2024年12月1日の朝日新聞「窓」は「ウィルタの歴史 ひと針ひと針」というタイトルの記事を掲載した。田中 了編『母と子でみる戦争と北方少数民族・あるウィルタの生涯』(草の根出版会)から以下に「ウィルタの歴史」について一部紹介したい。
〇ウィルタ……他民族から「オロッコ」と呼ばれているサハリンの先住民族。現在ロシア共和国サハリン州ポロナイスク(大日本帝国政府時代の名称は敷香、北緯50度より少し南)、ノーグリキ地区ワル(北緯50度よりやや北)などに居住。戦後、ポロナイスクのウィルタの一部が北海道に移住。詳細は『ゲンダーク ある北方少数民族のドラマ』(現代史出版会)。
〇タライカ地方で生きる少数民族(ウィルタ(オロッコ)、ニブヒ、キーリン、サンダー、ヤクート)は元々文字を持たない民族で、戸籍もなければそれを必要ともしなかった。※タライカ……ポロナイ川、タライカ湖地方の25万ヘクタールにわたるツンドラ地帯を古くから「タライカ地方」と呼んでいた。
〇日露戦争講和条約ポーツマス条約では日露両国とも樺太には軍事施設を設けない事になっていた。
〇樺太アイヌについて……山辺安之助が1912(明治45)年、「日露戦争当時の功労と南極隊員の一員」として活躍、勲八等瑞宝章を授与(樺太日日新聞1912年11月23日付)。樺太アイヌの兵役は1933(昭和8)年1月1日より適用。勅令及び陸軍省令(1932年12月14日付官報)による。ただし、「オロッコ(ウィルタ)、ギリヤークは全く未開野蛮な遊民で、アイヌとは別問題」と適用外─樺太庁。
※山辺安之助……1867年~1923年7月9日。白瀬南極探検隊の樺太犬の犬ぞり担当として参加。
〇樺太混成旅団(1939年5月1日編成下命)長・鈴木康生大佐が樺太に赴任する2カ月前、すでにポロナイスク(敷香)陸軍特務機関長・扇大尉は対ソ情報収集のために原住民に「召集令状」を出し、諜報、謀略作戦の特殊訓練をたたき込んでいた。また、大本営陸軍部北方主任から「ソ連を刺激する事を避けてほしい」と注意があったが、現地特務機関としては、相手が相手なら、その対抗手段として「オロッコ(ウィルタ)、ギリヤークなど土人を使ってソ連の配備、動向のキャッチに彼らをスパイとして放たざるを得なかった」という。
〇1945(昭和20)年4月5日、ソ連政府は大日本帝国政府に対し、「中立条約」を延期しない旨通告。
〇アジア太平洋戦争敗戦後の戦犯者はウィルタ同族ばかりであった。
〇政府見解……「兵役法に基づかない「召集令状」は無効である。無効の召集令状を知らずに受けて従軍し、そのために戦犯者として抑留されたとしても大日本帝国政府の関知するところではない。お気の毒だが現行の恩給法の下では適用外である」。
〇「北方民族私設資料館ジャッカ・ドフニ」(ウィルタ語で「大切なものを収める家」)を網走市大曲の市有地に設立(1978年8月)、ゲンダーヌ(日本式名は北川源太郎)館長誕生。
〇少数民族戦没者慰霊碑「キリシエ」を網走国定公園天都山の中腹に建立(1982年5月)。
〇ポロナイスク(敷香)の遺族の日本国政府に対する要求
➀日本政府は少数民族遺族に謝罪し、次の事項を受け入れよ。
➁サチにある少数民族の墓地に「戦没者合同慰霊碑」(キリシエ)を建ててほしい。
③日本に移住後亡くなった肉親の墓参と肉親との再会の実現。
④日本に移住した同族の(ポロナイスク)の墓参と肉親との再会。
⑤現地遺族と日本移住の遺族に弔慰金を出してほしい。
〇(兵役法に基づかない)召集令状で徴兵された少年たちが一番悔しかったのは、上官たちの裏切りが判った時である。「天皇の軍隊、皇軍って何だ、中野将校(陸軍中野学校出身の諜報将校)を皇軍の中でも一番偉い上官殿と信じ込んでいた、その彼らがベラベラしゃべり、俺たちを落とし込む、考えられぬ事である、唯一つ、ホッとしたのは同族は誰一人口を割っていない事を知った時だった。」
〇ウィルタ(オロッコ)の死は「戦死」扱いされず、すべて「病死」とされた。
〇「ジャッカ・ドフニ」は2012年に35年間の活動を終え、「北海道立北方民族博物館」(1991年3月1日博物館認可)に引き継がれた。
(2024年12月1日投稿)