2016年8月に天皇明仁がビデオメッセージにおいて、実質上の天皇退位の意向を自らの口で表明しました。
これを機に政府は天皇の生前退位に関わる内容を検討し、2017年6月に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」という法律を定めました。
まさに天皇の意志によって政治が動いたわけです。
このことは、日本国憲法第4条に違反する疑いが濃厚です。
しかしながら、この国の人々はこうした天皇の動きを大方が好意的に見ているようです。
これは、首相である安倍晋三が権力を奮って民主主義をものともしない独裁主義体制を敷いていることと無関係ではないでしょう。
平和憲法を変えようと躍起になる安部は支持できなくても、国民に寄り添った天皇の考えはリベラルに映るのかもしれません。
こうした状況の下、東葛地区では「2019年『建国記念の日』反対! 2.11集会」を開催しました。
今年は講師に歴史学者の伊藤晃さんを迎えて「天皇代替わりとその周辺問題」についての講演から始まりました。
以下、伊藤さんの話の要約を中心に私の感想を織り込みながら報告します。
今、天皇像をめぐって「国民」の9割を超す人々が天皇を支持(明仁擁護派)している中で、旧来からの天皇主義者(伝統主義派)は押され気味です。
たまたま同じ会館内で開かれていた日本会議の集会も以前ほどの盛り上がりはありませんでした。
それだけソフトムードで人々に「優しい」明仁天皇の人気は高いと言えます。
これは、天皇自ら「(前略)日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方(中略)伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、(中略)いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかえお考えつつ、今日に至っています」と語るように、「国民」と天皇は一体のものとして今後も安定して継続させていく決意を述べたことと関連しています。
象徴天皇としての立場は、戦時中の「戦時一体」から「戦後一体」に変化しただけで、万世一系の天皇と国民が一体であるその関係こそが象徴天皇制の中身であるわけです。
歴史的にも常に受動的だった日本人民は、天皇の戦争責任を問えずに過ぎてきました。
一見リベラルを装っている天皇の言動も、実態的には米国に従い軍国化を強化している日本国家の意図を隠蔽して、日本は平和だと国民に思わせているにすぎません。
万世一系を万民翼賛体制として、自分の国の誇りと思わせるのが象徴天皇制です。
つまり、天皇は国民と内面ではつながっているという考え方です。
これは、米占領軍が「万世一系」を憲法第1条で、「権力的天皇」を第3条以下で片付けたつもりであったが、しかし、第1条の持つ意味が政治的に働いて「国民と内面でつながる象徴天皇」を出発させてしまったのです。
人民の内面が天皇制から自由にならなければ、象徴天皇制の本質は見破れず突破することもできません。
今、護憲派までが「象徴天皇制」に絡め取られています。
天皇が現実政治の中でとる姿勢、即ち「中立的位置」の批判、戦後民主主義派政治勢力・知識人の天皇依存への批判こそが重要です。
伊藤さんは、「人民の自立的な政治主体化・自立的な社会的共同への道」を模索しています。
そして、「共和主義とは何か…?」を問うスタンスで臨んでいるようです。
改憲をするなら、日本国憲法第1章を削除する論理の確立と闘いが必要です。
以上、断片的ながら講師の伊藤晃さんの講演を中心に私なりにまとめてみました。
とにかく、天皇制を語ること自体がタブー化している間は、天皇主義がこの国の社会を支配し、見せかけだけの自由と民主主義が居座り続けるに違いありません。
今あらためて私たちの日常で、何か理不尽なことや窮屈なこと等がないかを思い起こしてみるのも大切かもしれません。
それは、「内なる天皇制」によって規定されているかもしれないからです。
<すばる>
これを機に政府は天皇の生前退位に関わる内容を検討し、2017年6月に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」という法律を定めました。
まさに天皇の意志によって政治が動いたわけです。
このことは、日本国憲法第4条に違反する疑いが濃厚です。
しかしながら、この国の人々はこうした天皇の動きを大方が好意的に見ているようです。
これは、首相である安倍晋三が権力を奮って民主主義をものともしない独裁主義体制を敷いていることと無関係ではないでしょう。
平和憲法を変えようと躍起になる安部は支持できなくても、国民に寄り添った天皇の考えはリベラルに映るのかもしれません。
こうした状況の下、東葛地区では「2019年『建国記念の日』反対! 2.11集会」を開催しました。
今年は講師に歴史学者の伊藤晃さんを迎えて「天皇代替わりとその周辺問題」についての講演から始まりました。
以下、伊藤さんの話の要約を中心に私の感想を織り込みながら報告します。
今、天皇像をめぐって「国民」の9割を超す人々が天皇を支持(明仁擁護派)している中で、旧来からの天皇主義者(伝統主義派)は押され気味です。
たまたま同じ会館内で開かれていた日本会議の集会も以前ほどの盛り上がりはありませんでした。
それだけソフトムードで人々に「優しい」明仁天皇の人気は高いと言えます。
これは、天皇自ら「(前略)日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方(中略)伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、(中略)いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかえお考えつつ、今日に至っています」と語るように、「国民」と天皇は一体のものとして今後も安定して継続させていく決意を述べたことと関連しています。
象徴天皇としての立場は、戦時中の「戦時一体」から「戦後一体」に変化しただけで、万世一系の天皇と国民が一体であるその関係こそが象徴天皇制の中身であるわけです。
歴史的にも常に受動的だった日本人民は、天皇の戦争責任を問えずに過ぎてきました。
一見リベラルを装っている天皇の言動も、実態的には米国に従い軍国化を強化している日本国家の意図を隠蔽して、日本は平和だと国民に思わせているにすぎません。
万世一系を万民翼賛体制として、自分の国の誇りと思わせるのが象徴天皇制です。
つまり、天皇は国民と内面ではつながっているという考え方です。
これは、米占領軍が「万世一系」を憲法第1条で、「権力的天皇」を第3条以下で片付けたつもりであったが、しかし、第1条の持つ意味が政治的に働いて「国民と内面でつながる象徴天皇」を出発させてしまったのです。
人民の内面が天皇制から自由にならなければ、象徴天皇制の本質は見破れず突破することもできません。
今、護憲派までが「象徴天皇制」に絡め取られています。
天皇が現実政治の中でとる姿勢、即ち「中立的位置」の批判、戦後民主主義派政治勢力・知識人の天皇依存への批判こそが重要です。
伊藤さんは、「人民の自立的な政治主体化・自立的な社会的共同への道」を模索しています。
そして、「共和主義とは何か…?」を問うスタンスで臨んでいるようです。
改憲をするなら、日本国憲法第1章を削除する論理の確立と闘いが必要です。
以上、断片的ながら講師の伊藤晃さんの講演を中心に私なりにまとめてみました。
とにかく、天皇制を語ること自体がタブー化している間は、天皇主義がこの国の社会を支配し、見せかけだけの自由と民主主義が居座り続けるに違いありません。
今あらためて私たちの日常で、何か理不尽なことや窮屈なこと等がないかを思い起こしてみるのも大切かもしれません。
それは、「内なる天皇制」によって規定されているかもしれないからです。
<すばる>