日本とヴェトナム(ヴェトナム民主共和国)との外交関係が樹立されたのは、1973年9月21日にパリにおいてヴェトナム戦争の和平協定が調印された時であった。その後、紆余曲折があったが、1992年以降、両国間の外交・貿易関係は復元し発展を遂げてきた。
そして、2017年2月28日、天皇皇后は初めて訪問し、ヴェトナム社会主義共和国国家主席主催の晩餐会において「お言葉」を述べた。その内容は、古代から現在までの日本とヴェトナムとの交流史のなかで、友好的な印象を受ける事柄についてであった。天皇制大日本帝国政府のヴェトナム侵略の罪業と、敗戦後に自民党政府が沖縄県民に対し、米国によるヴェトナム戦争の後方基地として犠牲を強いた歴史と、現在の安倍政権が沖縄の米軍基地を維持強化しようとしている事(辺野古新米軍基地建設)に波及していく事を避けたためである。
しかし、それは交流史のなかでも、現在のベトナム国民(1976年からヴェトナム社会主義共和国)が気分を良くする事や日本に対する印象を悪くさせない「明るい部分」だけを取り上げており、ヴェトナムに対して行った日本の「罪業」や「暗部」については一切触れていない。この事は、ヴェトナム国民だけでなく、日本国民、なかでも沖縄県民をも欺瞞するものであり、科学的研究の成果を否定し、歴史を修正する効果を狙った行為というべきである。
たとえば、「東遊(ドンズー)運動」について、その運動に大日本帝国政府がどのように対応したのかという点を触れていない。「東遊運動」はファン・ボイ・チャウが起こした、ヴェトナム青年をフランスからの独立運動戦士として育てるために日本留学させる運動で、1905年~09年までの4年間に約200人が日本に留学した。しかし、1907年6月、大日本帝国政府はフランス政府との間で、フランスがヴェトナムを支配する事と、日本が朝鮮を支配する事を、互いに認め合う「日仏協約」を結んだ。そして、フランス政府は日本政府に「ヴェトナム独立運動」の取り締まりを求めたのに対して、日本政府はヴェトナムの留学生、そしてファン・ボイ・チャウも追放し「東遊運動」を粉砕したのである。
アジア太平洋戦争においては、大日本帝国軍(皇軍)はヴェトナムで「略奪」の限りを尽くした。家屋、車両、船舶を没収し、あるいは住民を追い立てて土地を占拠して、飛行場にしたり要塞を築いたりし、あるいは牛、豚、鶏を奪って兵士に与え、あるいはどこでも農民の熟した稲を刈って馬に食わせ、こうして一束のわら、一束の野菜、一個の卵にいたるすべてを略奪した。また、石炭、米、とうもろこしを日本に飢餓輸出する事を強要した。その結果、1945年には200万人にものぼるヴェトナム国民が餓死に追い込まれた。これは当時の人口の1割に近かった。
1954年~1975年までは、ヴェトナムは北部(1945年9月2日にヴェトナム独立同盟の指導者であったホーチミンを大統領として樹立されたヴェトナム民主共和国)と南部(ヴェトナム共和国)に分断され、日本政府は南部だけと経済関係を維持した。また、日本政府はアジア太平洋戦争敗戦後は米国に強く依存従属するようになったため、インドシナ戦争の休戦協定(ジュネーブ協定)の調印を拒否した米国が、ヴェトナムの南北統一に猛反対していたゴ・ジンジェムを大統領として樹立した南部のヴェトナム共和国を承認した。
1965年から米国は、南ヴェトナム人民が結成した南ヴェトナム民族解放戦線(ヴェトコン)を支援した北部のヴェトナム民主共和国への爆撃(北爆)を開始した。その時の米軍の爆撃機の基地は米国軍政下に置かれていた沖縄県であった。1965年5月7日、佐藤首相は米国のヴェトナム民主共和国への爆撃に対し支持を表明。政府見解は「米国軍が沖縄の基地をどう使おうと、日本政府は口出しできない」という事であった。そして、日本本土は朝鮮戦争に次いでヴェトナム戦争によっても高度の経済成長を獲得したのであった。つまり、米国の戦争に加担する事によって経済成長を獲得したのであった。ちなみに、ヴェトナム戦争でのベトナム人死者は1995年公式発表で300万人強(アジア太平洋戦争での日本人死者数と同じ)という。また、米国軍の砲爆弾使用量は、太平洋戦争で日本本土に投下した量の900倍ともいわれる。
