ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

1937年の「南京事件」とは何?

2015-01-30 07:04:23 | 世相
 階級闘争で標的にしていた富農層がいなくなり、中国共産党は国内統合に必要な標的として日本に着目し、‘94年江沢民が愛国主義教育と称して徹底した反日教育を国策として採用しました。南京大虐殺記念館は中国国内に数ある抗日記念館の代表的施設で愛国主義教育基地とされています。今年は戦後70年、中国では大々的に戦勝記念行事を開催するでしょう。その際、南京大虐殺は恰好の反日キャンペーンとして喧伝されると思います。こういうときに南京事件とは何かを今一度振り返ってみませんか?

南京攻略戦について

 1937年、日本軍は12月10日より南京総攻撃を開始。12月13日、南京は陥落した。南京戦の時点で、南京に残っていた人口はおよそ20万人。

 日本軍による南京攻略時の殺人・強姦・略奪などの事件を世界で最初に報道した2名の外国特派員は現地の人望厚い宣教師からの情報をもとに記事にしました。現地の人望厚い宣教師とはベイツとフィッチの二人です。彼ら二人の宣教師は中国国民党に繋がる人物で、彼らの情報は国民党の謀略宣伝(プロパガンダ)だったのです。30万人虐殺と著書『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』に記したティンパリーの情報源も宣教師の二人でした。

 ニューヨーク・タイムズ東京支局長だったH.S.ストークスは1980年5月に起きた韓国の光州事件の取材体験から、短期間の現地取材では一区画だけしか離れていない現場状況も知り得なかったとし、情報提供する現地の情報源がいなければ事件の全体像など短期間では到底把握できないと述べています。

 この経験からストークスは30万人もの南京大虐殺は宣教師らが情報源で、宣教師の裏にいた中国国民党が操作した政治的プロパガンダだと結論しています。あの毛沢東も蒋介石もかつて南京大虐殺に一度も言及していないのです。ただし、ストークスは当時の南京において日本軍による殺人が皆無だったと論じているのではありません。

 以下は、『英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄』(H.S.ストークス著 祥伝社新書2013年刊)第5章 蒋介石、毛沢東も否定した「南京大虐殺」を転載したものです。

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情報戦争における謀略宣伝(プロパガンダ)だった「南京」
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 私は歴史学者でも、南京問題の専門家でもない。だが、明らかに言えることは、「南京大虐殺」というものが、情報戦争における謀略宣伝(プロパガンダ)だということだ。

 その背後には、中国版のCIAが暗躍していた。中国の情報機関は、イギリスの日刊紙『マンチェスター・ガーディアン』中国特派員のH.J.ティンパリーと、密接な関係を持っていた。

 ティンパリーは『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』と題する本を著して、南京での出来事を造り上げ、ニューヨークとロンドンで出版した。この著作は当時、西洋知識人社会を震撼させた。「ジャーナリストが現地の様子を目の当たりにした衝撃から書いた、客観的なルポ」として受け取られた。いまでは国民党中央宣伝部という中国国民党の情報機関がその内容に、深く関与していたことが、明らかになっている。

 ティンパリーの本は、レフト・ブック・クラブから出版された。この「左翼書籍倶楽部」は、北村教授の調査1)によると、1936年に発足した左翼知識人団体で、その背後にはイギリス共産党やコミンテルンがあったという。

 さらに、ティンパリーは、中国社会科学院の『近代来華外国人人名事典』にも登場するが、それによれば、「盧溝橋事件後に国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と書かれている。

 また、『中国国民党新聞政策之研究』の「南京事件」という項目には、次のような詳細な説明もある。

「日本軍の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処は直ちに当時南京にいた英国の『マンチェスター・ガーディアン』の記者のティンパリーとアメリカの教授のスマイスに宣伝刊行物『日軍暴行紀実』と『南京戦禍写真』を書いてもらい、この両書は一躍有名になったという。このように中国人自身は顔を出さずに手当を支払う等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝手法は、国際宣伝処が戦時最も常用した技巧の一つであり効果が著しかった」

 北村教授は国際宣伝処長の曽虚白が、ティンパリーとの関係について言及している事実を、紹介している。

 「ティンパリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった」
 「彼が(南京から)上海に到着すると、我々は直に彼と連絡をとった。そして彼に香港から飛行機で漢口(南京陥落後の国民党政府所在地)に来てもらい、直接に会って全てを相談した。我々は目下の国際宣伝において中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわなければならないと決定した。ティンパリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパリー本人とティンパリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した」

