つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

朝日新聞はなぜ問題視しないのか、沖縄旅行者に米軍兵士がレイプ。安倍政権は国民を守らない。

2024-06-27 21:33:56 | 沖縄

 2016年3月13日に沖縄県外の旅行者が宿所の那覇市内のホテルで、米軍兵士にレイプされる事件が起こった。1995年9月4日の少女暴行事件が起きた時には10月21日に「県民総決起大会」が実施され沖縄県民を挙げて抗議運動が起きた。そして、日本政府もメディアも問題視したものである。この事件をきっかけにして96年には日米両政府が「普天間飛行場の返還に合意」したのではないか。しかし、今回の事件に関しては、政府は問題視する動きはない。メディアも大きく取り上げていない。そのためか本土の国民も関心が薄いし、事件が起きた事すら知らない人がたくさんいる。この違いは何なのだろうか?

 安倍政権としては「辺野古新基地」の建設を達成したい思惑から「触れたくない」という心境から、あっさりと対応したようだ。メディアはおそらく安倍政権の意向を受けて、記事としての取り上げを「自己規制」して報道したようだ。朝日新聞の場合は、見逃してしまうほどの故意に読者が気が付かないようにしているような形で、また、大した問題ではないような形で小さく載せている。以下カッコ内に全文紹介する。

「抵抗できない状態の女性に那覇市内のホテルで性的暴行を加えたとして、米兵が準強姦容疑で逮捕された事件を受け、在沖縄米軍トップのローレンス・ニコルソン在沖米四軍調整官が16日、翁長雄志知事に県庁で面会し、陳謝した。ニコルソン氏は『この事件は我々にとって恥だ。できる限りの事をさせていただく』と話し、在沖米兵に再教育を行う方針を明らかにした。在沖米軍は海兵隊員らが14日以降、那覇市を含む米軍牧港補給地区(浦添市)より南の地域での宿泊を禁止する措置をとった。理由を説明していないが、当面続けるという。」以上。

 これだけの記事で済ませている。このような文章からは、読者に対して、事件について考える材料を提供しているとは決して言えない。ここには記事を書く人間と読者との間に意志の落差があると言える。この落差がある事に、記事を書く人間は気づくべきである。朝日新聞は読者にこの事件の問題性を伝えようとするつもりがないのであろうか。

 1995年の事件以後も2000年には、米海兵隊員が女子中学生にわいせつ行為。01年には、空軍軍曹が20代女性を強姦。03年には、海兵隊員が女性を強姦致傷。04年には沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落。08年には、海兵隊員が女子中学生を強姦。12年には米海軍兵が女性を強姦致傷。そして、今回の事件である。しかし、上記のように公になっている事件は氷山の一角である事を知っておくべきである。それほどにすべての沖縄県民(被害女性だけでなく、その家族親族、地域住民を含むすべての県民に不幸を及ぼしている事を知っておくべきである)を苦しめているのである。

 今回のレイプ事件はこれまでと異なり、沖縄旅行者が被害者となった事である。彼女は沖縄旅行を楽しみ友人とホテルの部屋で楽しく飲食をしていたようであるが、飲み物の追加買いに出たのであるが、戻ってみると友人は眠ってしまったようでオートロック・ドアのために入れず閉め出されてしまったのである。その後廊下で眠ってしまった。そこへ米海軍兵士があらわれて彼女を部屋に連れ込んで暴行したという事である。これについて上記ニコルソン氏は「我々にとって恥だ。できる限りの事をさせていただく」と話し、在沖米兵に再教育を実施するという。加えて、「14日以降、那覇市を含む米軍牧港補給地区より南の地域での宿泊禁止措置をとった」との事。果たしてこのような米軍の対応レベルで済ませて良いのであろうか。

 沖縄県外の女性も安心して沖縄旅行ができない、ホテルの中にいても安全ではないという事を示す事件なのである。本土の国民は米軍基地をこのまま沖縄に押し付けておいて良いのか。安倍政権は米国オバマ政府結託し辺野古に新基地をつくり沖縄の米軍基地をさらに強固なものとしようとしている事を本土の国民は許して良いのか。また、本土の国民は、日本に米軍基地を存在させておいてよいのかを本気で考えなければ沖縄県民のみならず自らをも苦しめ不幸にするという事に気付かなければならない。安倍政権は「国民の命と平和な生活を守る」と何度も主張しているがこの言葉が「ウソ」である事はこの事件の対応からも明らかであろう。

