先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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1921年の労働組合 (読書メモ―「日本労働年鑑」 第3集 1922年版 大原社研編)

2021年09月13日 08時00分00秒 | 1921年の労働運動

1921年国有鉄道事業50周年「鉄道省へ」

1921年の労働組合 (読書メモ―「日本労働年鑑」第3集 1922年版 大原社研編)

(感想)
 なんなんだこの国有鉄道当局の100年前の不当労働行為は!  この時代から、この当局は目の色を変えて、血相を変えて、相も変わらない労働組合つぶし攻撃を続けていたんだ。100年前の昔と今も変わらない本当に非道な連中だ。国労の先輩たちはこうして最初から、本当に100年という大変な歴史を闘い抜いてこられたのだ。あらためて心からの敬意を表します。

第一篇 労働組合
概説
 「我国に於ける労働団体の勢力は、其擁する組合員の数、及至財力に比例しはせぬ。で罷工を起し得る可能性、争闘を惹起し得るだけの階級意識が潜在して居るか否かが、我国に於ける労働団体を測る可き唯一の尺度である」

 「今や労働者間に於ける知識の伝播は注目すべき速度を以て為されつつある。小冊子、労働新聞、労働組合の機関紙、宣伝ビラ等、諸々の教師は日夜工場に街頭に家々に徘徊して其直裁明快なる理論を以て彼らの実感に訴えつつある。労働階級の階級的意識は其知的進歩と共に普遍し深刻化しつつある。」

第一 統計(略)
第二 注目すべき組合の成立と解散
1、国有鉄道「機関車乗務員会」の瓦解
 前年1920年4月に創立した機関車乗務員会は、同年末には会員3千人(機関手1500人、同助手1500人)、東京、山北、大宮、長野、直江津等18の機関庫に支部を置いた。

 1921年1月、当局からの弾圧が始まる。庶務課長「成績不良者と危険と認められるような思想を持っているものは御免蒙るつもりである」。

 1月28日、沼津機関庫の沼津支部結成を目指していた中心的労働者2名を「業務怠惰」で突然解雇。
 
 2月1日、沼津支部結成発会式。沼津座に200名が結集。東京や関西からの数百名の応援部隊は、東京駅・山北駅・三島駅・浜松駅・静岡駅で血眼になった管理職からの妨害にあう。東京駅では当局が参加者に乗車券を渡さない。列車の中にまで多くの監督が乗り込んできて沼津行きの中止を迫ってきた。三島駅でもまた同じことがあった。三島駅・沼津駅にはスト破り要員として動員された工員や汐留教習生が「ギッシリ」詰めかけている。会場沼津座には多数の警官と鉄道省の上官が約200名も押しかけている。西から上がってきた会員によればかれらも原駅で監督の妨害を受けている。浜松駅、静岡駅には名古屋鉄道局村上運輸課長が乗務員と火夫を50名づつ引き連れ血眼になっている。こうした形勢の中午後一時から発会式が挙行された。その夜沼津支部幹部は、「一、被解雇者両名の復職、二、沼津機関区主任と同助手を転任すること」を当局に要求した。

 2月6日、東京明治会館で「沼津支部結成の経過、辛辣な圧迫干渉を社会の世論に訴える目的」で乗務員の臨時大会を開催した。当局はまたもパスの発行を禁止し、上京阻止の妨害をしてきたが、乗車賃を払って上京してきた各地域の支部員は600名に及んだ。

 2月6日、元田鉄道大臣の訓示。「国有鉄道の鉄道従業員としての責務を怠り、服務規律に違反するが如き事あらんか余は適当な措置を執るの止むを得ざるべし」。

 2月8日、沼津支部幹部4名に突如転勤命令。飯田町機関庫支部長へ乗務員と関係のない東京鉄道局庶務課に転勤命令。
 2月10日、田端機関庫支部長他10余名の解雇・転勤命令。

 一方で当局の反面での温情政策。精勤者には表彰と慰安観劇開催、労災退職者には終身年金制度を設置を発表。

 このような当局な残酷なムチとアメの弾圧で、各支部が壊滅していった。最後に残った最も強硬であった大宮機関庫支部も、2月15日の支部総会で「東京本部の二三の幹部の買収も起こる為、壊滅やむを得ざる。この際解散」の意見が出て遂に支部の解散を決定した。

2、「大阪機械労働組合」の創立
 1920年の友愛会退会の「産業・職業別組織へ改造」の決議を受けて、東京では「電機及機械鉄工組合」、「紡績労働組合」、「洋服技工組合」が組織され、6月11日には大阪で機械工業労働者を産業別に組織化した「大阪機械労働組合」が結成された。汽車会社・住友製鋼所・大阪鉄工所など10ヵ所の事業所の約3千余名の組合員を擁し、西尾末廣を組合長とし、日本労働総同盟に加盟し、関西における労働組合界の中心勢力となった。
  綱領
  ①8時間労働制とその実施に伴う生活賃金の確立
  ②夜業禁止及び毎日曜日を休業に
  ③労働保険制度の確立
  ④社会条件の更改

3、「日本労働連盟」の成立
 8月、小石川労働会が普選運動を熱心に行うことに反発して、同会副会長が「経済的活動」を主張し脱退。小石川労働会の一部、工友会、芝浦技友会、日本労働協会等の官業労働者で合同し組織した。会員約1万2千人。

4、「 関東労働同盟会」の成立
 7月、棚橋小虎の「労働組合へ帰れ」を巡って友愛会東京聯合会大会の紛擾(ふんじょう)で、棚橋小虎は聯合会主事を辞任したが、東京鉄工組合、東京電気及機械鉄工組合、東京洋服技工組合、荏原労働組合、赤羽労働聯合会、黒色労働組合等が相次いで脱退し、友愛会東京聯合会は事実上自然消滅の状態に陥った。

 12月13日、「関東労働同盟会」成立。
 東京鉄工組合・東京電気及機械鉄工組合・東京洋服技工組合・荏原労働組合・赤羽労働聯合会・黒色労働組合・紡績労働組合・大日本ゴム労働組合・東京ゴム技工組合・砂村労働組合・東京車両組合・東京造船工組合・ 東京家具職工組合・日暮里労働連合会・千住支部・城北支部、神奈川県鶴見鉄工組合・横浜造船工組合・千葉県野田支部等16組合、3支部で結成した。

5、「芝浦労働組合」の成立
 11月、芝浦製作所内の東京電機及機械鉄工組合芝浦支部、芝浦技友会、立憲労働義会袖ヶ浦支部、共降会芝浦支部の4つの労働団体が合同して結成した。いわゆるの労資協調が目的とする「縦組合」ではなく、あくまで「一工場一組合」を目的とした。

横断的組織と縦断的組織(友愛会「労働運動」第1号)
「日本の組合運動は、その第一歩からして横断的だった。・・殊に友愛会は、あらゆる職業に亘る全国的な組合として発達した。・・協調から闘争への思想変化に伴って、・・闘争の精神は、総じて横断組合で育った」。「縦断組合は、この最初の労働者の自覚――階級闘争の高調――に応戦すべく資本家によって設けられ、政府と御用学者によって唱えられたものだ」。「ところが、今日再び起こりつつある縦断組合は、純御用組合ではない。・・主導的人物は、闘争的横断組合の洗礼を受けた、階級戦の血に燃る労働青年なのだ」。



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