蔵書目録

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「大山」 (『丹沢山塊』より) (1944.9)

2021年05月05日 | 趣味 1 登山・ハイキング

 丹澤山塊

    槪説

     水系

 5.四十八瀨川 四十八瀨とは菖蒲から下流中津川と落合ふ處までの古稱で、三廻部附近ではサイトウ川と稱した事が古書に見えるがこゝでも四十八瀨の汎稱に隨っておく。此の流れは三廻部より四粁上流において右俣と左俣との分れ、本澤は更に上流にて鍋割山に突き上げるミズヒ澤を分つ。
 6.水無川 塔ノ岳から南下する水無川は下流こそ磊々たる河原で荒廢を極めてゐるが、仲小屋から上流には溯行感を満してくれる好適な溪趣を整えた本澤に、それぞれ瀑聲を上げるシンカヤノ澤、ヒゴウノ澤等の溪流も集る。
 7.金目川 金目川には秦野町東郊で合する、大山に發する春嶽沢と三ノ塔から流出する葛葉川の二川がある葛葉川は其の小さくもよく調った溪趣が最近紹介されて、急激に遡行者を加へてゐる谷で、丹澤の谷歩きの第一課を試みるには寔に好適な谷である。春嶽澤は行衣の賑ふ大山の登拜ルート以外に新鮮味を求めてする人が僅か試みる谷である。澤歩きの盛んとなるや此の春嶽澤と共に近時親しまれて來た大山川も下流は鈴川となり金目川に貢流する。 

     地震

 江戸の昔から大山不動に登拝する傳統に生きて來た東京人が、その存在も知らなかつた丹澤が關東大震災以來、重要な餘震は此の山地を震源とすると發表されてから、急に其の名が遠近に擴つた程丹澤と地震とは關係深い。
 〔中略〕
 以上の表で大地震の周期を見ると最近は七十餘年目位に活動したものであることが判る。

     沿革

 丹澤山塊の中でも人文交渉のあつたのは、何と云つても阿夫利神社の鎭座ゐます大山で、山岳仏敎徒の開山に俣つた日本山岳登山史の範疇に洩れず、皇紀一四一二年(天平勝寶四年)の昔、南都から東國巡錫に来た良辨僧正によつて開創されたと傳へ、鎌倉時代から武將の尊崇極めて厚く神馬、社領の奉納のあつた事等記錄してゐる。〔中略〕震災前まで五丈八尺の黑孫佛を有してゐた塔ノ岳は、山麓北秦野の氏神唐子神社縁起に據ると矢張り役小角登山開創の山と謂ふが、それは兎も角として山中の諸處に祀つた石像の年代から考察すると永祿或は貞治の昔から信仰登山があつた。此の外不動ノ峯、大群山頂の權現、蛭ヶ岳の藥師等山岳佛敎徒の行所とされた跡がある。

     

 ヤビツ峠 (七九九、七米)此の峠程札掛、いや丹澤の消長も息吹きを感ぜしめる峠は少ないだろう。明治の中年諸戸植林によって開鑿された此の峠は、秦野と札掛を駄馬で繋ぎ、それ以前の御林管理に巡視する里正の通つた岳ノ臺よりの仙太コロガシの坂道は、草叢に隱れてしまつた。然し恩賜林の林業行政に乗り出した神奈川縣が、昭和ハ年遂に此の峠の東に迂回する自動車林道を通じ、觀光、登山、産業の上に一大飛躍を與へるに及び、歩行困難な峠路は自然荒廢した。

 新ヤビツ峠 (七五〇米)此の峠も戰時下に大きく轉回し、今は觀光、登山の爲に乗り越すハイカーの姿ははなく、本谷の奥から巨材を運搬する縣のトラックのみが走つてゐる。さうして靑年の丹澤報國寮や札掛山の家が丹澤勤勞訓錬所に轉向された今日、そこへ通ふ一團と往き遭ふて、丹澤も新たな使命を果しつゝあるを覺えさせる。此處の展望は相模を一望に納める景勝な位置にある。

 善波峠 (一九二米)家族連れの散策に好適な弘法山(二一〇米)の東方、秦野と伊勢原を繋ぐ矢倉沢往還が通じて居る峠で、その昔江戸の俳人筑波園杉人が、麦や菜種が朝霞む秦野盆地の風光を此處から眺めて、「世を旅にまかせて花のやどり哉」と賞し、遂に此の山麓に住したといふ。

