朝日新聞2023年3月4日「be」の「歴史ダイヤグラム 原武史」欄が「旧生駒トンネルの光と影」と題した記事を掲載したが、私が把握している事を補足紹介しておきたい。
1910(明治43)年9月、大阪~奈良間に電車を走らせるため、大阪電気軌道会社が資本金300万円で創立された。大林組の大林芳五郎らが創立委員となり、社長に広岡恵三、専務に七里清介、取締役に岩下清周らが就任した。大正初期、大阪~奈良間にはすでにJR関西線(旧国鉄)が走っていた。しかし、生駒山を迂回していたので2時間近くも要していた事から、50分前後に短縮しようとした。この事業の最大の難関は生駒山。トンネル案と、ケーブルで山頂を越そうという2案が出た。トンネルでは膨大な経費を要するのでケーブル案に傾きかけたが、現地を見に行った岩下が「遊覧電車ならともかく、高速電車をケーブルにすると後世の笑いものになる。どんな事があってもトンネルにすべきだ」と主張しトンネル案に決定。
1911(明治44)年6月19日、大阪~奈良・三条間30.6㌔の鉄道敷設に着手。同年7月4日から全長3388㍍、幅6.7㍍、高さ5.5㍍のトンネル工事が東西から同時に始まった。当時、国鉄中央線の笹子トンネル(4.7㌔)が日本最長であったが、これは単線狭軌。複線広軌では生駒トンネルが最初の試みであった。
1913(大正2)年1月26日午後3時半頃、生駒トンネル東口から700㍍の坑内でレンガ積み上げ中に落盤事故が発生。153人が生き埋めになり、19人が死亡した。トンネルは1914(大正3)年1月31日未明にトンネルは貫通し、同年4月30日に開業した。
生駒駅の北側にある浄土真宗西教寺では工事関係者の葬儀や法要が営まれた事から当時の追悼文の文書や工事期間中の過去帳が残されている。トンネルの西口から下ったところにある称揚寺(浄土真宗)境内には大阪電気軌道会社と大林組が建立した「招魂碑」がある。裏面には24名の傷病没者名が刻まれ、その中に朝鮮人労働者の名がある。
生駒駅から宝山寺への参道を上ると、右側にハングルのルビがふられた「宝徳寺」がある。戦後外国人に対して認められた宗教法人の第1号。住職の趨南錫(故人)は生駒トンネルで酷使された同胞の話を知り、トンネル工事にゆかりのある地に建立したのである。また1977年11月には、地元の有志と近鉄の協力により、本堂より一段高い敷地に「韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑」を建立した。
旧生駒トンネル工事現場に朝鮮人労働者が働きに来ざるを得なかった背景の一つには神聖天皇主権大日本帝国政府による1910年8月下旬の「韓国併合」以前の朝鮮での鉄道工事があった。生駒トンネルの工事を請け負った大林組は当時のゼネコンとでもいうべき他の土木請負会社とともに、日露戦争(1904~05)を契機として朝鮮での鉄道工事に参入していた。京釜鉄道(ソウル~釜山)の一部と臨時軍用鉄道の一部、さらにソウル~義州間の停車場や機関庫の工事などを請け負い、以後の日本国内の請負工事に実績を上げていく。大林組と朝鮮人労働者との関係はこの時期から密接になり、旧生駒トンネル工事にも朝鮮人労働者が就労する事になったといえる。また、大林組は「韓国併合」後の日本国内の請負工事で、朝鮮人の労働力を最大限に利用し利益を上げていく。旧生駒トンネル工事の歴史は、単に奈良と大阪の地方史ではなく、神聖天皇主権大日本帝国政府がこれ以後に実施する「朝鮮人強制連行・強制労働」の起点であり序章であったといえる。
(2023年3月4日投稿)