先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

墨田押上の富士ガス紡績2000人スト! 1920年主要な労働争議④ (読書メモ——「日本労働年鑑」第2集 1921年版 大原社研編) 

2021年07月24日 15時27分38秒 | 1920年の労働運動

(1920年2月27日)

しかし、女性労働者たちは、これに屈しなかった。
組合員500人は、灰色(会社側と言う意味か)3人を袋叩きにし、
友愛会万歳を連呼して止まず、
巡査が女工に井戸水を浴びせてきたため、遂に争闘が起き、
女工は巡査の帽子と靴を奪い、・・・・。

 

18日には友愛会・信友会・正進会その他各地の労働組合の応援部隊が駆け付けた。
浅草停車場に集合し、工場の寄宿舎の女工罷工団の激励に押しかけた。
多数の警官隊に殴られ検束されながらも非常線を突破して敢行された大デモ・大示威運動は悲痛なものであった。
警官の弾圧を跳ね返し、工場までたどり着いたデモ隊に向かい、
寄宿舎に幽閉された女工たちは窓にすがり、手布を振って互いに労働歌を歌った。


墨田押上の富士紡績2000人スト! 1920年主要な労働争議④ (読書メモ——「日本労働年鑑」第2集 1921年版 大原社研編) 

7、墨田押上の『富士ガス紡績』2000人ストライキ

参照
「日本労働年鑑」第2集1921年版 大原社研編 
「日本労働組合物語 大正 大河内一男・松尾洋

組合権承認要求のストライキ
 富士ガス紡績は1914年からある友愛会紡績労働組合押上支部(会員1850人)をつぶそうと御用組織「処女会」を作り、また佐々山工場長による度重なる友愛会脱退強要や組合費徴収に干渉するなど激しい組合切り崩しを行ってきた。7月13日には友愛会押上支部の幹部である富士紡績労働者3人を佐々山工場長への反抗的態度を理由にクビにしてきたのだ。たちまち女工1400人、男400人ら総計2100人の大ストライキが勃発した。
 
 14日、朝6時の交替時間より一斉に、労働者全員が娯楽室に集合、ストライキと以下の要求を決議した。
 ①佐々山工場長は労働組合否認を撤回しろ
 ②和田社長は、組合権を確認しろ

 友愛会がストライキ(罷工)団を指導した。ストライキ(罷工)団本部を押上町155紡績労働組合事務所に設置。

 会社は「友愛会とは交渉しない。工場長と従業員が直接交渉して解決すべき」(大阪毎日新聞7月16日)と表明し、同時に工場のすべての門を閉鎖した。こうして罷工団と寄宿舎女工との連絡を絶ち、女工を寄宿舎内に幽閉監禁して威圧するなど会社は総力をあげて組合と女性労働者との分断をはかり、威圧・懐柔してきた。

 東京日日新聞7月19日は寄宿舎の女工の声を「向島警察署長が来て、『2・3日中に工場の運転を始めるが、その時に工場に出勤する者を止めだてする者は誰彼の容赦なく赤い着物(囚人服)を着せるからそのつもりでおれ』と言った。」「寄宿舎では万歳を唱えても処分されます。監獄の罪人よりも酷い取扱いです」「辰代さんは部屋に閉じ込められて昼夜の食事は子供(幼年工)が運んでいます。」と紹介している。
 
 しかし、女性労働者たちは、これに屈しなかった。組合員500人は、灰色(会社側と言う意味か)3人を袋叩きにし、友愛会万歳を連呼して止まず、巡査が女工に井戸水を浴びせてきたため、遂に争闘が起き、女工は巡査の帽子と靴を奪い、返さない・・・・。

 16日労働者は大平亭にろう城して結束を固める。職工大会で持久戦を決議。「握り飯」の炊き出し、各労働団体への支援要請。連日工場包囲デモ示威行動を行い、一層闘志を高めた。17日押上亭で紡績労働組合押上支部主催の罷工演説会。このような、ほとんど連日『団結権確認要求演説会』が、押上亭・長楽亭・神田青年会館などで開かれた。しかし、その一方で会社寄宿舎内に幽閉監禁された女工への威圧は一層厳しくなり、形勢は刻々と険悪の度を増していった。
 
 18日には友愛会・信友会・正進会その他各地の労働組合の応援部隊が駆け付けた。浅草停車場に集合し、工場の寄宿舎の女工罷工団の激励に押しかけた。多数の警官隊に殴られ検束されながらも非常線を突破して敢行された大デモ・大示威運動は悲痛なものであった。警官の弾圧を跳ね返し、工場までたどり着いたデモ隊に向かい、寄宿舎に幽閉された女工たちは窓にすがり、手布を振って互いに労働歌を歌った。

 19日夜、労働組合同盟会は友愛会本部で会合し、全労働者は罷工団に徹底的援助を与えるべきと決した。
 一、22日中央で団結権確認の大演説会を開催する事
 一、25日全国労働者大会を開き大々的に示威行動を起こす事
 一、全国からカンパを集めストライキ組合員の後顧の心配がないようにする事

