2023年6月6日付朝日新聞が『激戦地 パラオはいま』で「ぺリリュー島」に関する記事を掲載した。今日、「ぺリリュー島」は「パラオ共和国(パラオ諸島)」(首都は2006年10月、コロールから、最大の島バベルダオブ島の東岸にあるマルキョクへ移転)のほぼ南端に位置する小島で、アジア太平洋戦争下で神聖天皇主権大日本帝国政府軍と米合衆国政府軍の激戦地となったところである。
神聖天皇主権大日本帝国第2次大隈重信政府は、1914年8月23日、第1次世界大戦に参戦(ドイツに宣戦布告)。第一次世界大戦が始まると、元老井上薫は大隈重信首相に「今回欧州の大戦争は、大日本帝国の国運を発展させる大正新時代の『天佑』なので、大日本帝国は直ちに挙国一致の団結により、この天の助けを利用しなくてはならない」と伝えた。つまり、井上は国内で湧き上がっていた「廃減税等の党論」(第一次護憲運動〈1912年12月~13年2月〉以来の憲政擁護会は営業税・織物消費税・通行税を3大悪税として全廃を要求し、各政党も各種の廃減税法案を議会に提出していた)などの政治的危機を回避し、英仏露3国との友好関係を改善し、東洋に対する「大日本帝国の利権」を確立し、これを背景に辛亥革命後の中国政府を懐柔する、まさに国内外の課題(日本帝国主義の内外政における行き詰まり)を一気に解決する千載一遇のチャンスだと主張した。又、加藤高明外相は参戦理由を「日本は今日、日英同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場にない。……ただ一つは英国からの依頼に基づく同盟の情誼と、一つは大日本帝国がこの機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高める利益と、この二点から参戦」(真の理由は後半)すると主張していた。
※「第一次護憲運動」とは:藩閥勢力の巨頭内大臣桂太郎の組閣に際し、政党(立憲政友会・立憲国民党)・新聞記者らの提唱で大会開催し、藩閥官僚政治打破と政党政治確立を目指した。1913年2月10日数万の民衆が政府系新聞社・警察・交番を襲撃し、翌日内閣総辞職に至らせた(大正政変)。
1914年10月、海軍はドイツ領となっていた赤道以北のマリアナ諸島、カロリン諸島(含パラオ諸島)、マーシャル諸島を占領。11月、陸軍は青島を占領、さらに中国が指定した中立地帯を無視して超え、青島から済南間の膠済鉄道とその沿線の鉱山などドイツ利権を手に入れた。英国の日本艦隊地中海派遣の要請は拒否してきたが、寺内正毅内閣は、パリ講和会議(1919年1月~6月)で山東省のドイツ権益継承と赤道以北のドイツ領南洋諸島を大日本帝国領とする英国の支持を得て1917年2月、ドイツ潜水艦から連合国の商船を守る理由で地中海へ海軍を派遣(装甲巡洋艦1、駆逐艦12)した。1919年原敬内閣は上記の赤道以北の諸島を「南洋群島」(現ミクロネシア)と命名し、1920年にはヴェルサイユ条約に基づき国際連盟より大日本帝国政府の委任統治領(通貨:円、公用語:日本語、宗教:国家神道など)として認められ、アジア太平洋戦争敗北まで約30年間統治した。
南洋群島とは、マリアナ諸島、カロリン諸島(含パラオ諸島)、マーシャル諸島からなっていた。16世紀にスペイン人が渡来し、マリアナ諸島を領有。1885年、カロリン諸島(含パラオ諸島)をスペイン領と宣言。マーシャル諸島はドイツが領有。米西戦争の翌1899年、スペインはカロリン諸島(含パラオ諸島)とマリアナ諸島をドイツに売却した。1900年時点で上記3諸島はすべてドイツが領有する状態となっていた。ただし、グアム島は1898年に米国がスペインから購入し米国植民地に。その後、第一次世界大戦を経て大日本帝国政府がドイツ領南洋諸島を領有したのである。統治のために1922年に南洋庁(行政官庁)を設置し、パラオ諸島のコロール島に本庁(首都)を設置し、サイパン、ヤップ、パラオ、トラック、ポーンペイ、ヤルートに6支庁を置き、小学校や産業試験場なども併設した。
パラオ諸島を含む南洋群島には、砂糖やカツオ節生産のため、元の住民より多い8万人以上が日本から移住したが、6割以上が沖縄県からであった。移民の大きな理由は、本土の類似県より高い植民地的な国税納付額、貧しさ、県庁の奨励などであった。第一次世界大戦後の不況期(1920年の「戦後恐慌」には黒糖価格が暴落し、さとうきび栽培のモノカルチュアー経済が大打撃を受け、1927年金融恐慌、1930年昭和恐慌が追い打ちをかけた。)には沖縄県では、毒性のある「ソテツ」まで食べて飢えをしのぎ(ソテツ地獄)、海外からの送金が沖縄県を支えた。同時に、男性の多くの理由は徴兵忌避であった。当時、政府は海外在住者の徴兵を猶予した。実際は現地でも軍の動員はあったが。1936年の陸軍統計年報では、「外国在留」が理由の徴兵延期者は5万3819人であったが、沖縄県は9912人と全国最多であった。アジア太平洋戦争では沖縄関係移住者約5万人のうち1万人以上が亡くなった。ぺリリュー島(屋久島とほぼ同じ面積)では、1944年9月15日から約2カ月間、米軍と激戦を繰り広げ、この戦闘を中心に南洋群島全体で日本軍1万6千人余が戦死した。
戦後の南洋群島はどのような歴史を歩んだのか。
〇1947年4月2日、国際連合はミクロネシア(南洋群島)を6地区(マリアナ・ヤップ・チューク・ポンペ イ・パラオ・マーシャル)に分割、米国政府の信託統治領とした。その後核実験に使用、54年ビキニ被爆事件起こる。
〇1965年、ミクロネシア議会が発足。
〇1978年、パラオは住民投票の結果、ミクロネシア地域の統一国家からの離脱決定。
〇1981年、パラオ自治政府発足、核貯蔵や持ち込みを全面禁止した非核条項を含む憲法公布。
〇1982年、米国政府と自由連合盟約(協定期間50年、国防・安全保障権を米国政府に委ねる代わりに経済援助を得る、また外交権・立法権は保障される)を締結。しかし、盟約は米国政府の核搭載艦船の寄港が可能で、憲法の非核条項と矛盾した。自由連合盟約は住民投票(75%以上の賛成が必要)で7回否決された。
〇1992年、住民投票で憲法改正案(憲法条項の修正は過半数の賛成で可能)が承認された。
〇1993年、住民投票で自由連合盟約が68%の支持で承認され、非核憲法が凍結され、米国政府との自由連合へ移行。
〇1994年10月、パラオ共和国独立達成、12月に国連加盟。
〇1999年、台湾と外交関係樹立、米国政府と締結した自由連合盟約に基づき、国防・安全保障の権限を米国政府に委ねている。軍隊はないが、パラオ共和国国民は米国政府軍人に多数採用され、、イラク戦争にも参加した。
〇2006年10月、首都機能をコロールからマルキョクへ移転。
〇2008年11月、大統領選挙で、元台湾大使ジョンソン・トリビオン氏が当選。
(2023年6月9日投稿)