2021年11月5日の朝日新聞「沖縄季評」が「パンパン」の事に触れていた。「パンパン」とは、「アジア太平洋戦争で降伏した日本を占領した、連合軍兵士の相手をする日本人売春婦を指す言葉」であるとしている。
さて、GHQによる占領下の日本政府は、占領軍兵士に対する性的慰安施設を設置した事を紹介しよう。日本政府は1945年8月18日、占領軍専用の「慰安施設」を特設するよう官僚に指示している。「日本の娘を守る」という名目であった。当時の大蔵官僚であった池田勇人が「1億円で純潔が守れるのなら安いものだ」と活躍した。しかし、プロの売春婦たちはこの事業に参加する事を拒んだ。彼女たちは「アメリカ人は大男なので性器も巨大だろうから怪我をする」と考えたようだ。そこで設立者たちは一般女性を募る事にして、東京銀座に巨大看板を出した。それには『新日本女性に告ぐ、戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍(占領軍)慰安の大事業に参加する、新日本女性の率先協力を求む』と書いた。愛国的、自己犠牲的に参加した女性もおおかったようで、8月22日までに1360人もの女性が「特殊慰安婦施設協会」(RAA)に登録した。そして、皇居前広場でRAAの発足式と『……戦後社会秩序の根本に見えざる地下の柱たらんとす……国体護持に挺身せんとするに、他ならん事を、重ねて直言し以て声明となす』との宣誓を行った。
RAA発足の日には数百人の米兵たちが大森のRAA施設に向かった。少数の娘たちが集められていたが、大半は処女であった。ベッドも布団も衝立もなく、阿鼻叫喚、官僚が罠にはめた娘たちは米兵に集団強姦された。当時の警察署長はすすり泣いたという。RAAの女性が相手にした米兵は1日15人から60人であった。自殺者も精神的な問題を抱えた女性も多かった。RAAは数カ月で廃止された。RAAの女性の90%が性病に感染し、米兵の70%が梅毒、50%が淋病に感染している事が判明したからである。
RAAの廃止後、内務省官僚は『女性には売春する権利がある』と赤線地域を設定した。警察が市街地図に赤線を引き、その範囲内での売春を許可した。5万5千人から7万人の売春婦がいたという。
ところで、明治維新においても新政府が同様の政策を実施していた事も紹介しよう。『戊辰物語』(東京日日新聞社会部編)によると、「吉原の廓を築地へ移して外国人お取持ちのため「新島原」というのが出来る話が始まって、吉原の連中が「どうぞ移りませんように」と神様参りを始めたりした。ホテル館が出来る、居留地が出来る、遊郭が出来るで、攘夷家は築地近辺を通らなかった。新島原は確か2年に竣工したと思うが、仲の町があり、花魁道中があり、引手茶屋などすべて本式で、今のうなぎの竹葉の通りが仲の町、鉄砲洲に大門があった。遊女はどのくらいあったか知らんが、島原八カ町といった。この遊郭は2年ばかりで廃絶したが、一時は大したもので、遊女屋のおやじは「天下のための商売だ」とひどく威張った」とある。
ちなみに、新島原遊郭は、1868(明治元)年11月東京築地に開かれ、居留地の外人めあてに千名近い娼妓が存在した。後、各方面からの反対で、1871(明治4)年全部取り払われた。
※赤線地域……政府公認の売春地域。日本政府はGHQの公娼廃止指令に基づき、1958年売春防止法を制定し、公娼制度を廃止し、赤線地域(売春許可地域)もなくした。
(2021年11月6日投稿)