 このレイプ事件について、15日に同じキャンプ・シュワブに所属する兵士たちへの抗議行動をした人たちに、ある兵士が車から中指を立てて挑発する行為があったという。これに怒った人がボンネット側に回ろうとした時黄色い線を越えたという事で警察に拘束されたという。この人がなにをしたというのだろうか。警察は何を取り締まっているのか。

(2016年3月25日投稿)

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沖縄県知事・玉城氏が大阪府庁訪問:吉村知事(維新)は、議論は役所公務としてすべきではないと面会せず、全国知事会議採択への反逆行為

2024-06-27 14:19:25 | 沖縄

 米軍基地問題の議論を全国に広げようとして実施している、玉城・沖縄県知事の「トークキャラバン」が2019年9月9日に大阪府庁を訪れた。吉村・大阪府知事は面会を拒否し、副知事が面会した。吉村知事は、玉城氏との面会を拒否した理由として「中立的な立場で実務的に対応する方が誠実だろうと、副知事が対応した。僕は辺野古へ移設すべきだという考え方。議論は役所公務としてするべきではない」と述べた。

 ところで「中立的な立場」とはどういう事を意味するのであろうか。また、「議論は役所公務としてするべきではない」とはどういう意味なのであろうか。吉村氏の発言は、大阪府民はもちろん全国の知事、全国民を馬鹿にした、極めて欺瞞的な発言ではないのか。なぜなら、翁長雄志・沖縄前知事による「基地問題は一都道府県の問題ではない」との訴えを受け、2018年7月の全国知事会議で全会一致で採択した「日米地位協定の抜本的見直し」を、同年8月14日に米国トランプ政権と安倍自公政権に対し提言した経過があるからだ。この提言は米軍基地が存在しない府県も含めた日本全国47都道府県全知事の決意をまとめたものである

 つまり、吉村・大阪府知事も賛成支持しているにもかかわらず、冒頭の発言をうしろめたく思う事もなく、吐いているのである。このような手前勝手で信用できない傲慢な人間は「人間失格」であり、知事の資格を有していない。徹底的に糾弾し罷免すべきである。

※この投稿に関連した投稿として、別稿『全国知事会「地位協定見直し」提言、安倍自公政権は謙虚に受け入れてこそ所信表明演説「国民と共に」に適う、辺野古新基地建設工事を進める道は道理をはずれている』も読んでください。

(2019年9月9日投稿)

 

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貞明皇后(大正天皇の正妻))設立「財団法人・らい予防協会」の役割:天皇制には「軍国」と「慈愛」の2つの顔がある。「慈愛」は「軍国」を隠蔽するもので人権尊重に基づく行為ではない

2024-06-25 21:58:53 | ハンセン病

 明治以降の「天皇制」には2つの顔がある。1つは「軍国」の顔であり、もう1つは「慈愛」の顔である。そして、「慈愛」の顔国民を懐柔し統合する事を目的として行われてきたのである。敗戦後の日本国憲法に定められた「国事行為」の中の特に「栄典の授与」や、「生前譲位のお言葉」にある「象徴的行為」(公的行為)がそれに当たる。

 「軍国」の顔は、天皇は陸海軍の最高司令官であり、元首であり、政治と軍事の最高権力者の地位にあった事。また、男性皇族は全員軍人となり、軍国日本の象徴であった事である。もう1つの「慈愛」の顔は女性皇族の「慈愛」の顔で、彼女たちはそれに適った役割を担ってきた事である。「坤徳」という言葉があるが、これは「皇后の恩」という意味であり、皇后及び女性皇族は積極的に社会事業に関わっていった。

 たとえば、大正天皇の貞明皇后は「ハンセン病」に関わり、昭和天皇の香淳皇后は「結核予防」に関わっていた。こうした人たちを「憐れむ」(同情)事、これが「坤徳」である。女性皇族は傷痍軍人の慰問に関わった。

