■キリスト教禁止
江戸幕府はキリスト教を黙認
しかし、キリスト教がスペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れがあると強く感じ、また信徒が信仰のために団結することの恐れから1612年、直轄領に禁教令を出す。1613年、禁教令を全国に及ぼして信者に改宗を強制した
後、幕・藩は宣教師やキリスト教信者に対して処刑や国外追放など厳しい迫害を加えた
♦️1614年、高山右近ら300余人をマニラやマカオに追放
♦️1622年、長崎で55名の宣教師・信者を処刑
♦️多くの信者は迫害に屈せず殉教
♦️潜伏してひそかに信仰を持続した隠れキリシタン
♦️1637年から翌年にかけて、島原の乱が起きる
打ち続く飢饉であるのにもかかわらず、島原城主・松倉重政親子や天草領主・寺沢広高が領民に過酷な年貢を課したり、キリスト教徒を弾圧したことに反発した百姓一揆である
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島原半島と天草島は、かつてキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地だった。よって一揆勢のなかにもキリスト教徒が多かった
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小西行長の遺臣・益田好嗣の子で
16歳の天草四郎時貞を首領にいただいて、一揆勢3万人余りは原城跡に立てこもった
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幕府は板倉重明を派遣して鎮圧しようとしたが失敗。ついに九州の諸大名ら約12万人の兵力を動員して原城を包囲し、兵糧攻めにした
またオランダ船による海上砲撃を求め、ようやくこの一揆を鎮圧した
♦️島原の乱後、幕府はキリスト教徒を根絶やしにするため、信者の多い九州北部などでイエス像・マリア像などを表面に掘った踏絵を踏ませる絵踏みを行わせた
♦️さらに禁教を押し進めるため1640年、幕府に宗門改役を置き、1664年には諸藩にも宗門改役が設置され、宗門改めが実施された
■日蓮宗不受不施派禁止
日蓮宗不受不施とは
僧は法華経を信じない者からの布施・供養は受けず、法も施さない
信者は法華経を信じない僧には布施・供養を施さず、その教えも受けない信仰
これら宗教が、いずれも幕藩権力よりも宗教を優越させる信仰を持っていたからである
よって幕藩権力に従う宗教のみが存在を許容された
■寺請制度
★禁止した宗教を人々に信仰させないようにするため、誰もが檀那寺(家が帰依している寺)を持ち、仏教は主たる宗教となった
仏教は家単位で信仰され、現代にいたる仏教行事が習俗となった
★幕府は寺院法度を寺に示し、寺院と幕府の窓口、触頭を設けた
★幕府は、全国の仏教寺院の統制は、本山や本寺が末寺を掌握させる体制をとらせた
各宗派ごとに本山・本寺の地位を保証し末寺の編成と組織化の権限を与えた
■神道・修験道・陰陽道なども仏教に準じた宗教として幕府に容認されていた
★神社は村単位で信仰され、五穀豊穣の祈願の神事や、収穫祭(秋祭)を地域の神社の神職が担った
★病気や心身のなやみがあるれば、修験者の祈祷や薬草・丸薬に頼った
※修験道の天台宗系は聖護院門跡が
真言宗系は醍醐寺三宝院門跡が
本山とし末端の宗教者を支配
★姓名判断、方位による家相図の作成を陰陽師に頼んだ
※公家の土御門家が全国の陰陽師を配下に置く組織化を進めた
★巡歴する宗教者に頼る
※猿廻しにうまやの祓い
※万歳に新春の言祝
※盲僧にかまど祓いを
★吉田神道
幕府は両部神道(真言宗)、山王一実神道(天台宗)のような、神仏習合したものではない吉田神道のような唯一神道を学ぶことが命じられた
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全国多数の神社が吉田家を本所とする組織を形成させた
★白川神道
幕府は白川家による神社支配も容認し、両家による神社支配は明治維新まで続いた