るるの日記

なんでも書きます

日本統一政権が及ばなかった琉球王国は、薩摩藩に支配されながら、同時に清の国となる

2022-01-29 12:50:26 | 日記
琉球王国は、日本の統一政権の力が及ぶことはなかった
しかし、1609年、薩摩藩は「琉球漂流民を送還したのに誠意を示さなかった」という理由で、3000名の兵を送って軍事的侵入を行い、検地・刀狩・石高制を導入し、農民支配を確立
【尚氏】を8万9千石の王位につかせた
1655年、薩摩藩は、清が琉球に冊封使を派遣する動きを察知。幕府に指示を仰いだ。幕府の薩摩藩への回答は、「清にしたがい、決して戦端を開くことがないように」であった
清は琉球の尚王を、琉球国中山王に冊封(清の藩国)した
琉球は以後、薩摩藩の支配を受けつつ、清の冊封を受ける形の二重外交体制を保った



朝鮮との講和「釜山に倭館を置き対馬藩が朝鮮との貿易独占」「日本に連行されたままの朝鮮人捕虜約1700人の返還」

2022-01-29 12:28:59 | 日記
♦️徳川家康は朝鮮との講和を実現

■対馬藩主・宗氏と朝鮮の間で条約が結ばれた。これは近世の日本と朝鮮の関係の基本となった条約で、釜山に【倭館】が設置され、宗氏の外交上の特権的地位が両国から認められた
特権とは
対朝鮮貿易を独占すること
対馬は耕地に恵まれなかったので貿易利益が知行がわりになった
【釜山の倭館】
30万平方メートルの敷地に
500~600人の対馬藩の役人・商人が駐在し、外交と通商にあたった


■朝鮮からは使節団が12回来日
使節団は1回平均440名。国家の賓客として丁重に扱われた
経費は沿道の大名や地域の人々が負担した

★1回~3回(1607年~1624年)

※日本からの国書に対して、朝鮮国王が回答するという名目

※秀吉の朝鮮との争いで、日本に連行されたままの朝鮮人捕虜の返還を目的とし、また朝鮮に侵略した日本兵が引き上げてからまだ9年しか経っていないため、警戒心を強く抱き、徳川政権を確かめる使命も担わされていた
捕虜の返還
※1回目→1240人
※2回目→321人
※3回目→146人

★4回~12回(1636年~1811年)
それまでの日本に対する警戒心を解いて、信(よしみ)を通じるという意味の使節を目的とした
背景には明・清交替期で「援民抗清」を貫く朝鮮は、清と戦うために、日本と友好関係をつくりたかった


オランダ人の江戸幕府への接待(多額の経費を使っても、見せ物になっても、貿易利益のためならやる)

2022-01-29 11:45:22 | 日記
♦️鎖国により貿易港は長崎1港に限られ、長崎に来航するのはオランダ船と中国船のみになった

■オランダの独占的貿易利益
オランダは、長崎の出島に商館を置き、貿易商売で利益を出した。幕府はオランダ風説書によって海外の情報を得た

1633年からまいと1回、150回まで定期的にオランダ人の江戸参府が行われた
100人~150人の行列のオランダ人一行は、船で大阪まで行き、陸路江戸へ向かった。それは大名行列並の格式を与えられたが、経費は自腹であった

江戸城では、将軍に献上品を贈ったあと歌をうたうなど見せ物にされる屈辱を味わうこともあった

訪れていた人たちが自尊心を傷つけられ、しかも多くの経費を使ってまで江戸参府を繰り返したのは、幕府による鎖国政策が、オランダに独占的な貿易利益を与えたからである

■中国人は長崎の町中で、日本人と雑居し、民間の町人と交流を持った。幕府は長崎に唐人屋敷を完成させ、約3万平方メートルの屋敷内に中国人の居住と限定し監視した

鎖国理由・幕府以外の大名の貿易利益を押さえるため キリスト教禁教のため

2022-01-29 11:13:42 | 日記
■徳川家康の外交
★オランダ
1600年、オランダ船・リーフデ号が豊後の臼杵湾に漂着

徳川家康はリーフデ号の乗組員
オランダ人航海士ヤン・ヨーステンイギリス人水先案内人ウィリアム・アダムズを江戸に招き外交・貿易の顧問とし、それぞれ日本との通商を斡旋させた
オランダとイギリスは平戸に商館を開き、日本との貿易を行った
オランダ・イギリス人は、カトリック教徒の南蛮人(スペイン・ポルトガル人)とは異なり、プロテスタントを信仰していたことが、幕府に歓迎された理由であった
イギリスはオランダとの競争に敗れ、日本を離れた

■日本人の海外進出10万人
日本人の海外進出は盛んだった。幕府は海外渡航許可の朱印状を与えた。(朱印状は1604年~1635年にかけて350通余り発行)
朱印船貿易はオランダ、明をしのぎポルトガル船に匹敵するほど盛んな時期があった

