写真・堺利彦と山川均と大杉栄
1922年「サンジカリズム」と「ボルシェビズム」(読書メモー「第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907~1928(二村一夫著作集)」)
参照
「第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907~1928(二村一夫著作集)」
二村一夫著作集 第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907~1928
「4、労働運動思想の変化」のサンジカリズムとボルシェビズム
2「サンジカリズム」
これらの新思想のなかで、「デモクラシー」に続いて労働運動をとらえたのは「サンジカリズム」であった。早くからアナキズムの色彩が濃かった信友会、正進会など印刷工の組合だけでなく、友愛会でも、1920年には関東や、関西でも京都地方の活動家の間にその影響は拡がっていった。阪神地方ではギルド社会主義を信奉する賀川豊彦の影響が強く、同年10月の友愛会第8周年大会は議会政策か直接行動かをめぐって、関東側と激しく対立したほどであった。しかし、三菱・川崎争議の敗北を機に労働運動に対する賀川の影響力は衰え、「サンジカリズム」の全盛時代が到来した。
もともとサンジカリズムの運動は一定の理論体系にもとづいて成立したというものではない。むしろ、ヨーロッパの社会主義政党の「体制内化」に批判的であった戦闘的労働者の間で展開された運動を理論化したのがサンジカリズムであった。
日本の「サンジカリズム」もこの点は同じで、欧米のサンジカリズム理論にもとづいて形成された運動であるというより、この時期の労働運動に支配的であった諸傾向が「サンジカリズム」と呼ばれたのである。支配的な諸傾向は何かといえば、(1)労働組合運動の第一義的目標を階級制度の廃絶に置くこと、(2)普選運動など一切の政治運動の否定、(3)機械破壊など実力行使の容認、(4)知識階級指導者の排斥などである。
注目されるのは、ここでは、ヨーロッパのサンジカリズム理論の核心をなすゼネスト論が欠落していることである。階級社会を廃絶するためには、政党を通じての運動では駄目で、純粋に労働者階級だけの組織である労働組合(サンジカ)の直接行動こそ決定的な意義をもつ、というのが本来のサンジカリズム理論の中心的命題であった。そこでは、直接行動とはストライキ、サボタージュ、とりわけゼネストを意味していた。これに対し、日本の「サンジカリズム」ではゼネストはほとんど問題にされず、かわりに戦闘的少数者による暴力行使が強調され、しばしば、この暴力行使が「直接行動」の名で呼ばれている。本来は、機械破壊等による生産阻害まで含む「サボタージュ」が、日本ではその一形態にすぎない組織的怠業としてのみとらえられ、ついには個人的に怠けることまで意味するようになったことと訳語一人歩きの好一対である。
このような傾向は、もちろん日本の運動が置かれていた状況を反映していた。友愛会の総力を結集した三菱・川崎争議敗北の後で、ゼネストは問題になりようがなかった。これに対し、少数者による破壊は、労働者が機械ではなく意思をもった人間であることを示しうる点で、残された唯一の手段であると考えられた。ただ実際には、よく言われるほど、この時期の争議が破壊を伴なったわけではない。組織的に計画された打ち壊しは21年1月の足立製作所争議でおこなわれたに過ぎない。藤永田造船所、三菱・川崎争議等でも騒擾罪が適用されているが、いずれもデモが取締りの警官と衝突したものであった。ただし、いずれも未遂におわっているが、大阪電燈争議の際は西尾末広らが、三菱・川崎争議では赤松克麿らがダイナマイトによる破壊計画を立てている。彼等は、大杉栄らのアナキストとは対立する立場に立っていたが、労働組合運動の目的を革命におき、少数者の実力行使を是認した点では、明らかに「サンジカリスト」であった。「アナ・ボル対立」のため決裂した「日本労働組合総聯合創立大会」の翌日、1922年10月1日に開かれた「ボル派」の中心・総同盟の第11周年大会は、創立以来の綱領を改正したが、その内容は、まさにサンジカリズムそのものであった。曰く「我等は労働者階級と資本家階級が両立すべからざることを確信す。我等は労働組合の実力を以て労働者階級の完全なる解放と自由平等の新社会の建設を期す」。
