安倍政権には、閣議決定をした事によって人権尊重の意識が欠落している事を自ら暴露した。人権尊重を原則とする現行憲法に対する否定的姿勢も納得できる。そのような政権が国民の政治を担う資格はない。
同じ自民党でも、「北海道旧土人保護法」が問題化した1986年10月、後藤田官房長官の記者会見の言葉とは大きな違いが見られる。それは、「そのような法律がある事は知らない。もしそのような差別的名称の法律があるとするなら、名称を変えた方がよい。また、その法律が現在に生きていないというのなら、廃止すべきだ」というものだ。
2016年11月21日、鶴保沖縄相は衆院決算行政監視委員会においても「(土人発言を)差別と断定する立場にない」との考えを「改めて」示したという。
さらに安倍政権は、鶴保沖縄相の「差別と断定できない」という発言について、訂正や謝罪の必要はないとする「答弁書」を「閣議決定」したという。これは鶴保大臣の主張が安倍政権全体の共通認識となったという事である。そしてまた、「判断を明確に表明しない、曖昧にしておく」(本音は差別とは考えていない)という姿勢をとる事を政権の姿勢として閣議決定したという事を意味している。
なぜこのような姿勢をとったのか。それは、今後、色々な手を尽くして政府の本音の判断である「差別ではない」という判断を、国民に浸透させていくきっかけとする事を狙ったものである。また、今後あらゆる事に対して「政府の判断こそ正しいのだ」という認識を国民に植え付けていく素地をつくるためである。当然、この姿勢は「人権尊重」について普遍的な価値観に基づいて国民が納得できるように説明をするとか理解を求めるという姿勢はもっていないという事を表明したという事でもある。国民の声に耳を傾けるのではなく、政府の判断を、それを支持する国民が少数であろうが、多くの国民から偏向していると非難されようが自画自賛し自己正当化し、国民に押し付ける事を表明したという事でもある。菅官房長官や金田法相、警察庁長官、大阪府警の前言と対応との矛盾を国民から非難されても、鶴保発言についての閣議解釈がこじつけ屁理屈詐欺的だと国民から非難されても、まったく悪びれる様子もなく後ろめたい様子もなく閣議決定した事で明らかである。
つまり、政府が、人権侵害か否かについての判断の決定権を持つという事が正当化される国家体制を作る事を目指しているという事である。国民は政府の決定に従う事を強制されるだけの存在に位置づけられるという事である。もっと言えば、国民の持つ「主権」は「政府行政」の手に掌握されるという事である。
このような姿勢は、国会での法律制定時における、「強行採決」の意識と同一のものであると考えてよいだろう。すでに「秘密保護法」や「安保法制」の採決において、安倍政権が国民に見せてきた姿勢である。
(2016年11月25日投稿)