうか。6:28ころ。
「私たちは2080メートルの高度の所で初めて雪を見た」
ウェストンの1891年8月6日のことです。

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▲左俣です。北穂池から降りて来て、右俣カールへと上部だけを横切ったことはあるのですが、ここから大キレットまで歩き登ったことはありません。いつか行ってみたいものです。6:36ころ。

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▲トップのO橋君がルートファインディングしながら進みます。この大岩の箇所では水流沿いに進むのがちょっと困難になっています。大岩の右を回り込むようにして越えるのです。6:51ころ。

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▲順調に高度を稼ぎます。6:57ころ。

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▲登って来た背後を振り返ると、素晴しい光景が広がっています。屏風ノ頭と前穂北尾根。7:08ころ。

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「万雷の轟きを立てて岩の滝壷へそそぐ美しい滝のかかった絶壁の下に達した時、ちょっとのあいだ、素晴しいのぼりとなった。これをよじのぼると広々とした雪原のはしに着いた」
とウェストンが記しているのはこの風景ではないかと僕は思います。滝壺は今でこそ埋まってしまったのでしょう、ありませんが、この上の広々とした黄金平に着くまでは、横尾本谷右俣では一番楽しい登りを味わえるのです。この日は見ての通りの快晴! 天空に駆け登って行くような快感を味わうことができます。7:10ころ。

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▲O橋君が快調に飛ばしています。僕も心浮き立つせいでしょう、二番手に飛び出します。7:13ころ。

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「素晴しいのぼり」の中間地点くらい。ぐんぐん高度を稼ぎ、水は転がり落ちて行っています。7:14ころ。

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▲2級くらいなのですが、手足を用いてグイグイと登って行く感覚は楽しいものですね。時折、身長の高さくらいの岩のボルダリングもあったりしますし。せいぜい3級程度ですが。7:14ころ。

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▲いよいよ「素晴しいのぼり」もフィナーレ! 7:17ころ。

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「これをよじのぼると広々とした雪原のはしに着いた。その雪原は、荒涼としてしかも峨々とした峰々の円形をした山腹に、白い斜面となってかかっていた」
爽快な急登を登り終わって、突然このような場所に飛び出したなら、誰しもがワァウォ~! と、声を上げてしまうでしょう。黄金平です。7:20ころ。

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▲この別天地でしばし休憩です。7:25ころ。
左後方のたおやかな山稜は蝶ヶ岳への長塀尾根ですね。

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▲けっこうな大休止後、再び歩き始めます。すると、ここまでも気になっていた植物が出て来ました。クロウスゴです。僕は勝手に野生のブルーベリーと呼んでいます。7:55ころ。
「谷の下部、約2100メートルの地点で、おいしいクロフサスグリが野生しているのを、ふたたび見つける」とウェストンは書いていますが、僕にはクロフサスグリは見つけられませんでした。その代わり、クロウスゴが見つかりました。例年よりも熟すのが遅いのか、まだ緑色で堅い実でしかありません。ベニバナイチゴも通常なら実が付いているころと思いますが、まだ花が咲いていました。

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▲キバナシャクナゲが咲いていました。7:57ころ。
ウェストンも1912年8月20日に横尾本谷から槍ヶ岳へのコースの途中でたくさんの美しい高山植物を愛でたようです。名前の出ているのだけでも、イワカガミ、テンジクアオイ、ハクサンイチゲなどがあり、そして、場所は横尾本谷ではありませんが「ハイマツの間に、キバナシャクナゲの群落があるのが見えた」と書き留めています。

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「その雪原は、荒涼としてしかも峨々とした峰々の円形をした山腹に、白い斜面となってかかっていた」
ウェストンが歩いた今から100年以上むかしは、この写真よりずっと雪の量が多かったのでしょう。黄金平のすぐ上の円形カールです。横尾のコルは山の稜線の最低鞍部です。8:05ころ。

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▲南南西の方角にポッコリと北穂高岳3106mの北峰に建つ北穂高小屋が見えました。8:17ころ。

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▲カールの壁を登る最後の急登が始まりました。8:27ころ。
「私たちは、ともすれば滑りがちな雪の上をのぼり、それから右の方に進み、砕けた岩をはいのぼって、尾根の割れ目に達した」
ウェストンのこの表現が実際とほぼ合致することを歩いてみるとよく分かります。写真は「右の方に進み」かけたあたりです。

