久野久子女史
下村鐵洲
我國女流ピアニストの天才たる久野久子女史は漣 さざなみ や滋賀の舊都の片ほとり馬場 ばんば の町にお生れなさいました。それは明治十八年も押し詰つた暮の二十八日のことでム ござ いました。當時お父さんは酒屋と質屋とを兼業して、五十萬圓から財産を蓄へておいでになりましたので、町の人々は、誰一人として女史が神樣に祝福されて此世に生れてゐらしつたことを疑ふものはムいませんでした。
所が、人間萬事塞翁の馬とはよく申しましたもので、御誕生の御祝が間近に迫つて來た時分、お守の女中の粗忽で、お宅の近くにある藥師堂の緣側から落ちて地上にうつ伏せにおなりなすつた上へ、その女中が轉げ落ちたため、お腰の骨が什 ど うかなつてお了 しま ひなすつて、その後御兩親が金に飽かしていろゝお醫者の手におかけなさいましたが、たうとう治らず了ひで、生れもつかぬ跋足 びつこ におなりなすつたのでした。
そればかりではムいません。女史が確か七歳の御時分だつたと云ふことですが、『このお子さんは、餘り勉強させては否 い けません、脊髄病になる虞 おそ れがありますから』とお醫者さんの御注意があつたのです。
ですから、お郷里 くに の小學校で尋常二年迄おやりになつた時、お令兄 にい さんー現今 いま は法學士ーが京都の第一中學校にお入學 はい りなすつたので、女史も京都にお出になり、土地の竹間小學校にお入りになり、此校 こゝ で尋常四年迄おやりになつたゞけで、學校の方は綺麗にお止めになつて了はれたのでムいます。
何處までも妹思ひでゐらっしゃる令兄さんは、普通の者なら自分の目的さへシッカリと極 きま らない中學生時代であるにも關 かゝは らず、女史の將來について、いろゝお考へになり、早くから、お琴や三味線のお稽古をおさせなされたのでした。什 ど う云ふものか、女史は斯うした日本音樂を餘りお好きになりませんのでした。が、それにも關らず覺えがよく、進歩が著しいので、お師匠さん方の方でも熱心に教へになりました。それで、十七の春にはお琴の奥許しをお取りなすつたばかりか、三味線でも、胡弓でも、八雲琴までも、相當のお技倆 うでまへ になつておいででムいました。
その頃令兄さんは第三高等學校の一部に御在學で、來年は東京の法科大學にお進みになる筈でゐらつしゃいました。そこで、いっその事、女史を東京の音樂學校へ入らせて、御自分と御一緒に東京で勉強させたいものとお考へになりまして、そのことを女史にお話しなさると、女史は、日本音樂と違つて、この方は我から進んでやって見たいと思ってゐらっしゃるので、『什うぞ然 さ うさせて下さい』とお喜びなさいました。
が、お父さんは、お足の御不自由な女史に此上お金をお掛けなさることを歡 よろこ びなさらないやうでしたので、この事は御兄妹お二人の外には、お國許 くにもと の姉さんで愛子と仰言 おっしゃ る方だけにお打明けになって、たゞ何氣なく、お父さんの御言葉通り、女史をお郷里へ御歸しになりました。
姉さんの愛子さんも、女史の御身に禁 とゞ めがたい御同情を有 も つてゐらっしやいましたので、お父さんには琴のお稽古と云ふことに云ひつくろっておいて、十八歳の正月から、女史を土地の小學校の先生たち四五人の處へ毎日お稽古におやりなさいました。
先生たちは、云ひ合はせたやうに、三井寺附近にお住ひでしたので、女史のお宅のある馬場の町からは一里半程もムいますからお歸途 かへり は什うしても夜が更 ふ けます。それで姉さんは毎晩俥 くるま に乗つて、比良山颪 おろし に身を切られるやうな冬の夜路 よみち を、女史のお迎へに行かれ歸途 かへり は合乗の幌の中で、姉妹仲睦じく將來の事を語らひつゝ、寒さをお忘れなすったのでした。
斯うして二月 ふたつき ばかり過ぎました。姉さんは、體質の弱い妹御 いもうとご に取つて、それが餘りに過勞な仕事であることを御心配なさいました。で、御自分の京都第一高等女学校時代の御同窓で片山と云ふ御方が、土地の女學校で英語の先生をしてゐらつしゃるのを幸ひ、事情をお打ち明けになつて、女史のお稽古一式を御賴みなさいました。
かくて其年六月には、女史はナショナル、リーダーの第二を優に讀みこなすことの出來る丈けの英語の力がおつきになりました。その他の學問もそれに準じた丈けの進歩があつたこともお察しを願つて置きます。尋常四年の課程を終つた丈けの少女が、僅々半歳の間に之れ丈けの學力を得たのは、先生方が熱心の力を感謝しなければならないことでせうが、姉さんの督勵、第一は御本人の女史の努力と云ふことを考へるべきでムいます。
偖 さ て女史は、何のために斯うした勉強をなすつたのですか。それは、その年六月の音樂學校の假試驗をお受けなさるためであつたのでムいます。
假試驗受驗の願書を出してから、今までの受驗準備の苦心を具に打ち明けて、姉さんの愛子さん、令兄さん、それに女史の同胞 きやうだい 三人が、血の涙を揮つて、お父さんに受驗のお許しをお願ひなされたので、お父さんも『唯 ただ 一回』と云ふ條件で御承知なさいました。
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假試驗を受けたのは、全國の高等女學校を卒業しておいでなすつた方ばかり、その多數の中から假入學を許されたのは僅かに六人、その中に女史の加はられたと云ふ丈けでも大したものですのに、其年十二月の本試驗にはその六人中で、更に二人丈けが本入學を許されまして、その中に女史を見出したのでムいます。そして御卒業の時は二番と云ふ優等の御成績でムいました。
學校を御卒業になつてからのことは、こゝでくだゝしく申し上げる必要のないほど、世間によく知られておいででムいますから態 わざ と差控へることに致します。
上の文は、大正十年一月一日発行の雑誌 『婦人倶楽部』 第二卷 第一號 新年號 の「現代各方面代表的婦人當選披露」の 其評傳及印象記 のひとつとして掲載されたものである。