湖北
清国陸軍学生 易甲鷼及高曾介
自明治三十四年十二月一日 至三十五年三月尽日 作業
・明治三十五年一月十四日 清国湖北学生易甲鷳
情況
船橋附近ニ於テ不利ノ戦闘ヲナシタル東軍ハ急追ヲ受ケツヽ本隊ハ佐倉街道ヲ其右側衛ハ七熊ヨリ第五営ノ南側ニ通スル道路ヲ退却中上飯山拒馬堤西南端ヲ退却中敵ノ一部船橋ヨリ古和釜ニ通スル街道上第五営ノ西北方約二千米ノ道路幅凑点ヨリ東進中ナルヲ聞ク
問題
右側中隊長ノ決心
決心
速ニ第五営附近ニ至ハ迂回シ来タル敵ニ向テ逆襲ス
理由
任務ヲ尽ス為メ唯五営附近ニ於テ防勢ヲ取レバ本道ヨリ我本隊ヲ追撃シ来タル敵第二営附近ニ至レバ右側衛ハ退路無シ所謂死ヲ待ツ之ニ及シテ攻勢ニ転スルト此ノ迂回シ来タル敵ノ兵力我ト同等ナル時此ヲ駆逐シテ五営ノ東北方射的場ヨリ退却スル得敵優勢ナル●中隊悉ク死テモ敵ニ多クノ損害ヲ與ヘルコトヲ得
両方面ノ敵ノ相合スル点ニ至リ●襲スルハ目下ノ情況上到底為スヲ得サルナリ此決心ヲ有スレハ●ハ現時ノ位置ニ於テ船橋方位ヨリ敵ニ向ヲ決戦セントス
処置
速ニ五営ニ至リ逆襲ニ転ズ
〔下は、附図〕
収容隊掩護陣地略図 一月十四日午前九時ニ於ケル 清国湖北陸軍学生 易甲鷳
・明治三十五年一月二十一日 清国湖北学生易甲鷳
想定
八幡附近ニ於テ戦闘中ナル東軍大隊ハ不利ノ情況ニ陥リ早晩佐倉街道ヲ習志野原方位ニ避退スヘキ情況ニアリ習志野原第五営ニアリシ歩兵二中隊ハ古参大尉ノ指揮ニ属シ七熊附近ニ位置シ大隊ノ退却ヲ容易ナラシムベキ命ヲ受ク
問題
撰定サレタル陣地ノ判断
判決
陣地ハ七熊ノ西南方約七百米突ノ高地ヲ良トス
陣地ノ撰定ハ同意
少シク来セハ退路良好ナルノ利アリ
理由薄弱
理由
此ノ陣地ハ退却不便ナルト雖モ船橋町ノ地形ハ船橋駅ニ至リ狭窄ナリ此ノ二中隊此ノ地ヲ占領スルト敵ハ展開シテ船橋町ノ北方ヨリ出ルヲ得ス且ツ迂回路ニ向テ射撃スルヲ得以テ我最モ危険アル右側ヲ掩護スルヲ得ル所以ナリ
処置
略図ノ如ク配備シテ日枝詞ノ東南方高地ニアル我軍ノ後衛ト協力シテ敵ノ船橋町ヨリ出ルコトヲ遅滞セシメ我軍ノ後衛前原新田ノ陣地ニ移シ〔リ〕タル後チ退却ス
下は、資料中の地図数例である。
・愛甲村附近前哨配備略図 一月十五日午後九時ニ於ケル 清国湖北陸軍学生 易甲鷳
・上落合村東段河川ノ略図 一月二十四日午後二時ニ於テ 清国湖北学生 易甲鷳
・第一大隊攻撃部署ノ略図(下安村附近ニ於ケル) 明治三十五年二月二十日 清国湖北陸軍学生 高曾介
・収容隊長決心ノ略図 三月十八日午前十時ニ於ケル 易甲鷳
・厚木町附近前衛各部之位置略図 清国留学生 段蘭芳
〔蔵書目録注〕
本資料は、近衛歩兵第二連隊の清国見習い士官としての習志野原、厚木、落合、所沢附近などでの実地訓練における作業記録である。22.5センチ、厚さ2センチ。
内容は、清国易甲鷳と高曾介が、自ら毛筆の日本語で書いた想定、問題、決心、答解、理由、処置、地図等に対して、教官の陸軍歩兵大尉児玉市蔵、陸軍歩兵中尉川崎茂助らによる赤字の講評等である。なお、文と地図〔21葉残存〕など、必ずしも一致せず、脱落がかなりあると思われる。〔上は、その一部。〕