 1931年に「満州事変」を引き起こした神聖天皇主権大日本帝国政府は、兵士として使用するたくさんの健康な国民を必要とした。そのため、「ハンセン病」の感染を防ぐためとして患者の隔離を徹底して行おうとした。隔離を推進するために、内務省からの要望で貞明皇后がお金を出し「財団法人 らい予防協会」を設立(1931年)した。そして、皇后の慈悲深い気持ち(坤徳)により、患者は救済され、患者も喜んで隔離されるのだ、という認識の下で「隔離競争」が行われたのである。

 同年、神聖天皇主権大日本帝国政府は、「らい予防法」を制定し、全患者の強制絶対隔離・生涯隔離をめざした。あわせて「無らい県運動」も推進展開した。

 敗戦後の1951年になると、患者は「全国国立らい療養所患者協議会」を結成し、政府に対して、「らい予防法」の「改正」を訴える運動を起こした。強制隔離の廃止、完治者の退所を認めよ、と患者が立ち上がったのである。

 この動きに対し、「財団法人 らい予防協会」は、どのような対応をしたのかという事が主権者国民にとって重要である。1952年に貞明皇后が死去した。そのため、皇后の遺産を基金にして新たに「財団法人 藤楓協会」がつくられ、この総裁に高松宮がなり、その後には三笠宮の息子がなり、敗戦までと同様に皇族が「慈愛」を与えていく事となったのである。

 この「財団法人 藤楓協会」では、改正を訴える患者に対してどのような対応をしたかというと、「人権を主張すると社会の同情がなくなる。あなたたちは皇族や国民の同情によって生きているのだ。かわいそうだから予算を増やしてやっているのだ」という論法、、つまり「国家政府に刃向かうな、同情をありがたいと思え」という論法で運動を抑え込んでいったのである。つまり、皇室の「慈愛」は、患者が権利を主張し改正を求める運動を「否定」したのであり、そのため運動は抑え込まれたのである。

 そして、1953年、日本国憲法下の政府(現自民党系)は、「改正らい予防法」を強行に制定した。内容は、入所者の反対にもかかわらず「隔離を継続する」事としたのである。

 「財団法人 藤楓協会」は2004年に解散し、「ふれあい福祉協会」と名称変更したが、解散の最後まで、「隔離に加担した」とは一切言わず、「患者のために尽くした」と言い続けたのである。この主張が事実と正反対である事は明白である。

 敗戦後、天皇制は「軍国」の顔を消す事により、生き残った。そして、皇后や女性皇族のみならず天皇や男性皇族も「慈愛」の顔を持つようになった。昭和天皇の弟たちも「慈愛」の顔をもち、スポーツ・学術・社会事業に関わった。そのため、天皇や皇后、皇太子や皇太子妃、その他の皇族に対するイメージも国民の間では変化した。しかし、この「慈愛」の顔こそ「軍国」の顔をサポートする顔として、「軍国」の顔を巧妙に隠蔽し国民を欺瞞する役割を果たしているのである

 現在においては、国事行為の中の特に「栄典の授与」(叙勲)や恩赦などや、公的行為(象徴的行為・公務)のすべてはこの「慈愛」の顔に当たるものである。この「慈愛」の顔は、国民を「懐柔」する事を目的としており、「懐柔」する事により「思考停止」させ、国民を「統合」する手法としてあらゆる分野で行われているという事である。それは結果的には、時の政権(現在は安倍自公政権)の政治政策に対する国民の不満や怒りをなだめ緩和したり反らせたり、国民を情緒的な判断に流れさせたり、疑問を持たせず反対させずに支持受容させる効果を生み出す事となり、時の政権の政治政策を正当化し補強する役割を果たす事になっているのである。また、天皇皇族がその役割を果たすために膨大な国民の税金が使われているという事も重要視しなければならない。

 「生前譲位のお言葉」では、この「公的行為」(お言葉では「象徴的行為」としているもの)や「国事行為」についての意向を述べているが、「公的行為」については法的に規定されたものではないという事と自ら増やしたものであるという背景を考えれば、この際厳密に法に則り、すべてを廃止すればよいのではないか。

