昨年は図工の先生だったのに、何と今年は2年生にとって道徳の先生だ。
週一時間だけの授業だが、これが私も子どもたちも共に楽しみにしているから不思議だ。
この道徳、1958年から学校教育に組み入れられたものだが、これが戦前戦中の修身に符合するものであることは当時誰もが知っていた。
民主教育のオブラートで包まれてはいたものの、敢えて学校教育に位置づける必然性があろうはずはなく、どう考えても国家の企みがあったのである。
したがって私(たち)は、この道徳を当局の思惑通りには機能させないため様々な工夫をしてきた。
ある者は「道の時間」と称して私たち人間の歩んできた歴史を様々なテーマで学習したり、道徳に欠かすことのできない最も重要な課題「人権」の時間として位置づけ実践したりしてきたものだ。
しかし、最も多かったのは道徳の時間なんて無視して他教科を授業していた人たちであろう。
まだ、それだけ締めつけが強くはなかったからだ。
ところが、東京都は1998年から「道徳授業地区公開講座」なる馬鹿げたものを強制し、主として土曜日等の休日に保護者等に道徳授業を公開させている。
今、政治の世界では「教育委員会」が問題にされているが、東京都は石原都政の時代に早くも首長の考えを学校教育に強引に持ち込んでいたのである。
それが「・・・公開講座」であり、道徳教育を重要視した2000年からの「心の東京革命」なるものであった。
まさに教育に対する首長の権限強化の先取りをしていたわけだ。
さて、そのような因縁付きの道徳を何故に私が・・・?
○○主任の持ち時間軽減という理由から、言わば当局のお墨付きで授業を担当しているのだ。
「1時間でけっこうですから・・・」
「だったら、書写か図書ですか?」
「それも考えたのですが、先生とのコミュニケーションを子どもたちは楽しみにしてるので、むしろ担任がやることになっている道徳なんかがいいかなと思いまして・・・」
「えっ、私がやっちゃっていいんですか、道徳を?」
「ええ、もうどの様にやられも結構ですから・・・」
と、そんなことで引き受けてしまったわけだ。
私の道徳は、それなりに教科書(副読本)を使う。
より正確に言うと、使うこともある。
自前のネタばかりではこちらも疲れるし、子どもたちも飽きてくるからだ。
しかし、第1回目は教科書を使った。
表紙にサブタイトルとして「みんな たのしく」と書いてあったのだ。
「みなさん! 道徳のお勉強ってどんなことをやるのかな? 教えてく7れますか?」
「はーい! きまりを守るとか意地悪しないとかのお勉強です。」
「はーい! 他にもあります。噓ついたりゴミを捨てたりしないことです。」
「・・・」
いゃあ、よくできてる子どもたちだ・・・・。
1年生の時に真面目に学習してきたのだろう。
だからといって、彼らはその事柄ばかりやっていたら飽きることは必至だ。
彼らなりに正解というかタテマエをよく知ってるのだ。
全員が教科書を出して待ってたので、これは使わなくては・・・と思い表紙を見たら「みんな たのしく」と書いてあるのに目がとまった。
「さあみんな、この本のここに小さく書いてあるね・・・」
「うん、『みんな たのしく』って書いてあります!」
「そうだね」と言って、黒板にそれを書く私。
「これ、どういうことだか分かりますか?」
「はーい、みんなが楽しくなることです。」
「ほんと? そんなことできるの?」
「・・・・」
こんな感じでやりとりしながら、「みんな」と「たのしい」をキーワードにどんどん対話が続く。
「楽しい時ってどんな時?」
「ゲームしてる時」
「友だちと鬼ごっこしてる時」
「好きな絵本を見てるとき」
「お誕生会の時」
「・・・・」
「△△さん、その時のことをもっと詳しく話してください。」
この話し合いの中で、ここは他の子の意見を聞こうかなと思った時に私の方から投げかける。
「その時、もしあなたがそこにいたらどう思いますか?」
とか、実際の場面だったら具体的にしたことや考えたことを振り返らせる。
本の中の話より実体験の話のほうが盛り上がる。
いかに彼らの記憶や想像力を刺激して再生したり活性化させるかが決め手だ。
この際、決まりきった正しさや善意を前面に出した展開は話をつまらなくさせる。
行くだけ行かせる、進むだけ進ませる・・・そんな感覚で彼らの対話に付き合うのだ。
話が行き詰まったり堂々巡りしてる時が私の介入する時だ。
「そうか、じゃあみんな楽しかったんだね。」
「先生!はーい。私はその時、○△さんと遊ぼって約束してたのに男の子たちとずっと遊んでいて私は楽しくなかったです。」
「はーい、僕もほんとうは違う遊びがしたかったのに・・・・。」
ここから、その時のことをめぐって話し合いが始まる。
中には泣きそうになって訴える子も出てきた。
しかし、ここで止めるわけにはいかない。
どうしたか、どうすればよかったか等々を話し合った。
よくしたもので、彼らは困惑した私の顔を見てかどうかは不明だが、自ずと解決への道を探った。
それは、彼らなりに考えたものであった。
「・・・・・」
「今日のみんなの話し合いは、とっても素敵だったよ。自分のことだけでなく、友だちのこともよく考えてましたね。とっても嬉しかったな・・・。」
こう言うと、子どもたちは満更でもない顔をして私に笑顔を向けてくれた。
