「治安維持令」は1923年9月7日、大日本帝国憲法に定められた天皇大権の一つである緊急勅令として神聖天皇主権大日本帝国政府が公布した。
※勅令「大日本帝国憲法における天皇大権に基づき、天皇の命令として国務大臣の輔弼のみにより、議会の審議を経ないで制定される立法の形式で、緊急勅令はその一つ」
治安維持令の内容は「出版、通信その他何らの方法をもってするを問わず、暴行、騒擾その他生命、身体、若しくは財産に危害を及ぼすべき犯罪を扇動し、安寧秩序を紊乱するの目的を以て治安を害する事項を流布し、又は人心を惑乱するに目的を以て、流言浮説を為したる者は、十年以下の懲役若しくは禁固又は三千円以下の罰金に処す」というものであるが、その目的は、翌8日に警視庁が出した「治安維持に関する緊急勅令適用に関する指示」㊙によると、「今回の震災に際し、人心の不安に陥れるを奇貨として更にその不安を一層甚だしからしめ、其の間非道を逞しうせむとする徒を取締る事を主眼とし、主として不逞の徒が治安妨害の事項を流布したる場合に限るを要す」としており、権力を批判する言論だけを取締りの対象とするというものであった。
この勅令公布は、震災下の朝鮮人・中国人や日本人労働組合運動家などの虐殺に関して、メディアの沈黙と右傾化を生み出した。批評家・千葉亀雄は「震災後の新聞思想として著しく目についたものは、反動思想の侵入である。それは社会主義者や朝鮮人が、大災を利用して何事かを計画したという一時の蜚語から、それらを非愛国者とし、今まで相応に潜勢力をもって居た反動団体と、反動的思想が表面に現れて来たのだ。それを事実に具象した一つが甘粕大尉の大杉栄氏外二氏の殺害事件である。これに対して、東京朝日、東京日々、東京時事、読売、大阪毎日が、都下警護の重任にある一憲兵大尉が、法権を侵して私人を殺害したところの不合理を、現代文化の自由主義から堂々と主張したのに対し、反動傾向を持つ人々は、それをどこまでも非愛国精神であり、無政府主義を庇護するものとして、色々な方面から威嚇した。しかるに他の新聞は沈黙し、また或る二つ三つの新聞は、明らかに軍国主義倫理を肯定すると共に、甘粕大尉の行動を国士の行為として極端に讃称した。こうした新聞界の全体に、自由思想に対する賛否の意志がだんだんとあらわになったが、それから以後、十二月二十七日の虎の門事件が勃発したために、今度は国家主義の高唱が、すべての思想の上に最も力強く響き、またひびくようになろうとして居る」(改造社編、災害誌)編と指摘している。又、同じ「改造社編、災害誌」には「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、新聞紙の差押えが、1923年11月頃まで殆ど30以上に及び、一新聞紙の差押えが優に20万枚に達したものがあった」としている。
※虎の門事件「摂政裕仁親王(後の昭和天皇)狙撃事件。1923年12月27日、第48帝国議会開院式に向かう途中、虎の門付近で難波大助に狙撃されたが、弾ははずれ、難波はその場で逮捕、翌年死刑。時の第2次山本内閣は引責辞職した。難波は大逆事件の真相を知り、かつ関東大震災直後の亀戸・甘粕事件など軍隊官憲などによる白色テロの激しさを見て政府権力者や反動団体に反省させ、天皇尊崇の念を打破するため天皇暗殺を企てるに至ったという。
関東大震災下の神聖天皇主権大日本帝国政府による「白色テロ」に対して、戒厳令や治安維持令などによりその真相はほとんど糾明されず、その責任も追及されずに終わったが、「日本人の良心」を示す動きはあったのか?1923年9月20日に『時事新報』『読売新聞』が甘粕事件を号外で報じた。甘粕は軍法会議にかけられ懲役10年の判決を受けたが3年で出獄し、のち満州へ渡って大日本帝国政府の傀儡国満州国で暗躍した。亀戸事件は、同年10月10日、警察はそれまで被害者家族の問い合せにも真相を明かさなかったが、甘粕事件公判開始により警視庁が公表した。しかし、戒厳令下適法であると正当化した。朝鮮人大量虐殺事件については、『東京朝日新聞』『改造』『中央公論』『種蒔く人』などが抗議し、山崎今朝弥、布施辰治など自由法曹団の弁護士や、民本主義の吉野作造らが真相究明活動を行った。しかし軍隊や警察の責任はまったく不問とした。王希天など中国人殺害事件は、中国から抗議を受け、内務省当局は隠蔽を主張、同年11月7日第2次山本権兵衛内閣は「徹底的に隠蔽するの外なし」と決定し、中華民国政府からの調査団に対しても「大島事件については中国人が多数殺傷されたとの風評はあるが、事実は不明瞭で調査中であると欺いた。臨時帝国議会(同年12月11日~)では永井柳太郎ほか3人らが政府の責任を追及したが、大日本帝国政府は「尚熟考の上他日御答を致す。目下取調進行中……本日はまだ其時にあらざるものと御承知を願います」とうそぶき回答を拒んだ。しかし、この議会は治安維持令を事後承諾し、1925年4月治安維持法公布を導いた。
1924年1月に成立した清浦圭吾内閣は、「国民思想の善導」を主張し、1月15日には中央教化団体連合会を結成し、文部・内務両省の下、県庁を中核として、在郷軍人会、青年団、婦人会、宗教関係指導者を動員し、運動を展開してゆく。1月~4月にかけて、思想善導会、恢弘会、行地会、国本社などの右翼団体も結成された。国本社は山本内閣の法相であった平沼騏一郎を会長に官界、陸海軍、財界、学会の有力者を集めたが、軍人を含めた高級官僚が初めて右翼運動に乗り出したもので、日本型ファシズムの源流の一つとなった。
(2023年9月5日投稿)