 上記「お言葉」では「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していく事には、無理があろうかと思われます」と述べているが、法に則る事こそ重要である。廃止した場合、天皇としては、主権者国民には明らかにしていない何らかの不都合が存在するという事なのだろう。この言葉にはそのような意味も感じられる。例えば、毎年、国民体育大会開催参列に合わせて、敗戦までの国家神道(靖国神社)の支社であり、敗戦後は憲法違反である国家神道の思想を堅持しながら全国都道府県に息をつないで存続する指定護国神社などとの関係を温めてきた(幣せん料などの経済的支援)慣例も継続できなくなるなどのように。この事は靖国神社の存立にも大きく関わっている。

 また、「宮中祭祀(皇室神道)」についても、廃止すべきであろう。「宮中三殿」やその「祭祀」自体が、明治時代になって、明治政府の国家神道樹立の意図に基づいて整備されたものなのだから。つまり、政府がつくった新興宗教なのだから。また、日本国憲法では「国家神道」を否認しているにもかかわらず、「伝統」として「継承」している事自体が本来問題とされるべき事なのであるから。国民が、時代が進むとともに生活も変化するのにあわせて、「冠婚葬祭のしきたり」も変えてきたように、皇室もそのしきたりを変えていかなければ、天皇はもちろん家族(皇族)が実生活上で矛盾を深め苦悩するだけである。

 ちなみに、1907年に法律第11号「らい予防に関する件」が制定されてから90年後の1996年になってやっと「らい予防法」は廃止(第1次橋本龍太郎内閣)された。患者は1998年には「ハンセン病国家賠償請求訴訟」を起こし、2001年には熊本地裁で「過度に人権を制限したらい予防法は違憲」「国が必要のない隔離を続けたのは憲法違反」という判決を得て全面勝訴した。同年6月「ハンセン病補償法」(植民地であった韓国・台湾も含む)の施行も実現させた。2008年には「ハンセン病問題基本法」も成立させ、国連人権理事会において日本政府の提案した「ハンセン病差別撤廃要求」が初決議された。

 天皇制の「慈愛」の顔は「同情、憐れみ」であり、それは日本国憲法が保障する「個人の権利や人権」を否定する「差別」的態度であり、「人権侵害」の姿勢態度そのものである。そして、「軍国」の顔を隠蔽し主権者国民を欺瞞するためのものでしかない。

 安倍自公政権は、2020年3月13日に、天皇の即位にあたり、天皇が社会福祉事業に合計1億円以内の寄付(寄付先は天皇の威光を踏まえて選定、発表されるという)を行う事を可能とする議決案を国会に提出する事を閣議決定した。

 この決議案は、安倍自公政権が、上記のような神聖天皇主権大日本帝国時代の政治手法をテキストにしたもので、天皇皇室を政権維持強化のために政治的に利用する企て以外の何ものでもない。寄付金は天皇の私費(内廷費)を充てるとの事であるが、その金は自分で稼いだという意味の「私費」ではなく、国民の税金である。天皇は年間3億2400万円(内廷費)もの国民の税金で生活が出来ている(実際にはその他を含め約300億円位?)にもかかわらず、自分の「カネ」であるがごとくに寄付行為に充てる事は許される事ではないのは当然であろう。

 これは国会議員などが政党助成金を国民への寄付行為として使用する事が認められないのと同じような事である。また、これは天皇の寄付先が社会福祉事業に対してであろうと認められないのは同様である。寄付をする意志があるのであれば、内廷費減額返金する意志表示こそすべきであろう。上皇が生前譲位の意志表示をしたほどであるから、その気があれば天皇もそれ位できるだろう。それをしないのはそのような考えがないからであり、その意志がないからであろう。安倍自公政権も天皇皇室もどちらも、改めて言うが、「同じ穴の狢」だという事である。主権者国民はもう気づいてもよさそうなものだが、現実はそうはならず、「ずる賢い為政者」=安倍自公政権が圧倒的多数の「お人好し」な主権者国民を欺き続けるのだろう。

(2023年10月25日投稿)

 

 

  

 

 

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韓国ハンセン病療養所「小鹿島更生園」…朝日新聞「取材考記」が書かなかった事

2024-06-25 21:56:14 | ハンセン病

 朝日新聞2024年3月25日付「取材考記」「ハンセン病療養所 園歌の旅 韓国で見た威圧」記事に書かれた、韓国ハンセン病療養所「小鹿島(ソロクト)更生園」について、「ハンセン病 小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団」発行のパンフレット「ソロクト・楽生院 Q&A」を基づいて以下に紹介したい。

