なんという事でしょう
労働者の人格を尊重しろ !
11時間労働をやめて 8時間労働制にして欲しい。
歩合制から日給制にして欲しい。
わずかな、たったこれだけの要求のストライキで
雑司谷の玉椿道場にろう城していた1500名労働者に、
寒い土砂降りの豪雨の中、多数の警察・憲兵は襲いかかり暴力を振るいます。
あげく300名が解雇され、36名が逮捕・起訴されたのです。
なんという事でしょう。
日本交通労働組合の東京市電の車掌・運転手の先輩労働者の闘いです。
1920年主要な労働争議② (読書メモ——「日本労働年鑑」第2集/1921年版 大原社研編)
4、東京市電車従業員のストライキ
1919年11月10日要求書提出
要求
第一 従業員の人格を尊重すべし
(理由)
市電気局は、常に従業員を侮蔑するがごとき態度を有している。故に一般社会も我々を蔑視するのは当然でその罪は当局にある。精神的苦痛で多くの退職者を生む。当局の猛省を求める。
事例
一、監督の名称を付し従業員の自治心を傷つけるがごとく事
一、従業員をあたかも刑事被告人扱いとして、終業のさい裸体にして身体検査をなすがごとき事一、事故発生の際、当局が多くその責任を従業員に負担させる事
一、冬季にうどんを与えるごとき事
一、従業員募集広告に、現従業員の月収額を明示するがごとき事
第二、勤務時間を8時間(6ヶ月間の猶予後)にすべし
(理由)
現在一日平均11時間10分の長時間労働は到底我らの堪えられるものではない。
第三、歩合制を改めて日給制とすべし
(理由)
生活に窮迫する従業員は自己の健康より長時間距離乗務で歩合率を高めようとする。当局はこの弱点を利用して健康を害する非人間的な長時間労働を強いている。8時間労働の日給制にすべし。
8時間を超えた労働には割増賃金を支給いべし。
第四、半期末手当2カ月分を支給すべし
(理由)
物価の暴騰は今や極点に達し労働者は苦悶している。家族の児女に満足な下駄さえ買ってやれない。
第五、退職手当の増額
1920年
2月のサボタージュ闘争
1919年11月、上の要求書を提出したとたんに当局は、組合の幹部10名を解雇してきた。電気局対日本交通労働組合の争議はすでにこの時から勃発している。この時は、岡警視総監の調停で妥協成立したが、その後開催された市議会において当局は労働者の待遇改善についてなんら提案をしなかった。また、解雇された仲間の復職の合意も事実上反故にされた。昨年暮れの妥協はすべて騙されていたのだ。8千人の日本交通労働組合員は当局の背信への憤怒と化した。
2月21日、組合は各職場から30名の交渉委員を選出し当局に交渉を迫った。ところが当局は「30人は全従業員の代表とは認めず」と対応したため、組合は、交通労働組合の代表権を否定されたと激昂した。果然、24日夕方4時頃よりサボタージュ闘争が決行された。巣鴨線では、この日の予定車110台がたちまち41台となり、26日午後には24台と大きく減少した。サボタージュ闘争は全線に伝播、26日夜には、全線の57%、28日夜には74%の車両が止まった。
当局と警視庁は、刑事を八方に配置し、在郷軍人と憲兵隊も出動させた。27日、検察は、突然組合理事長中西伊之助を治安警察法第17条違反で検挙・起訴してきた。その深夜、電気局当局は、組合が最も強い巣鴨車庫に対し、車掌小林大吉以下359名、運転手森口辰吉以下215名もの大量解雇を行ってきた。怒り狂った労働者は巣鴨車庫のすぐ近くの巣鴨倶楽部にてますます団結を強めた。29日576人全員の復職がなり、2月のサボタージュ闘争は終わった。
4月のサボタージュ闘争
沈静化したと見えた労働者の憤怒は突如4月17日の神田明治会館での交通労働組合の決議で再燃した。
一、我らはあくまでも団結の力により8時間労働制及び日給制の獲得を期す
一、御用組合中正会に対し、公私とも反対態度を維持し、監督互選を阻止する
一、御用組合中正会を組織して従業員の生活の蹂躙を企てる楠庶務係長を弾劾する
4月5日間の大ストライキ
25日、帝都の交通機関を突如止めた大ストライキが勃発した。大塚車庫から始まり、広尾線、本所・巣鴨・早稲田・有楽町・青山・新宿へとたちまちにして東京市内全線がストライキ状態となった。ストの車掌・運転手1千余名は、雑司谷の玉椿相撲道場に集合し、気勢をあげ、各支部旗を翻し、米俵を積み炊き出しをし、寝具の搬入など持久戦の準備をした。中西理事長は組合代表4名と共に増田課長を訪ねたが、面会を拒絶された。その後中西理事長は、巣鴨署により検束された。
玉椿相撲道場には、ついに1500名の組合員がろう城した。警視庁方面監察官正力松太郎は、特高以下多数の警察官と憲兵隊を動員し玉椿相撲道場を包囲し、目白女子大学内に本部を置いた。組合に対して、警察は深夜午前零時、ついに解散撤退を命じ道場に突入した。
折からのどしゃぶりの雨、傘なき下駄なき連中を警官は追い立てるが、たちまち両者間の大乱闘となり、真っ暗闇の豪雨の突然の修羅場に、あらかじめ女子大学内に潜伏させていた警官300名が一斉におそいかかり、泥の中の組打ち、怒声叫喚ものすごく、結局30名が検束された。
玉椿相撲道場を追い出された争議団は、急遽市外の豊島郡尾久の「ラジューム温泉硫雲寺」を本拠地とした。26日、1500名は交渉員4名を電気局に急派したが、4名は空しく警視庁に検束された。午後一時硫雲寺も再び解散を命じられたため、夜、吉原堤の「新世界」を三度本拠として集合した。持久戦を覚悟し、組合積立金約2万5千円をストライキ資金とした。
27日、この日検事局に送致された組合員は、中西理事長以下総計46名に達した。
28日夜形勢にわかに一変。友愛会本部にて杉原正夫ら組合理事は「このままストを続行すると200人、300人の犠牲者がでる。これでは労働運動の中心人物を失う事となる」とストライキの中止を宣言した。30日より全線復活。5日間にわたる大ストライキは突如終息したが、結局解雇された組合員は300余名に達し、起訴された者は36名にのぼった。
4月30日の朝日新聞社説
「罷業に対して雇主側が警官や検事局と連絡して高圧態度にでる事は珍しいことではないが、今度の罷業においては市当局は更に一歩進めて、市民を味方に引きつけて大に労働者側と戦わんとする新しい態度に出ている」
スト破り
このストライキでは、早稲田工手学校生徒が、スト破りに動員され、荒畑寒村はこの学生たちを『不名誉なる罷工破り』と呼んだ(解放9年12月号)。