 このように、南京大虐殺を同時代の世界に発信した最も重要な英文資料は、中国版CIAによって工作されていた。工作活動が大規模であったことも、曽虚白の説明で裏付けられる。

 「我々はティンパリーと相談して、彼に国際宣伝処のアメリカでの陰の宣伝責任者になってもらうことになり、トランスパシフィック・ニュースサービスの名のもとにアメリカでニュースを流すことを決定した。同時に、アール・リーフがニューヨークの事務を、ヘンリー・エヴァンスがシカゴの事務を、マルコム・ロシュルトがサンフランシスコの事務を取り仕切ることになった。これらの人々はみな経験を有するアメリカの記者であった」

 曽虚白はアメリカに宣伝の重点をおいたが、トランスパシフィック・ニュースサービス駐在事務所の名で、ロンドンでも宣伝活動を組織的に実行した。

 つまり初めから、「南京大虐殺」は中国国民党政府によるプロパガンダであった。ティンパリーは中国国民党政府の工作員さながらの宣伝活動を、展開した。

 北村教授の本のポイントは、さまざまな西洋人が中国版CIAと深く関わっていたということだ。中国のプロパガンダ組織は、その活動を通して、西洋人を利用できると自信を深めた。

 ティンパリーが中国情情報機関から金を貰っていたことは、間違いないが、いったいどのくらい貰っていたのかは、明らかになっていない。

 北村教授の本によると、ティンパリーは、犠牲者数として「30万人」という数字を本国へ伝えた。いったい、この「30万人」という数字は、どこからきたのだろう。北村教授は中国の情情報機関がティンパリーを通じて、世界に発信したとしている。

 1938年初頭で、中国の情情報機関が十分に整備されていなかったが、ティンパリーの働きは絶大で、中国の情情報機関も驚愕し、味を占めた。

 日本人は野蛮な民族だと、宣伝することに成功した。中国人は天使であるかのように位置づけられた。プロパガンダは大成功だった。
・・・・・・
「南京大虐殺」を世界に最初に報道した記者たち

 「南京大虐殺」と称される出来事を最初に世界に報道したのは、南京にいた外国特派員、『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディンと、『シカゴ・デイリー・ニューズ』のアーチボールド・スティールの二人だった。南京陥落後の12月15日、二人は電気が停まった南京から上海へ向かった。日本軍による南京攻略戦の記事を送るためだった。『シカゴ・デイリー・ニューズ』は15日に、「南京大虐殺物語」との見出しで、トップの扱いでこのニュースを報じた。

 「南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば『地獄の4日間』ということになろう。・・・・・・南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言語に絶する混乱とパニックと、征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない人たちであった。・・・・・・それは羊を殺すようであった。・・・・・・以上の記述は包囲中の南京に残った私自身や他の外国人による目撃にもとづくものである」

 ダーディン記者の記事は『ニューヨーク・タイムズ』に18日に掲載された。

 「南京における大規模な虐殺と蛮行により・・・・・・殺人が頻発し、大規模な掠奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害・・・・・・南京は恐怖の町と化した。・・・・・・恐れや興奮から走る者は誰もが即座に殺されたようだ。・・・・・・多くの殺人が外国人たちに目撃された」
・・・・・・
 1938年7月、・・・・・・ティンパリーが、『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』と題する本を出版した・・・・・・

 この本は、南京陥落前後に現地にいて、その一部始終を見たという匿名のアメリカ人の手紙や、備忘録をまとめて、南京における日本軍の殺人、強姦、掠奪、放火を告発したものだ。

・・・・・・その後、匿名の執筆者が国際委員会のメンバーで南京大学教授であり、南京の著名な宣教師として人望のあったマイナー・ベイツと、やはり国際委員会のメンバーで宣教師のジョージ・フィッチ師であると判明したことにあった。・・・・・・
・・・・・・ベイツとフィッチも第三者ではなかった。

 ベイツは国民党政府「顧問」であり、フィッチは妻が蒋介石夫人の宋美齢の親友だった。

 ベイツは「その本(『戦争とは何か』)には、12月15日に南京を離れようとしていたさまざまな特派員に利用してもらおうと、私が同日に準備した声明が掲載されている」と述べている。その特派員はスティール、ダーディンなどであり、ベイツが渡した「声明」とは次のようなものである。

 「(日本軍による南京陥落後)二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまった。市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告していた。・・・・・・死亡した市民の大部分は、13日の午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き刺されたりしたものだった。・・・・・・元中国軍として日本軍によって引き出された数組の男たちは、数珠つなぎに縛りあげられて射殺された。これらの兵士たちは武器を捨てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた者もいた。・・・・・・南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は・・・・・・」