 「小鹿島(ソロクト)更生園」とは、神聖天皇主権大日本帝国政府が「大韓帝国」を併合し植民地にし「朝鮮」と改称していた時代に、天皇の勅令によりその「朝鮮」につくったハンセン病療養所である。植民地支配をしていた大日本帝国政府は、植民地でも、ハンセン病は恐ろしい伝染病だと宣伝して、患者をあぶりだし、強制収容して生涯とじこめるための隔離施設としての療養所をつくったのである。「小鹿島(ソロクト)更生園」は、隔離政策実現のために設立したものであり、「らい予防法」とほぼ同一の法律つくったのである。

 故郷から強制的に連行し、収容専用の車両や船を使って有無を言わさず収容した。大日本帝国内の療養所と同じく、職員が絶対的に不足していたので、療養所運営のために「患者」にあらゆる作業を強制した。「療養所」とは名ばかりで「強制収容所」そのものであった。「患者」を、夜が明けぬうちから作業場に狩り出し、レンガ工場や「かます」作り、桟橋の建設、日本人園長「周防正季」の銅像つくりのために夜遅くまで働かせた。食事は貧しく、しばしば理不尽で容赦ない「懲罰」を加え、たまらず逃げ出した「患者」は「監禁室」に入れ、「懲罰」として「断種」した。数えきれないほどの「患者」が「懲罰」と「飢餓」のため亡くなった。韓国は、日本とは異なり、1960年代には政府が隔離政策を撤廃し、制度上では、ハンセン病は普通の病気となんら変わらない感染症となった。しかし、大日本帝国政府が、植民地支配時代に、徹底的な「ハンセン病は恐ろしい」という宣伝を行ったために、ハンセン病に対する社会的偏見差別が生まれた。故郷から強制隔離された「患者」は家族とのつながりを断たれているため、治癒しても故郷には帰れず、療養所での生活を余儀なくされている。2005年頃には700名超の「患者」が生活していた。

《小鹿島(ソロクト)略年表》

1910年 韓国併合条約調印

1917年 小鹿島慈恵医院開設

1933年 第1期拡張工事

1934年 小鹿島(ソロクト)更生園成立

1935年 朝鮮らい予防令施行

1936年 第2期拡張工事

1939年 第3期拡張工事

1945年 日本人職員退去(敗戦)

(2024年3月25日投稿)

 

 

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ハンセン病作家・北條民雄の本名公表へ

2024-06-25 21:50:51 | ハンセン病

 北條民雄(1914~37)の本名は「七條晃司」である。父は軍人で、赴任した朝鮮(もと大韓帝国で、1910年神聖天皇主権大日本帝国政府が「併合」し植民地化後に改称)の京城(もと大韓帝国の首都ソウルを改称)で生まれ、母の故郷である徳島県阿南市下大野町で育った。10代後半にはすでに友人と雑誌を発行し、小説を書いていたが、1933年、19歳ハンセン病を発病した。翌年、東京の全生病院(現・多摩全生園)に入院後、川端康成に師事し、本格的に執筆活動を始めた。差別が家族にも及んだため、「北條民雄」と改称を余儀なくされた。1936年に『いのちの初夜』を発表して注目されたが、翌1937年12月5日、腸結核で23歳で亡くなった。

以下に、小説『いのちの初夜』の一部を抜粋して紹介しよう。

「私にとって最も不快なものは、あきらめである。あきらめ切れぬ、という言葉は、あきらめを肯定してそれに到達しえぬ場合にのみ用うべくものである。が、私はあきらめを敵とする。私の日々の努力は、実にこのあきらめと戦う事である。あきらめる位なら自殺した方が余程ましである。というよりも、あきらめと戦うためには私は決して自殺をも否定しない。死んで勝つという事は絶対にないが、しかし死んで敗北から逃れるという事はあるのである。」

 2014年、「北條民雄」生誕100周年を機に、徳島県阿南市と市文化協会が、親族の了承を得て、郷土の偉人13人を紹介する冊子『阿南市の先覚者たち』に、「本名」の「七條晃司」を記載公表した。

(2023年11月12日投稿)

 

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