    丹澤山塊の遭難とその對策

 丹沢山塊は元來山麓登山口の高度が低位の爲め、千五百米級の低山ではあるが相當のアルバイトを強要されるのである。
 今山麓大倉から蛭ヶ岳に登るには大倉の海抜が三百米であり、蛭ヶ岳は海抜一六七〇米なるを以て垂直高度実に一三七〇米となり、奥日光湯元(海抜一五〇〇米)から白根山(海抜二五七七米)に登るよりも困難であり、上越の谷川溫泉(海抜五〇〇米)から谷川岳(一九六三米)に登る高度に匹敵してゐるのである。

    交通

 その昔、と言つてもさう大して古い事ではなく、東京急行電鐵小田原線(舊小田急線)が昭和二年四月に開通する迄、帝都から丹澤に這入る登山者は、其頃の東海道本線の要衝松田驛山北驛或は中央線與瀬驛に據つたものである。然し現在は一部の地域の人達や特殊の二、三コースを選む人達以外には殆ど東京急行小田原線を利用して居ると言つても過言ではない。

    案内篇

 大山、物見峠  ( 地圖 藤澤、秦野) 〔下は、その大山の一部〕

 拝殿を辭して左に廻り込めば、門の中に石段の登山道がある。此門は大祭期間以外は閉されて居るので、左の潛りから登らねばならない。昔から山中で運試し賭博が盛んに行はれて居たと見えて、門の側に「やるな、かゝるな、詐欺賭博 オツチヨコチヨイ 、伊勢原警察署」と言ふ古びた制札が建つて居たが、今は見えない樣である。最初の急な階段から山頂まで、二十八丁と言ふ歩き惡い石段の山徑である。眺望の佳い處には茶店が頑張って居て、徑は必ず其軒下を通る樣になつて居る。つい、二三回は財布の紐を緩めざるを得ない樣な仕組みとなつて居る。時折、振返れば茫洋たる相模灘が雲烟の中に光つて居る。やがて段々の道がなくなり左手から蓑毛の參道を合して、やゝしばらくで、黑門となり、鐵の鳥居となる。こゝから數十の石段を上つて奥宮に一禮して背後の平に出ると三峯山稜が指呼の間に迫り、凄慘なガレ膚を見せた主稜が畳々として連り登高慾をそゝる。一二四五・六米の山頂からは、北の尾根に出て東北に岐れ、石尊澤から尾根を越して廣澤寺溫泉へ行く逕路や、西側から直下して諸戸に行く金比羅尾根逕路、西南の尾根道を下降するヤビツ峠逕又、一旦下社に下って、山腹を東に捲いて下りて行く日向藥師逕路、等々、健步行路を數多藏して居る。一般向として廣澤寺逕路は、藪と逕路の崩壊等によって一寸、不適當と思はれる。日向藥師逕路は裏山の閑寂さと展望を愉しむ滋味溢れたる徑路である。札掛方面へは金比羅尾根の降路がよく、旣ち表參道の大鳥居の西側にある「丹澤林道下り諸戸へ」の導標に從ひ、雜木林の一路を急降して行くと約四十分で、諸戸植林事務所の庭に下り立つ事が出來る。然し此稿では、快適な降路を樂しみ乍らヤビツ峠に下る事とする。
 表參道より下って黑門をくゞると道は、右左に分岐し、右はヤビツ峠の降路となり、步一歩下る毎に表尾根の山稜の眺めが變化して行く。兩側の溪谷からは小鳥の聲が、水聲と共に吹き上られて來る。やがて尾根が南と西と岐れる九六三米圏の處で、徑は南に曲って降って行く。こゝで注意を要するのは、西の尾根の火防線が廣く禿げて降路の樣に見えて、大抵の人が引込まれて了ふ事だ。此火防線は、直ぐに逆落しのガレ場となり札掛への入口、門戸口で終って居る。塚本さんの映畫の一カットは此處のガレ場が寫されて居る筈である。ヤビツ峠へは分岐から、赤土のガレ場を越え一走すれば辿りつくのである。此處は大山圖幅の八〇九・七米峯の北鞍部に當り、蓑毛へは左の高みを越せば近道の舊道柏木林道となり、右に下れば新道の丹澤林道となる。圖幅に記載されて居る七九九・七米の舊ヤビツ峠は、現在の場所の西南の場所である。

  參考時間。

 伊勢原驛一(乗合三十分)一大山町(四十分)一追分驛(急坂四十分)一一下社一(一時間三十分)大山頂上一(五分)一分岐路一(五十分)一ヤビツ峠

 上の文は、昭和十九年九月二十五日発行の 『丹沢山塊』 日本山岳寫眞書 塚本閤治 生活社 の一部である。

 下の写真は、最近撮影のもの。

  

 左:大山山頂表から見た、江ノ島、三浦半島、房総半島。(十二月)
 中:大山山頂裏から見た、富士山。手前は、二ノ塔・三ノ塔。(四月)
 右:イタツミ尾根から見た、大島。(三月)



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