「ピースおおさか」(大阪国際平和センター)では現在、アジア太平洋戦争末期、大阪市の天王寺動物園が園内飼育動物に対して行った処分に関する特別展「どうぶつのいのちとへいわ」を実施している。
『大阪市天王寺動物園70年史』によると、戦争によりエサ不足が深刻化し、1日100㌔のエサを食べる象は不良飼料により栄養失調となり2頭とも1942年に死亡。石炭不足で暖房ができず、キリンなどの熱帯産の動物も死亡した、との事である。
1943年8月には東京都長官が、空襲で檻が壊れ猛獣が逃げ出して大混乱になる事を恐れ、猛獣を処分する命令を出したが、大阪市も処分を決定した。天王寺動物園(寺内信三園長)では同年9月に処分を開始し、翌年3月までに10頭26種類を殺処分した。それを知った市民から園長に対し、「動物を殺さないで」との要望書が届いたようだ。
以下に、東京の上野動物園での動物処分の様子についての朝日新聞記事を紹介しておく。
「東京都(1943年7月)では空襲などの非常時に際しての万一を考慮して、上野動物園に飼育する最も危険なライオン以下の猛獣をこのほど穏やかな方法で処置した。永い間都民に、いや全国の人々に親しまれた動物なので、その供養のため、9月4日午後2時から同園内動物慰霊塔前で浅草寺大森大僧正が導師となり、法要を営む事になった。はじめ都としては空襲などの万一の際に臨んで非常措置をする事に準備を整えていたのであるが、如何に馴れた動物でも激烈な衝撃に遭っては恐るべき狂乱状態となり、処置の執行に万一齟齬があってはとの懸念と情勢の急迫から非常手段をとらず、穏やかな方法で事前に処置する事になったもので、死骸は剝製にして保存する……」(1943年9月3日朝刊)。「上野動物園で無心な猛獣たちが死んで行ってから、もうかれこれ一カ月。全国各地の坊ちゃん、嬢ちゃんから寄せられた哀悼の便りは園長室の机上に山と積まれ、まだ健在だった頃の猛獣の写真を前に、追憶の日々を送っている園長代理を感激させているが、その一文、一文がただその死を哀しむ感傷の言葉に終始せず、〝きっと仇はとってやる〟健気な誓いが綴られている。この中から国民学校1年「キツタシゲル」君の便りを紹介すると、
どうぶつえんのけだものがしんではかわいそう。ぼくはぞうが一ばんすきだった。そのつぎは、とらさん、ライオンさん、しろくまさんも大すきだ。おおかみさんもすきだった。けれども、もうじゅうはいないんだ。さびしくってたまらない。僕が大きくなったらね、アメリカ、イギリスをぶっつぶす。ライオンたちのかたきを、きっととってあげましょう。可憐な童心に燃え立つ敵愾心が目のあたりに見えるようではないか。……」(1943年10月4日夕刊)
三國一朗著『戦中用語集』によると、「東京が都制に切り替わった1943年7月1日、昭南(シンガポール)市長だった大達茂雄が初代長官になり、上野動物園の動物たちを処分した。1943年8月から9月にかけて実施された。ライオンは、硝酸ストリキニーネを飲ませたが、なかなか死なないので、槍で突き殺した。三頭の象は、敏感で毒を飲ませようとしても決して飲まなかったので絶食させて餓死させた。食物を与えられずフラフラになりながらも、何か「芸」をすれば餌をもらえると知っているので、よろめきながら、「芸」をしてみせた。この間の状況を絵本に仕立てたのが、土屋由岐雄(文)・武部本一郎(絵)「かわいそうなぞう」(金の星社、1970年)である」とある。ちなみに上野動物園が処分した動物は合計27頭であった。
(2021年10月10日投稿)