2017年11月8日の朝日新聞記事によると、文科省や開催地の都道府県と国体を共同開催する日本体育協会の国体委員会が2017年8月25日、来年秋開催予定の福井国体の名称を「明治150年記念 第73回国民体育大会」とする事を正式決定したという。
まず不信に思った事は朝日新聞に対してであるが、なぜ名称が正式決定されてから記事にしたのか、そして決定からこのように時間が経ってからなのかという点である。これはメディアの常套手段である悪質な情報操作による世論操作であると考えてよい。読者に考える機会と対処する時間を与えない事が狙いなのである。メディアの罪と責任は重く批判されるべきで、これからの姿勢を問わなければならない。
安倍政権は2018年に政府が行う行事には「明治150年記念」の冠をつける方針を表明している。それを受けてスポーツ庁は福井県に、7月上旬、1968年の福井国体が「明治百年記念」と冠していた事から、来年秋の福井国体でも「明治150年記念」を冠する事を、要請(強く請い求める事。庁側は、依頼をしたのであり最終的な結論は県に任せたとの言であるが、それは庁側に都合よく話をスリカエたのだろう)したようだ。
日本体育協会の岩田史昭・国体推進部長は決定について、「福井県の提案を尊重した」(これも庁側に都合よく話をすり替えている)としているが、県労連や県高教組など7団体は県に反対を申し入れている。その理由は「明治は当初から対外膨張(侵略)的な志向を強く持った時代であり、それがアジア太平洋戦争の惨禍に結びついた」などとしている。
また、8月23日開催の県の実行委員会でも上記団体と同様の趣旨の反対意見が出ていたにもかかわらず、「記念と銘打つ事で県民の意識が醸成される」とか「後々まで記憶に残りやすい」という賛成意見(その事の論理的な理由説明がなされていないにもかかわらず)に対し、拍手や異議なしの声が出て賛成多数で承認されたという。これではこの実行委員会は行政の会議としての体裁を為していないと考えてよい。
つまり、実行委員会の決定は、日本国憲法の原理が大日本帝国憲法の原理を全面的に否定し改め成立したものである(現行の日本国は明治に成立した大日本帝国を否定して成立した)という理解に基づいたうえで議論がなされたものではないという事であり、また、その理解を故意に無視したものであるともいえるからである。
また、県大会推進課の担当者は「(反対派が指摘するような)歴史的な意図はない」と説明しているが、これも県の実行委員会の賛成意見と同様に説得力のない観念的主観的な認識に基づいた説明をしているだけであり、県職員(公務員)に対し定めている憲法第99条「憲法尊重擁護の義務」に基づいた説明になっておらず、責任を追及すべきであると思う。
上記のような認識に基づけば、一橋大学の坂上康博教授の、「戦後〇〇周年」などとして戦後のシンボルとしての歴史の重みを示すべきだ、との提案こそ正当なものとして理解でき、それに沿った決定内容こそ納得できるものといえよう。
この件は、安倍政権が、国民体育大会を故意に、それも公然と政治的に利用しようとしているものであり、憲法違反以外の何物でもない。これを許せば、近い将来、挙国一致尽忠報国の精神高揚を目的とし1940(昭和15)年に実施された「紀元二千六百年奉祝 第11回明治神宮国民大会」のような冠称をつける国体も登場してくる事になるであろう。そして、国体は公然と強制力を持って国民に対する思想統一と皇国臣民化教育の場と変貌する事になるであろう。
ついでながら、その紙面に掲載された今年の「えひめ国体」の開会式の写真を見ると、「ナチス式敬礼」に模した敬礼が選手たちによって行われている(日本体育協会の要請で行わせたのであろう)事がわかる。
また、過去の他に問題視すべき名称としては、1979年に実施された宮崎県での「日本のふるさと 宮崎国体」というものもあった。宮崎県はなぜ「日本のふるさと」としたのでしょうか。その認識は記紀神話に基づいたものであり、ここでも日体協が要請したと思われるのである。
(2017年11月11日投稿)