「佐藤首相の北爆支持」に関して、鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』は「本土の日本人は……この(平和憲法があって戦争参加が許されない)状態を賛美する事ができたのに対して、沖縄に住む日本人は、ヴェトナム戦争を自分が助けているという事に対する現実認識をもっていました」と述べている。
ヴェトナム戦争に結果、沖縄県では、基地拡張のための新たな土地取り上げや、様々な事故などによる被害が続発し、1968年11月にはB52爆撃機が嘉手納基地で墜落大爆発を起こした事もあって、祖国復帰運動が盛り上がり、基地機能の低下を恐れた米国は施政権の返還を決意したのである。沖縄県は日本復帰本土復帰に際して、「米軍基地の存続や自衛隊の配備に反対して、基地のない平和の島(核抜き本土並み)としての復帰を希望する」建議書をまとめたが、佐藤政権は国会で取り上げる事もせず沖縄返還協定と関連法案を強行採決し、1972年5月15日、返還協定は発効(核兵器の沖縄配備容認の密約が交わされていた)した。
改めて天皇の「お言葉」を読み、腰をかがめ耳を傾けて元残留兵の妻へ「いろいろご苦労もあったでしょう」という天皇の話しかけに対して人々が感謝感激する姿をも含めて、天皇は国民に対してどのような役割を演じ果たしているかを考えると、現行天皇は、安倍政権を補完する役割を果たしている事が明白であり、近代日本、特に敗戦後の政治権力は天皇と内閣がセットで補完し合って機能するようになっており、互いにそれぞれの与えられた役割(天皇=権威と内閣=権力)を演じ果たす事によって、国民支配を巧妙にできる二重構造となっているという事である。この構造は昭和天皇についても同様で、自民党内閣とセットであった。
天皇は、安倍内閣と互いに補完し合う関係を拒絶し、昭和天皇の罪業について自身に都合の悪い事には無関心な態度をとるのは非常識で、すべてを継承し自身の姿勢を明らかにしなければならない事を自覚し、自ら新たな罪業を生み出す事のないように、上から目線の傲慢な考え方や「思いに寄り添う」などの同情(同情は相手を対等と認めず差別以外の何物でもない)と同義の言葉を使用する事もやめ、「ひざまずいて話す」事によって「寄り添う」ように見せるという演技演出(最近、安倍首相もそれが国民に与える効果に気づきまねるようになった)もやめ、国内外を問わず「罪業の謝罪と人権平和のために尽くす事を誓う旅」こそ積極的に行うべきである。沖縄県民の下へ、「反戦平和」を主張した事を治安維持法違反として処罰した人々の下へ、政府の侵略戦争行為により生じた空襲で被害を受け人生が歪められた人々の下へ、等々……。
2016年8月の「お言葉」に「人々と共に過ごして来ました」「常に国民と共にある」「国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう」など、「国民と共に」という言葉を多用しているが、それは自分が見えていない自己中心で自己満足の言葉である。「共に」生きるためには努力がいる。それは、相手を理解するための努力と、相手に自分を知ってもらうための努力である。そしてその際に、自分の価値観を押しつけない事である。押しつけのある関係では「共に」生きる事はできないのである。天皇は自己の「価値観の押しつけ」によって国民生活を歪め統制している事を自覚すべきである。
それを解消するためには天皇は何をすべきか。それは、憲法の「政教分離原則」を遵守する事である。具体的には、「古事記」「日本書紀」に基づく皇室神道(かつての国家神道の核)への信仰やそれに基づく行為をやめる事である。天皇という「公人」が宗教行為を公然と行う事、そのために「公金」(税金)を使う事は「憲法違反」で許される事ではないと定めた「憲法」に主権者である「国民」が賛同しているからである。
(2017年3月5日投稿)