 姉妹団体の東京瓦斯工組合も大演説会を、また友愛会本部は組合幹部の非常召集を行った。

 和田豊治社長は、7月19日の大阪毎日新聞紙上で「創立25周年記念として、4万株と50万円を2万の労働者と800の職員に分ける。押上工場には全体の十分の一にあたる10万円を分けるつもりだ。」と、まるで『金か団結権か』と唾棄すべき買収・誘惑さえやってきた。

 21日罷工団は以下「要求と希望」をあらためて工場長に手渡した。
 一、労働者の組合団結の理由を認める事
 一、組合員に脱退を迫り、もしくは組合への加入を妨げざる事
 一、組合費用の徴収に干渉しない事
 一、3名の解雇を撤回する事
 一、今回の事件に関し、佐々山工場長の責任を明らかにする事

勝利
 同日午後6時、持田常務取締役は罷工職工総代永井博宛に以下の表明をしてきた。「会社は友愛会紡績労働組合押上支部に対しては回答の必要は認めないが、罷工職工総代永井博氏ら4人に『会社は団体侵害の意志はなく、将来も労働者の団結を尊重する。しかし使用人の任免権は会社にあり、制限を受けない。』ことを通告する」。

 翌22日罷工団代表は再び持田常務と会談し、会社の『団体侵害の意志なく、将来も労働者の団結を尊重する』の表明について、この際、強いて友愛会押上支部の名にはこだわらないと伝えた。持田常務はこれを了解した。罷工団は、明日は支部総会を開催しみんなで隊伍を組んで会社に行き和解の挨拶を述べよう。そうして24日午前6時より就業しようと申し合わせ、以下の勝利宣言を発表した。

 宣言
「会社は要求全部を承認し我らは、ここに組合団結の自由を得たり、しかも我らの労働条件に対しても相当面目をたつるところありたり、ゆえに今回の罷工はこれをもって終了に決す。
不景気の襲来に対し労働者の団結権を侵害せんとするがごとき資本家は深く反省するところあるべきなり。
友愛会紡績労働組合押上支部」

会社の卑劣な策略
  戦いはこれで終わったと2100人労働者みんなは安堵した。しかし、実は会社に策略があった。23日午後3時半、400人が隊伍を整えて会社に和解の挨拶に行こうとしたところ、工場の門の扉は固く閉じられていて誰も中に入れない。持田常務は罷工団代表者との面会も挨拶すらも拒否してきた。やがて警官が現れ労働者に解散を命じてきた。しかも、この日、今回のストライキの先頭に立ち奮闘した3人の先進的女性労働者が突然クビになり、その上強制的に田舎に帰国させようと上野駅へ送られたという緊急連絡が入った。争議がたちまち再開された。ある者は会社の背信横暴に憤り、ある者は会社の陷穽(おとしあな)にはまった自分をあざけった。会社の裏切りは明らかだ。

 しかし、いったん「戦は終われり」とみんなの気持ちが緩んだ時、さらなる闘いは困難だった。そこへ会社からの第二撃攻撃がなされた。24日午前10時に会社から全組合員に葉書が届いた。「罷工組合員は、26日午後6時までに就業の意思があるか申し出でよ。申し出がない時は除名。押上工場」と。
 24日午前8時罷工団は会議で「一、佐々山工場長の責任を明確にすること、一、今日までの強制退社とクビを取り消し、今後絶対に行わない事」を決め、会社に要求した。
 25日朝、各労働団体の応援を得てデモ・示威運動・・・更なる闘いを続けたが、会社の切り崩しは着々と進み、労働者の大量脱落が続いた。形勢は急転直下した。26日友愛会押上支部、最後の城壁を死守せんとする者はわずかに34(37)人であった。

富士紡友愛会1850人から34人へ
 ストライキが惨敗して、眼に血の涙が滲んだ34(37)人が最後に押上の支部の二階に集まった。塩をなめても結束してこれからも1ヶ月でも2カ月でも富士ガス紡と戦う事を決意した34(37)人に、『この惨敗が将来の労働運動を祝福するものであるという事を考えて、一時この運動を中止するが良いと思う』と説得する友愛会指揮者の発言に、彼らの眼から期せずして悲憤の涙がこぼれ落ちた。

 かくして、2週間の2000人大ストライキは全面敗北となった。しかし、このストライキが労働条件改善の要求を原因とせず、ただただ「労働組合権の確認」だけの要求によるストライキであったことは、我が労働運動史上、特に注目されたい。彼らが主張した組合権とは団体交渉権であり、集合契約の承認である。これこそが労働組合の基本なのだ。今年の3月以降の恐慌の中で労働運動全体の士気が衰えつつある時、敢然と立って労働組合の基本権の確認を争ったことは、いかに日本の労働運動が前進しつつあるかを示しているものである。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。