1921年川崎・三菱争議で官憲により殺された故常峰俊一争議で弔辞を読む友愛会鈴木会長
1921年友愛会の動揺と戦闘化 (読書メモー「日本労働年鑑」第3集 大原社研編)
参照
「日本労働年鑑」第3集 第二編 労働運動
「激動の日本労働運動」島上善五郎
「日本労働組合物語(大正)」 大河内一男・松尾洋
1、友愛会指導者への非難
1921年の労働運動の最大特徴である「直接行動」の声は全国を震撼させた。この年の初頭に友愛会中央委員棚橋小虎が、直接行動派、サンジカリズムを抑え込む目的で発表した「労働組合に帰れ」は、現に今、命がけで立ち上がって奮闘している労働者大衆から猛反発を受けた。知識人指導者排斥運動もおき、とりわけ夏の川崎・三菱争議大ストライキの敗北で関西の労働運動での賀川豊彦の権威は失墜し、また足尾銅山ストライキの解決をめぐり麻生久ら指導者への大きな不信が生まれ糾弾の声が高まった。
2、第二回メーデー
5月1日第二回メーデーは、東京、大阪、神戸、足尾銅山等全国で盛大に開催された。
東京では5月1日午前11時より芝浦埋立地に友愛会、交通労働組合、鉱夫総聯合会、小石川労働会、時計工組合、東京電気機械鉄工組合、東京家具職工組合、工友会、工人会、機械技工組合、労技会、抜友会、正進会、信友会等約1万人が、2メートルほどの大きい白い布(寒冷紗)に記した「8時間制の即時実施」「最低賃金法の制定」「兵役制度の革新」「メーデーを祝す」等のスローガンの長旗が林立した組合旗と共に翻る。警視庁は「治安上必要と認めた場合は、いつでも制限・禁止、解散させる」「当日合唱する歌等は事前に届けでること(革命歌合唱の禁止)」等の厳しい制限を付けてきたが、参加者全員は最初から革命歌禁止など警視庁の命令を全く無視・蹂躙し、正進会、信友会は、赤さびた石油鑵を派手に叩いては革命歌を高唱した。集会の開始の定刻がきて松岡駒吉が壇上に立ち、「諸君労働者の祝日の日を象徴するためメーデーの歌を歌いましょう」と叫ぶや正進会らは石油鑵を叩いて革命歌を声の限りに歌い、続けて壇上で松岡が演説を始めたとたん「演説無用」「理屈は知っている」「街頭にいでよ、しかして戦え」とやじを飛ばした。信友会、時計工組合らもこれに応じた。正進会員が打ち振る「資本家の為に日は輝き、労働者の天日は暗し」と書いた赤旗は中天にゆらゆらとゆらぐ(東京日々新聞記事)。
会場は早くも混乱し、叫喚罵声の中、「8時間労働制の即時実施」「最低賃金制度の確立」「兵役制度の革新」の決議文が満場の拍手で可決された。自由演説に入るや、正進会員が壇上に飛び上がり、「我らは知識階級出身者が労働運動にリーダーシップを執ることに反対す」と読み上げ、これに大きな拍手がおきた。デモは数百名の警官の警戒線を破らんと石が飛ぶなどの乱闘がおき、途中、社会主義女性団体赤欄会の登場と検束もあった。16時、警視庁は松岡に「散開」を要求した。松岡が石垣に登り散開を宣言すると「松岡を葬れ」の絶叫がおき、松岡は「あとは諸君の自由行動なり」と投げ出した。この日検束された者は30数名に上った。
大阪では、14団体1万5千人が参加し、「この日資本家は顔色蒼然」「労働者は文化の反動力」「我らは暴力を欲せずサレド?」「巴里は今夜真っ黒け」「富は一人の占有を許さず」などの文字を連ねた長旗がはためく。社会主義同盟の黒旗もある。電業員木村幸太郎が決議文を朗読した。
決議文
我らは速やかに治安警察法第17条の撤廃を期す
我らは団体交渉権の確認を期す
我らは8時間労働並びに最低賃金の即時実施を期す
我らは日曜日公休制を期す
我らは産業管理権を獲得せんことを期す
付帯決議
我らは労働の第一線に立てる敬愛する市内交通機関労働者諸君がここに参加せんことを期す