誰一人として殺人を目撃していない不思議
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 『市民重大被害報告』(Daily Report of the Serious Injuries to Civilians)は、ルイス・スマイス南京大学社会学部教授によって1938年2月にまとめられた。全444件中の123件がティンパリーの著した『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』の付録に収録され、その後に蒋介石の軍事委員会に直属する国際問題研究所の監修で『南京安全地帯の記録』として1939年夏に英文で出版された。それによると南京陥落後の三日間の被害届は次のとおりとなる。

「12月13日~殺人ゼロ件、強姦1件、略奪2件、放火ゼロ件、拉致1件、傷害1件、侵入ゼロ件。
 12月14日~殺人1件、強姦4件、略奪3件、放火ゼロ件、拉致1件、傷害ゼロ件、侵入1件。
 12月15日~殺人4件、強姦5件、略奪5件、放火ゼロ件、拉致1件、傷害5件、侵入2件。」

 これは日本側による報告ではない。国際委員会が受理した南京市民の被害届で、日本大使館に提出されたものである。補足すると目撃者がいる殺人事件は、南京陥落後三日間でゼロであった。誰一人として殺人を目撃していない。

 ベイツは、中央宣伝部の「首都陥落後の敵の暴行を暴く」計画に従って、「虚構」の報告を書いたと考えられる。ベイツは聖職者でもあり人望も厚かったので、ウソをでっち上げるとは、スティールもダーディンも思っていなかったのかもしれない。

 また二人の特派員にとっては、南京の信頼のおける人物が目撃した報告として報道したが、その真偽の裏は取らなかった。スティールとダーディンは世界で最初に「南京大虐殺」を報道した歴史的栄誉に輝く外国特派員となったが、東京裁判に出廷した時は「頻発する市民虐殺」を事実として、主張することがなかった。

 この後も、外国特派員による「南京大虐殺」の報道が続いて、欧米の新聞に載った。

 2月1日に、こうした外国特派員の記事を根拠に、国際連盟で中国代表の顧維鈞が演説して、南京市民が二万人も虐殺されたと言及した。

「南京」が虚構であることの決定的証拠

1938年4月に、東京のアメリカ(米国)大使館付武官のキャーボット・コーヴィルが調査のために、南京にやってきた。米国大使館のジョン・アリソン領事などとともに、ベイツなど外国人が集まって南京の状況を報告した。

 コーヴィルは「南京では日本兵の略奪、強姦は数週間続いている。アリソンは大使館再開のため1月6日午前11時に南京に着いたが、掠奪、強姦はまだ盛んに行われていた」と報告している。なぜ、コーヴィルは殺人や虐殺を報告しなかったのか。ベイツまでいたというのに、一人として市民虐殺をアメリカ(米国)大使館付武官のコーヴィルに訴えなかった。

・・・・・・アメリカの新聞記事が「日本軍による虐殺」を想わせる報道をしているにもかかわらず、中央宣伝部は「南京大虐殺」を宣伝材料にして国際社会にアピールをしなかった。南京陥落の4ヵ月後に中央宣伝部が創刊した『戦時中国』(China at War)の創刊号は、「南京は1937年12月12日以降、金と略奪品と女を求めて隈なく町を歩き回る日本兵の狩猟場となった」と報告しただけで、「虐殺」にはまったく触れなかった。

 そもそもベイツもフィッチも、南京城内の安全地帯にいた。前述したように、安全地帯では「大虐殺」どころか、「殺人」の被害届すらわずかしかなかった。それも目撃された殺人はゼロだった。いったい、ベイツやフィッチの描写する「3日間で12,000人の非戦闘員の男女子供の殺人」や「約3万人の兵士の殺害」とは、どこで起こったことなのか。(以下、略)

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参考文献
1)北村 稔 立命館大学教授、著書『「南京事件」の探求』文春新書2001年
2)東中野修道 亜細亜大学教授、著書『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社2006年


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1 コメント

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読者の皆さんへ (ヒゲジイ)
2015-01-30 16:46:20
いつも読んでいただいてありがとうございます。
 国内統合を目的に反日を国策としている中国や韓国が「南京大虐殺事件」や「従軍慰安婦」で歴史を歪曲しようとしていることに納得できません。
 せめて日本国民として事実がどうだったかを知っておくことは大切なことと考えています。
 その際重要なことは当事国以外の第三者が当該の歴史をどのように見ているかではないでしょうか?
英国人記者が史料に当ってみた結果辿り着いた「南京大虐殺」とは何かをご紹介します。
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