いずれにせよ、日本の労働者階級の先進的部分は、この段階ではじめて、一定の大衆的な拡がりをもって、資本主義社会の廃絶が自らの階級的使命であることを認識したのであった。
では、何故、この時期に、労働組合運動が労資協調論からいっきょに「サンジカリズム」に飛躍したのであろうか。この点を主題にすえて検討した渡部徹は、「サンジカリズム期」に先だつ19年の後半、ギルド社会主義が労働運動の指導理論となり、これが接続項となって「サンジカリズム」が容易に受容されたと説いている。ギルド社会主義は、日本の労働運動が模範としてきたイギリス産の理論であり、その主張の賃金奴隷の廃止、労働者自治の主張、反マルクス主義的性格が日本の労働者の問題意識と同質のもので、違和感なく受けとめられたことなどを指摘し、さらに、ギルド社会主義からサンジカリズムヘの転換の契機としては、1920年前半の普選運動の挫折と戦後恐慌をあげている。
たいへんきめこまかな分析ではあるが、ギルド社会主義に関しては、それが論壇でもてはやされたほど労働運動全体に影響を及ぼしたといえるのかどうか、また、ギルド社会主義を接続項にしたことが「サンジカリズム」を容易に受容させたことは事実であるにしても、それが急速な「サンジカリズム」化にとっての不可欠な要因であったのか疑問が残る。より一般的な疑問は、運動を制約する客観的条件を「外在的要因」として軽視し、理論の果した役割を過大評価しているかに思われる点である。
たしかに、戦後恐慌それ自体は運動の「外在的要因」である。しかし、そこで展開された労働者の運動体験、生活経験は単なる外的要因ではない。サンジカリズム理論が運動の「サンジカリズム」化を招いたというより、きびしい官憲の弾圧、容赦ない資本攻勢のもとで惨敗を続け、従来の運動方針の行き詰まりが誰の目にも明らかであったからこそ、サンジカリズムが急速に受容されたと見るべきではなかろうか。
さらに付け加えれば、友愛会はじめ日本の労働組合が「労働力の売り手の組織」としては非力で、むしろ労働者の地位向上がその主たる関心事であったことが、アナキズム、「サンジカリズム」を抵抗なく受容させた重要な要因であったと考える。友愛会の「地位向上」の要求は、大正デモクラシーの高揚のなかで「人格尊重」「人間平等」の容認を求める要求に発展していたのであるが、これと総同盟の改正綱領「労働組合の実力を以て労働者階級の完全なる解放と自由平等の新社会の建設を期す」こととの間に断絶はほとんど意識されていないのではないか。だからこそ、このきわめて重要な内容をもつ綱領改正がほとんど議論らしい議論なしに成立しているのである。実際、さきに引用した『労働者新聞』(19年6月)紙上の一労働者の発言は、第一次『労働運動』の創刊(同年10月)にあたって、その巻頭に掲げられた大杉栄「労働運動の精神」と論旨において全く同一である。先進的労働者がアナキズム、サンジカリズムを受け入れるのに、さして思想上の「転換」「飛躍」を要したとは思えない。
3「ボルシェビズム」
労働運動が全体として「サンジカリズム」化したといっても、もちろん、統一的な運動が形成されたわけではない。運動内部では、組織的、人的な関係が錯綜していた上に、理論的、思想的な対立がしだいに顕在化していった。いわゆるアナ・ボル対立である。
「アナ」「ボル」両派とも労働運動の目標に、労働者階級の解放、自由・平等の新社会の建設を掲げ、普選運動に否定的な点では共通していた。両者をわけたのは、労働組合運動の組織諭とロシア革命に対する評価であった。
組織論をめぐる対立は、全国の主要な労働組合を集めた1922年9月の日本労働組合総聯合創立をめぐって激しく争われた。大杉栄らアナキストは、労働者の自主・自治を強調し、労働組合の「自由聯合」を主張した。一方、「ボル派」は中央集権的な資本主義に対抗するには、戦闘力の集中が必要であるとして組合の中央集権的合同を主張した。総聯合創立大会は、「合同主義」をとる総同盟系と「自由聯合主義」に立つ反総同盟系の主導権争いの場となり、労働戦線統一の企ては、かえって対立を激化させる結果となった。異なった立場の組織が、共通の敵に立向うための「協同戦線」は、言葉の上では提起されていたが、実際の運動ではほとんど考慮されず、両者とも、あるべき労働組合の組織形態について自己の原理の優越性を抽象的に主張するにとどまった。
