2023年10月29日午後、関東六大学野球・早慶戦が行われるようだが、神聖天皇主権大日本帝国政府時代のアジア太平洋戦争下、戦況の悪化に伴いスポーツ界にも戦争の影響が及んだ。そして、1943年10月21日の、文部省と学校報国会の共催で実施された「出陣学徒壮行会」の5日前の1943年10月16日に、「出陣学徒壮行早慶戦」が実施された事を紹介しよう。
特に「敵性スポーツ」といわれた野球には批判が強かった。1943年には文部省は通達で学生野球連盟の解散を指示し、関東六大学野球はこの年春のリーグ戦は中止となった(1942年秋のリーグ戦が最後となった)。
しかし1942年に、海軍主計大尉であった息子を戦死させていた慶應義塾大学塾長・小泉信三が、出陣学徒へのはなむけとして、「早慶戦」の実現を思いつき実施こぎつけたようだ。
「出陣学徒壮行早慶戦」は、早大戸塚球場で実施され、結果は10対1で早大が快勝した。試合後、早大と慶大両校は互いに相手校の応援歌を合唱し、その後全員で『海行かば』の合唱に至ったという。
※『海行かば』……『万葉集』(巻18)に出ている大伴家持の「長歌」の一節で、「大君(天皇の意)のお側で死のう 後ろを顧みる事はすまい」という意味である。
海行かば、水漬く屍 山行かば、草むす屍
大君(天皇の意)の辺にこそ死なめ。 かえり見なせじ。
※職業野球と呼んだプロ野球も1944年には禁止となったが、その職業野球では1943年4月から、全用語の日本語化(敵性用語の使用禁止)を実施したが、審判はストライクは1本、2本と、ボールは1つ、2つと呼び、セーフは「よし」、アウトは「だめ」と宣言し、バンドは「軽打」、ヒット・エンド・ランは「走打」と呼んだようだ。
(2023年10月29日投稿)