※教科書は生徒の「教化」を目的としたものであってはならず、科学的な思考判断を「教育」する事を目的としたものでなければならない。
小学生の質問が、「なぜ、学校の歴史の本にのっているのは『えらい人』ばかりなのですか」というものなのですが、それに対して回答者は、質問者が「えらい人」という言葉に込めた意味に対して一切助言をせず、小学校ではそれぞれの時代に活躍した人の話を中心に学ぶ事になっているとし、またその人たちは天皇や貴族、武士、政治家などで、それらの人々すべてが、「えらい人」ばかりだと質問者に同意している。回答者は質問者の付与する意味と同様であると判断し同意しているようである。この点ですでに回答者の認識に大きな誤りがある事といえる。
質問者がそういう認識理解を持つ事を既定の、当然の事として受け止め、それが「正しい認識」であるとして同意を示しているのである。しかし、このような姿勢は歴史を真に学ぶ姿勢を持っているとは言えない。また、質問に答える資格を有していないといえる。質問者に対し歴史を真に学んでもらおうという姿勢ではなく、歴史を恣意的に解釈しており、誤った歴史認識を植え付けており、極めて無責任で回答者の望む解釈へ誘導し洗脳する姿勢であり、さらにメディアを使って広範な読者にもそれを拡散しようとする意図さえ感じられ許されない事である。
たとえば、天皇や貴族、武士、政治家など「活躍した人」「身分の高い人」を「えらい人」としているようであるが、「えらい人」という言葉を「立派な人」「優れた人」という意味であるとするならば、「活躍した人」「身分の高い人」などが必ず「えらい人」だと決めつける事はできない。とするならば「えらい人」という表現は誤りだという事になる。
また、どのような人間でも多面的な人格、色々な「顔」を持っている。そのために何を基準にするかによって色々な評価を受けるのが自然である。この点からも軽率に「えらい人」という表現を使用する事は誤解を生む。そういう意味で、「えらい人」という言葉を回答者のように軽率に使用すべきではないと考える。
回答者はまた、「えらい人」たちがどういう人たちであるかを示すために、記録されている例として何の説明もなく「日本書紀」を挙げているが、そのような対応や助言もあまりにも単純で軽率である。歴史を学ぶという事は、「えらい人」とか「えらくない人」という道徳的評価をする事とは直接関係のない事である。歴史を学ぶという事は、過去を科学的に理解し、それによって現在を理解し、さらに未来を生きるための教訓、糧とするためであるという認識をすべきであり、小学生に対して上記のような例の示し方は非常に無責任であり、誤った歴史授業観や歴史認識へ誘導しているとしか思えない。つまり、回答者が自己の歴史授業観や歴史認識を質問者や読者に植え付ける洗脳を目的としているとしか考えられない。
他の部分の説明で、回答が適切でないと感じさせるところも指摘しておこう。まず、「えらい人」の反対語として使用しているが、「ふつうの人」という表現は不適切であろう。「えらい人」の反対は「えらくない人」であろうし、「ふつうの人」の反対は「特別の人」という事になると考えるが、回答者はもう少し、言葉を吟味して使用すべきだと考える。
次に、読み書きできる人について、「昔は字を読み書できるのは身分の高い人やお坊さんだったので、農民や商人といった人たちが自分たちの事を書いたというのはほとんどありません」とか「江戸時代には多くの人たちが読み書きできるようになり、たくさんの文章を残しました」と説明しているが、そのような状況であった理由も説明した方が理解しやすいであろう。
回答者はまた、教科書に載せられている、回答者の言う「えらい人」は、誰の意図を呈して、何を基準として選択され記載されたのか、どのような目的で生徒たちに学習させているのかという事も説明すべきであろう。
教科書には42人の人物について載せられているが、その発端となった人物は誰かというと、「東郷平八郎」である。森喜朗らが発端をつくり、「教科書問題を考える議員連盟」を結成し、文部省に圧力をかけて実現させたのである。
1985年10月23日付琉球新報の新聞を紹介しておこう。
「教科書問題を考える議員連盟の発足のきっかけについて『日本が国家存亡の危機をかけて戦った日露戦争の記述で、教科書には東郷平八郎元帥や乃木希典将軍の名前が全然見当たらないのはおかしい、という指摘が発端だ』と同メンバーの一人は解説した。同氏は『伝統や歴史をきちんと教えないで、立派な日本人を育成する事はできない』と言う。
この背景にはいじめ、校内暴力、青少年非行などが深刻の度を深め、『教育の荒廃』が叫ばれる中で、自民党内に『一体学校では何を教えているのだ。道徳教育は形がい化しているのではないか』(自民党文教族)という学校教育に対する強い不満がある。」