江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

国家は人間を使って人間を支配する(4)

2017-03-10 | 随想
私は、天皇が亡くなった時に電話をしてきた校長を特に尊敬していたわけではありません。

彼は単に職務を遂行しようとしていたのであり、私たちは職務の使命感(今では「青い」と言われそうだが、教育労働者として、再び教え子を戦場へ送らない決意)を持って対応したから対立しただけの話です。

しかし、最後は一人の人間に戻ります。
これは私たちとて同様です。
自分たちの生きる問題として現実対応していったと言ってもよいでしょう。

その意味では、校長に限らず教育委員会や文科省に対しても、そこで働く個人に問いかけることが基本です。
責任を曖昧にさせてはなりません。
社会の中で生きるのは他ならぬ一人一人の個人です。
その個人が集まったりつながったりして生活が営まれるわけですから、外部から個人に対してはたらきかけるのも国家などという抽象的なものではないはずです。

国家は人間が動くことによって初めて具体化・具現化するのです。
その人間は立法・行政・司法府の官僚や議員であったり、そこから権限委譲された警察官等々の公務員や行政に雇われた民間人であったりします。
だからこそ、私たちは国家の末端に在って権力行使しようとする校長に対処したのです。


思えば、「昭和」が終ったあの時も国家というものが日常に降りてきました。
そして、「国民」を任意の方向へ導こうと、それぞれの位置における人間を通して働きかけたのです。
学校の職員は校長を通して、校長は区教育委員会の担当職員を通して、担当職員はその上司を通して、その上司は……、最終的には国家というものに行き着きます。

明治の天皇制近代国家が誕生して以降、敗戦後に日本国憲法が制定・施行されるまでの間は、天皇の名において「国民」は支配され忠誠を誓って生きてきたのです。
ところが、民主主義が人々の生活の隅々まで行きわたっているかと言えば現実にはそんなことはなく、とりわけ学校教育を通じて国家は個々人を管理し、コントロールしようとしています。

森友学園に典型的な形で表出した国家主義教育は、日の丸を掲揚し君が代を斉唱するばかりか教育勅語暗唱まで幼い子どもたちに押し付けています。
その場に居合わせた安倍首相夫人は、涙を流して感動していました。
そして、「せっかくここで芯ができ たものが公立の学校に行くと揺らいでしまう」とさえ言っていました。
さらに、今は辞任してしまったものの当初は新設小学校の名誉校長に就任したのです。
夫である安倍首相は、こうした森友学園の教育を「素晴らしい」と一時は絶賛していたものです。

安倍内閣には、この教育勅語を肯定し「核の部分は取り戻すべきだ」と主張する稲田朋美防衛相等、多くの日本会議国会議員懇談会の会員が存在します。
極右内閣と言われる所以です。
もちろん、総理の安倍晋三は特別顧問を務めています。

敗戦後72年が経過したとは言え、未だに国家の亡霊が徘徊しています。
そして、ある人間に取り憑き他の人間を支配しようとするのです。
国家の陰謀を打ち砕くには、最末端の生活現場で常にアンテナを高くしておかなければなりません。

仮に得体の知れない何かがどこかで動いて、私自身に強制するなら、私は本能的にそれを拒否するでしょう。
それは、今でも変わりません。
国家から自由になること、それが民主主義社会の在り方です。



<しょうわ>


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