★輸出は銀・銅・鉄・樟脳など
銀の輸出額は世界の銀産出額の3分の1に及んだ

★貿易利益をあげた者105名
★約30年間で海外渡航者約10万人
★東南アジアに居住7000人~1万人
★自治制を敷いた日本町形成8ヵ所

■そして鎖国へ
海外貿易は活発だったが、、

★幕府がキリスト教の禁教を進めたため、日本の海外渡航や貿易にも制限を加えざるを得なくなった

★幕府は西国大名が貿易で利益をあげるのを押さえ、幕府のみが貿易利益を独占するために、盛んになった貿易を幕府の厳重な統制のもとにおいて管理する必要に迫られた

そのため
1623年、スペイン船の来航を禁じ
イギリスもオランダとの競争に負け平戸商館を閉じた

■1635年、日本人の海外渡航を全面的に禁止。すでに渡航していた在外日本人の帰国を禁止した

★1639年、島原の乱の影響から、ポルトガル船の来航を禁じた

★1641年、平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移し、唯一残されたヨーロッパ人であるオランダ人と日本人との自由な交流を禁止して、長崎奉行の監視下に置いた

★一方幕府は明との国交回復させようと交渉していたが、明からは拒否され、幕府は明との正式な国交回復は断念した
しかし、明の民間商船の活動は活発で九州各地に訪れていた
幕府は明船との私貿易を長崎に限定して統制下に置き、そのほかの場所での貿易は禁止
♦️日本はこうして鎖国状態になり
長崎を通じてオランダと明だけと交流した







信教の不自由で平和になる「幕藩権力よりも優先させる信仰を持つ宗教禁止」現在も法律よりも信仰を優先させる宗教は危険だよね

2022-01-29 10:03:24 | 日記
■キリスト教禁止
江戸幕府はキリスト教を黙認
しかし、キリスト教がスペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れがあると強く感じ、また信徒が信仰のために団結することの恐れから1612年、直轄領に禁教令を出す。1613年、禁教令を全国に及ぼして信者に改宗を強制した

後、幕・藩は宣教師やキリスト教信者に対して処刑や国外追放など厳しい迫害を加えた
♦️1614年、高山右近ら300余人をマニラやマカオに追放
♦️1622年、長崎で55名の宣教師・信者を処刑
♦️多くの信者は迫害に屈せず殉教
♦️潜伏してひそかに信仰を持続した隠れキリシタン

♦️1637年から翌年にかけて、島原の乱が起きる
打ち続く飢饉であるのにもかかわらず、島原城主・松倉重政親子や天草領主・寺沢広高が領民に過酷な年貢を課したり、キリスト教徒を弾圧したことに反発した百姓一揆である
島原半島と天草島は、かつてキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地だった。よって一揆勢のなかにもキリスト教徒が多かった
小西行長の遺臣・益田好嗣の子で
16歳の天草四郎時貞を首領にいただいて、一揆勢3万人余りは原城跡に立てこもった
幕府は板倉重明を派遣して鎮圧しようとしたが失敗。ついに九州の諸大名ら約12万人の兵力を動員して原城を包囲し、兵糧攻めにした
またオランダ船による海上砲撃を求め、ようやくこの一揆を鎮圧した

♦️島原の乱後、幕府はキリスト教徒を根絶やしにするため、信者の多い九州北部などでイエス像・マリア像などを表面に掘った踏絵を踏ませる絵踏みを行わせた

♦️さらに禁教を押し進めるため1640年、幕府に宗門改役を置き、1664年には諸藩にも宗門改役が設置され、宗門改めが実施された

■日蓮宗不受不施派禁止
日蓮宗不受不施とは
僧は法華経を信じない者からの布施・供養は受けず、法も施さない
信者は法華経を信じない僧には布施・供養を施さず、その教えも受けない信仰

これら宗教が、いずれも幕藩権力よりも宗教を優越させる信仰を持っていたからである
よって幕藩権力に従う宗教のみが存在を許容された

■寺請制度
★禁止した宗教を人々に信仰させないようにするため、誰もが檀那寺(家が帰依している寺)を持ち、仏教は主たる宗教となった
仏教は家単位で信仰され、現代にいたる仏教行事が習俗となった

★幕府は寺院法度を寺に示し、寺院と幕府の窓口、触頭を設けた

★幕府は、全国の仏教寺院の統制は、本山や本寺が末寺を掌握させる体制をとらせた
各宗派ごとに本山・本寺の地位を保証し末寺の編成と組織化の権限を与えた

■神道・修験道・陰陽道なども仏教に準じた宗教として幕府に容認されていた

★神社は村単位で信仰され、五穀豊穣の祈願の神事や、収穫祭(秋祭)を地域の神社の神職が担った

★病気や心身のなやみがあるれば、修験者の祈祷や薬草・丸薬に頼った

※修験道の天台宗系は聖護院門跡が
真言宗系は醍醐寺三宝院門跡が
本山とし末端の宗教者を支配

★姓名判断、方位による家相図の作成を陰陽師に頼んだ

※公家の土御門家が全国の陰陽師を配下に置く組織化を進めた

★巡歴する宗教者に頼る
※猿廻しにうまやの祓い
※万歳に新春の言祝
※盲僧にかまど祓いを

★吉田神道
幕府は両部神道(真言宗)、山王一実神道(天台宗)のような、神仏習合したものではない吉田神道のような唯一神道を学ぶことが命じられた
全国多数の神社が吉田家を本所とする組織を形成させた

★白川神道
幕府は白川家による神社支配も容認し、両家による神社支配は明治維新まで続いた