神戸では1千名が集まった。
決議
一、我らは失業の防止を期す
二、我らは最低賃金制の確立を期す
三、我らは同盟罷工権の確立を期す
足尾銅山では正午より、東京からの応援にかけつけた麻生久と建設者同盟の三宅らを歓迎する数百名の足尾銅山労働者。麻生らが到着すると、労働者は一斉に万歳をあげ、メーデー歌を高唱しつつデモをした。成田山境内に集合した約500名の坑夫は、先頭に大旗を押し立て隊伍堂々高らかに「嗚呼メーデーよ、メーデーよ」を歌いながら会場城崎座に向かった。会場ではリーダーが壇上に立ち上がり「本日は我々の最も記念すべき第一回メーデーである。諸君は声の嗄(か)れるまでメーデーの歌を歌え」と自ら音頭をとって場内割れんばかりに約30分間続けてメーデーの歌を歌った。まさに天を衝かんばかりの意気であった。
3、労働組合同盟会の分裂
5月21日友愛会本部、東京鉄工組合、紡績労働組合、電気及機械鉄工組合は、自らを「労働組合主義」と奉じ、信友会、正進会、大進会ら印刷工組合のこの間の直接行動派、サンジカリズム派とは相いれないとして労働組合同盟会から脱退した。
同盟会の日本交通労働組合、鉱夫総聯合会、大日本工友会、出版工組合大進会、日本機械技工組合、日本印刷工組合信友会、新聞工組合正進会の8組合は以下の「友愛会の脱退について」を発表し糾弾した。
『・・労働組合主義は現在すべての組合の奉ずる主義であるが、それは二つの根本的な傾向上の差がある。すなわち一は資本主義打破を目的とするものであり、他は労資協調を目的とするものである。近来、著しく逆戻りして労資協調的傾向の強くなった友愛会幹部諸君は、この根本的の差をあいまいにして、何人も否定しないところの労働組合主義をあたかも自己の専有ででもあるかのように標榜するのは誤魔化しの最も甚しきものというべきである。われらはここに断固として確信する。横暴なる資本主義を打破し、全労働者階級の解放を期する我らの労働組合主義こそ真の労働組合主義であり・・・・・』
また、友愛会東京連合会大会で棚橋小虎理事は、この間の混乱の責任をとって友愛会中央委員と東京連合会主事を辞任した。
4、友愛会創立10周年大会
(獄につながれた犠牲者に感謝状をおくる)
大会第一日目で、満場の感慨を呼んだのは、数多く寄せられた祝電の内、神戸橘監獄より遥かに送られたる野倉萬次、井上末二郎両氏からの祝電であった。大会二日目には、獄につながれた労働争議犠牲者174名に大会として感謝状を贈る決議が満場一致で採択された。
「資本主義制度の根本に大斧鉞を加えんとする陣頭にたち、ついに牢獄につながれたる諸君の御活動に対し、満腔の敬意を表す」
(犠牲者)
足立鉄工所破壊事件―42名
園池鉄工所争議―9名
メーデーー1名
藤永田造船所争議―33名
川崎鉄工所争―1名
香焼炭坑事件―85名
夕張炭坑争議―4名
*演壇に並んだ藤永田造船所争議会場の刑事被告人西尾末広以下8人を前に、鈴木会長が感謝状を朗読した。あとでこのことが、刑事被告人を賞揚または救恤してはならぬという、治安警察法に違反する行為をしたとして、鈴木、松岡が起訴された。これで友愛会幹部のほとんどが刑事被告人となったわけだった。(*日本労働組合物語(大正) 大河内一男・松尾洋)
10月1日から3日間開かれた友愛会創立10周年大会。この大会から『友愛会』の名称を捨て、「日本労働総同盟」となった。直接行動派、急進派の勢力が増大し、彼らとの激烈な論争が行われた。大会では直接行動派の主張する「団体交渉権要求運動反対決議案」「普通選挙の項目の削除」は否決されたが、工場委員会制度についても資本家側との妥協につながるとの否定的見解が多数を占めた。このような背景のもとで会長鈴木文治はこの会から名誉会長となった。