北洋高等巡警學堂沿革
▲學堂設立の目的
長城以南の直隷省も保定天津を除く外人口稀疎にして時に強暴なる群賊の襲撃を免れず而して地方官は拱手傍觀し良民は堅く門戸を鎖し尚ほ安堵する能はず保甲局の設けあるも有名無實にして所謂無用の長大物の觀あるのみ故に人民の生命財産を保護するの機關としては見る可き者あらず況んや社會の秩序を維持する行政警察の如きに於てをや到底淸國官吏の腦裏に畵きしこともなかりしものとす
團匪事變後袁世凱は山東巡撫より直隷總督の印綬に接し慧眼以て天津に於ける各國仮政府の施政中殊に警察制度の良民保護に有效なるを看取し諸政改良の第一着は各國警察制度を模倣するより急務なるはなしとし教師を日本に聘し先づ保定城内に警察總局及び各分局を設け傍はら巡警學堂を同地に創設したり之れ實に光緒二十八年五月十三日にあり是れ直隷巡警學堂の嚆矢なるのみならず恐く淸國各省中第一着手たりしなり保定巡警總局總辦趙秉鈞學堂總辦を兼任し曩きに聘せられたる警務顧問三浦喜傳通譯中島比多吉の兩氏重に設立に盡力し續て教授を兼ねたり外に鎌田彌助前田豊三郎の兩氏を聘し教習とす然れども警察法操法のニ科に止まり速成を期したれば未だ不完全なる學堂たるを免れず是れ現在の北洋高等巡警學堂の前身なり
▲學堂の廢合及沿革
光緒二十八年七月袁總督は各國都統衙門より天津還附を受け轅を天津に遷せり此の時三浦中島の兩氏は随ひ行き直ちに天津城外警察組織に軮掌せられ又た傍はら巡警學堂設立に從事し遂に地を城北堤頭に卜し學堂を開設し天津巡警學堂と稱せり總教習として三浦氏の外中島比多吉和泉正藏河崎武小川勝猪葛上徳五郎の諸氏教習として聘せられ又た原田俊三郎氏天津學堂に增聘せらる其後間もなく保定學堂は經費不足の結果天津學堂に合併し日本教習及び學生の全部は天津に來リ學生は天津巡警學堂に入學し日本教習は天津巡警總局の事務に從事せり因て是に北洋巡警學堂と改稱せり村田氏は次で監獄事務に從事せり光緒三十一年八月学堂を天津東門外扒頭街に新築し警察操法ニ科の外一般の法政を必修科とし且つ卒業期も從來一ヶ年の處將來二ヶ年と改正したり
天津巡警學堂創立以來各省總督巡撫より派遣する處の警察學生ありしが特に當時增加し來りたれば堂内狭隘を告げ遂に當今の地即ち天津南斜街に移轉したり此の時天野健藏氏を教習として增聘し和泉中島河崎鎌田の四氏は是より先き去辭せり
▲本學堂の學生及經費
本學堂に於ては官學員と稱するものは必ず候補官吏の功名を有するものに限れり故に候補道あり候補知府地縣あり又たは候補縣丞典史等ありて所謂大人老爺株のみなり
此の學堂内に巡警教練所と稱するものあり是は巡査を養成する所にして以前は日本教習が教授の任に當りしも現今は卒業の學員を以て教授を担當せり其卒業期は六ヶ月なり
學堂の經費は年額湘平銀四萬二千兩にして官費學員一百名自費學員一百名而して官費學員は毎月食費雜費として六兩を班長は八兩を給し自費學員は四兩を納付せしむ巡警學生は總て官費にして普通學生には三兩九錢を班長には四兩五錢を支給す
▲本學堂卒業生
各省より附學し來れる學生の歸任せしものは多くは其地の警察總辨又たは警察局長として現に採用せられ居れり而して其派遣せし各省左の如し
山東 江蘇 浙江 福建 江西 安徽 雲南
貴州 四川 陝西 甘肅 河南 東三省
卒業の警官學員は七百五十三名にして巡警學生は五千八百八十名の多きに及べり
▲教授課目
光緒三十四年九月民政部の奏議に依り各省高等巡警學堂及び巡警教練所章程を頒布せらる北洋高等巡警學堂も其規程に準據し學科を定む即ち左の如し
一 中國現行法制大要
二 大淸違警律
三 大淸律
四 法學通論
五 警察學
六 各種警察章程
七 各國刑法大意
八 行政法
九 算學
十 操法
十一 英文或東文
十二 憲法綱要
十三 各國民法大意
十四 各國民刑訴訟大意
十五 國法學
十六 地理(政治地理兼本處)
十七 地方自治章程
十八 各省諮議局章程
十九 各種選擧章程
二十 國際公法
廿一 國際私法
廿二 監獄學
廿三 各國戸籍法大意
廿四 統計學
附設巡警教練所の科目左の如し
一 國文
二 大淸違警律
三 警察要旨
四 政法淺義
五 地方自治大意
六 本處地理
七 操法
又た此の學堂内に巡警編譯處なるものを設立し專ぱら警察課本及び警察關係の書籍を編譯し廣く世上に頒布し警察學の普及を圖る機關あり日本教習の兼掌事務として鞅掌せり此の經費毎月二百五十兩なり
▲現任總辨及日本教習
學堂の歷代督辦總辦の氏名左の如し
趙秉鈞(後ち民政部右侍郎に昇任し現今閑地に在り)
沈金鑑(現に候補道にて安慶の審判廳長官たり)
徐鼎康(現に吉林省度支使に昇任せり)
徐鼎讓(現總辦)
現在關係の日本人は警務顧問三浦喜傳氏を總教習とし天野健藏原田俊三郎の兩氏教習とし葛上徳五郎氏操法教習として在任せり而して原田氏は目下巡警總局に在りて總稽査の事務に從事し居れり。 (終り)
上の写真と文は、明治四十三年七月十五日発行(非売品) の 『津門』 第六号 の ◉雑録 に 邦人関係の学堂官衙(三) として掲載されたものである。