アナ・ボル対立のもう一つの対決点はロシア革命に対する態度であった。もともと、天皇制下の日本の社会主義者はツアーリの圧制下にあるロシアの革命運動に強い関心と共感を抱いていた。それだけに、ロシア革命の成功は、彼等に強い感銘を与えた。古くからの社会主義者だけでなく、第1次大戦後に運動に参加した青年も、ロシア革命とそれを成功に導いたレーニン主義への関心を強めた。中でも山川均は、雑誌『社会主義研究』等を通じ、ロシア革命、ボルシェビズムについて精力的に研究、紹介し、「ボル派」の指導的な理論家となった。
一方、大杉らのアナキストも最初はロシア革命を支持した。大杉は堺・山川らよりも積極的にコミンテルンと接触し、第二次『労働運動』では「ボル派」の近藤栄蔵らと協力したほどであった。しかし、労農ロシアにおけるアナキスト迫害の事実を知るにつれ、大杉らはソビエトを非難し、「ボル派」と対立した。
「ボル派」はアナキストとの理論闘争を通じて、次第に政治行動否定のサンジカリズム的傾向から脱却しはじめた。かくて1922年7月、コミンテルンからの積極的な働きかけもあって、日本共産党が結成された。
共産党の結成は、日本の労働者階級の歴史において、これまで全く例のない新たな型の組織の出現を意味していた。第1は、共産党が非合法の秘密結社であったことである。治警法第1条は「政事結社」に届出の義務を課し、同第8条は内務大臣に結社禁止の権限を与えていた。社会民主党はじめ、従来の社会主義政党はこの規定に制約され、妥協的な綱領を掲げるか、結社禁止を覚悟して届出て直ちに禁止されてきた。共産党が非合法の秘密結社であったことは、こうした配慮を不要にした。審議未了に終ったとはいえ、22年テーゼ草案が「君主制の廃止」を要求に掲げることができたのは、このためであった。この党の出現によって労働者階級が自らの権力を樹立することが、はじめて実践的な課題となったのである。支配階級はこの事実をよく理解した。言葉の上では共通の内容をもつ総同盟の改正綱領が不問に付されたのに、共産党の創立は治安維持法の制定を必要としたのである。
第2は、それがコミンテルンの日本支部として、国際的な革命運動組織の一部であったことである。日本が後進資本主義国であったことは、支配階級にとっても被支配階級にとっても、社会問題や労働運動が萌芽のうちから、問題の重要性や将来の発展方向を予見させ、先進諸国の経験に学ぶことを可能にしていた。しかし、この可能性を現実のものにする上で、被支配階級はきわめて不利な立場にあった。とくに、日本が極東の一島国であること、言語をはじめ異質の文化体系に属していることは、経済的にも、教育機会の面でも劣っている労働者階級が国際的な運動と交流しその経験から学ぶ上で大きな妨げになった。社会主義運動が、本来的なその担い手である労働者階級の間に容易に拡がらず、長い間知識階級を主たる担い手としたことも、この事実と深くかかわっている。
一方、支配階級は常に運動がまだ芽生えのうちに、先手を打ってきた。治安対策が何よりも「思想対策」であった一つの理由はここにあった。
コミンテルン日本支部の結成は、この点で日本の労働者階級が立ち遅れをとりもどすのに一定の役割を果した。22年テーゼ草案、27年テーゼ、32年テーゼ等が日本の運動に及ぼした影響を考えれば、それは明らかであろう。これらのテーぜをはじめとするコミンテルンの指導、国際共産主義運動との交流によって、日本の社会主義運動は思想運動、啓蒙運動の段階から抜け出し、現状の科学的分析にもとづき、意識的に運動を組織し指導することを学んだのであった。反面、彼我の理論的較差の大きさは、コミンテルンやソビエトの権威に対する盲従をもたらすなどマイナスの要因も小さくなかったのではあるが。
このように、共産党の結成は、歴史的には一つの画期的意義をもっていたが、結成半年後の党員数58人が示すようにその組織勢力は決して大きなものではなかった。しかも、生まれたばかりの共産党は、組織的にも、思想的にも統一を欠き、その実態は従来の思想団体や労働団体の中心分子の連合体ともいうべきもので、後に「上海会議一月テーゼ」によってきびしく批判されたところであった。