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▲この斜面にシナノキンバイの小さなお花畑がありました。8:33ころ。

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▲右は北穂高岳、左の尾根が前穂北尾根ですね。北穂池はまだ隠れているようです。8:39ころ。

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▲振り返ると、富士山が見えました! 8:40ころ。
真ん中に浮かんでいる雲のすぐ左にあるのですが、分かりますか? 家で写真のコントラストを100%にすると、その形が現われました。

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▲最後の登りです。8:57ころ。
「砕けた岩をはいのぼって」の箇所ですね。これまで僕が辿り着いた稜線よりも少しだけ左へ向かっています。

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▲横尾のコルに到着です。9:04ころ。
1891年の記述は「この尾根のかなたに“槍の峰”が隠れているのがいま分った」となっています。手前の雪原のカールあたりから雨が降り出していたからです。景色は隠れていたようです。
1912年は「11時35分に、私たちは三つ目の頂点のてっぺんに登っていた。横尾大喰の端だった」と記されています。この翻訳自体には僕は確認してみなければならない問題点があると感じています。原典に接してみなければ分らないでしょう。
「大喰」とは大喰岳命名の由来にもなっているのですが、猟師の間では獣たちが集まって山草を貪り喰らう場所のことを言うようです。もともとは普通名詞で「大喰」と呼ばれる場所があちこちにあったのかもしれません。
でも、時間だけは恣意からは離れています。僕たちは3回の大休止をしながら、横尾から5時間かかりました。ウェストンたちの1912年の記録では4時間半です。幕営地は徳沢と横尾の間、横尾に近いと推測できます。ウェストンたちは朝食をとってから出発していますし、10時台の昼食休憩以外はあまり休んでいないみたいです。それにしても、ウェストンは速い! 1912年の夏、ウェストンは50歳です。ウェストン自身は1886年、24歳でマッターホルンに登頂(翌年にも再登頂)しているほどのアルパインクライマーですから、山では本当に強い人物だったのでしょう。ウィンパーによるマッターホルン初登からまだ21年しか経っていない時代に、あの若さで登頂するのですから。今の時代にマッターホルンを登頂するのとは比べ物にならない困難さのはずです。

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▲横尾のコルから来た方向を振り返ってみました。9:14ころ。
上の写真は横尾尾根、その右奥が蝶ヶ岳でしょう。
下の写真はその右に続く景色です。屏風ノ頭、前穂北尾根、北穂高岳。
矢印が2箇所を指していますが、2007年に僕とY根君、S崎君で“穂高お池巡り”をした際に越えたコルです。二つの矢印の中間あたりには北穂池があるのです。左が前穂北尾根の5・6のコル、右が南岳東南稜2652m横のコルです。
「この荒々しい峡谷を見渡す大きい馬蹄形の圏谷。穂高の巨大なバットレスと尖峰がうしろに控え、左向こうには木が茂る蝶ヶ岳の大きい山稜があり、すばらしい」
ウェストンが表現した景色はまさにここですね。

この横尾のコルまでは一般に流布しているウェストンの槍ヶ岳登頂横尾本谷ルートと一緒です。まあ、違い様がありませんものね。
ここからが僕の考えと大きく違って来ます。
でも、もし仮に、ウェストンがここから天狗池経由で槍沢へ下り、坊主岩小屋へ向かったのなら、彼の記録と合致しない点が数多く出て来ます。広場のような天狗原、天狗池、延々と続く槍沢のだらだらした登り、それらの表現は一切ありません。
ではどんな表現があるのかと言えば、1891年には「痩せ尾根を越える」「その峰(槍ヶ岳)はなんと恐ろしく遠いかなたに見えたことだろう!」「鞍部の北側の雪の斜面を駆け降り」とあります。1912年には「大変急で滑りやすいのぼり」「草におおわれた大喰の頭」「今日の道中でも一番てこずった斜面だ」などとあります。
天狗池経由のルートではこのような表現をするべき箇所は思いつきません。穂苅三寿雄氏による(僕の推測なのですが)天狗池と槍沢間の登山道はまだ開通していなかったとしても、困難かもしれない箇所は天狗池から槍沢へ出る部分だけです。ウェストンが書いたような表現が当てはまりそうな箇所はないのです。

いよいよここからが今回の山行の核心部分! 後半の報告を楽しみにして下さい。

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