あっと言う間に一時間が過ぎてしまった。
こんなことができたのは、やはり昨年の「図工の先生」の実績があったからだと思う。
ちなみに、次の時間は教科書(副読本)を一切使わず私の子ども時代の(脚色した)体験談を聞かせることから始め、サービスに「怖い話」をしてあげた。
「こわーい!こわーい!」と、きゃーきゃー言いながら、喜んで聞いてくれた。
こんな調子だから、教室へ入っていくと拍手で迎えられる道徳の先生なのだ。
さて、次の時間は何をやろうかな・・・・・。
<やったるで>
週一時間だけの授業だが、これが私も子どもたちも共に楽しみにしているから不思議だ。
この道徳、1958年から学校教育に組み入れられたものだが、これが戦前戦中の修身に符合するものであることは当時誰もが知っていた。
民主教育のオブラートで包まれてはいたものの、敢えて学校教育に位置づける必然性があろうはずはなく、どう考えても国家の企みがあったのである。
したがって私(たち)は、この道徳を当局の思惑通りには機能させないため様々な工夫をしてきた。
ある者は「道の時間」と称して私たち人間の歩んできた歴史を様々なテーマで学習したり、道徳に欠かすことのできない最も重要な課題「人権」の時間として位置づけ実践したりしてきたものだ。
しかし、最も多かったのは道徳の時間なんて無視して他教科を授業していた人たちであろう。
まだ、それだけ締めつけが強くはなかったからだ。
ところが、東京都は1998年から「道徳授業地区公開講座」なる馬鹿げたものを強制し、主として土曜日等の休日に保護者等に道徳授業を公開させている。
今、政治の世界では「教育委員会」が問題にされているが、東京都は石原都政の時代に早くも首長の考えを学校教育に強引に持ち込んでいたのである。
それが「・・・公開講座」であり、道徳教育を重要視した2000年からの「心の東京革命」なるものであった。
まさに教育に対する首長の権限強化の先取りをしていたわけだ。
さて、そのような因縁付きの道徳を何故に私が・・・?
○○主任の持ち時間軽減という理由から、言わば当局のお墨付きで授業を担当しているのだ。
「1時間でけっこうですから・・・」
「だったら、書写か図書ですか?」
「それも考えたのですが、先生とのコミュニケーションを子どもたちは楽しみにしてるので、むしろ担任がやることになっている道徳なんかがいいかなと思いまして・・・」
「えっ、私がやっちゃっていいんですか、道徳を?」
「ええ、もうどの様にやられも結構ですから・・・」
と、そんなことで引き受けてしまったわけだ。
私の道徳は、それなりに教科書(副読本)を使う。
より正確に言うと、使うこともある。
自前のネタばかりではこちらも疲れるし、子どもたちも飽きてくるからだ。
しかし、第1回目は教科書を使った。
表紙にサブタイトルとして「みんな たのしく」と書いてあったのだ。
「みなさん! 道徳のお勉強ってどんなことをやるのかな? 教えてく7れますか?」
「はーい! きまりを守るとか意地悪しないとかのお勉強です。」
「はーい! 他にもあります。噓ついたりゴミを捨てたりしないことです。」
「・・・」
いゃあ、よくできてる子どもたちだ・・・・。
1年生の時に真面目に学習してきたのだろう。
だからといって、彼らはその事柄ばかりやっていたら飽きることは必至だ。
彼らなりに正解というかタテマエをよく知ってるのだ。
全員が教科書を出して待ってたので、これは使わなくては・・・と思い表紙を見たら「みんな たのしく」と書いてあるのに目がとまった。
「さあみんな、この本のここに小さく書いてあるね・・・」
「うん、『みんな たのしく』って書いてあります!」
「そうだね」と言って、黒板にそれを書く私。
「これ、どういうことだか分かりますか?」
「はーい、みんなが楽しくなることです。」
「ほんと? そんなことできるの?」
「・・・・」
こんな感じでやりとりしながら、「みんな」と「たのしい」をキーワードにどんどん対話が続く。
「楽しい時ってどんな時?」
「ゲームしてる時」
「友だちと鬼ごっこしてる時」
「好きな絵本を見てるとき」
「お誕生会の時」
「・・・・」
「△△さん、その時のことをもっと詳しく話してください。」
この話し合いの中で、ここは他の子の意見を聞こうかなと思った時に私の方から投げかける。
「その時、もしあなたがそこにいたらどう思いますか?」
とか、実際の場面だったら具体的にしたことや考えたことを振り返らせる。
本の中の話より実体験の話のほうが盛り上がる。
いかに彼らの記憶や想像力を刺激して再生したり活性化させるかが決め手だ。
この際、決まりきった正しさや善意を前面に出した展開は話をつまらなくさせる。
行くだけ行かせる、進むだけ進ませる・・・そんな感覚で彼らの対話に付き合うのだ。
話が行き詰まったり堂々巡りしてる時が私の介入する時だ。
「そうか、じゃあみんな楽しかったんだね。」
「先生!はーい。私はその時、○△さんと遊ぼって約束してたのに男の子たちとずっと遊んでいて私は楽しくなかったです。」
「はーい、僕もほんとうは違う遊びがしたかったのに・・・・。」
ここから、その時のことをめぐって話し合いが始まる。
中には泣きそうになって訴える子も出てきた。
しかし、ここで止めるわけにはいかない。
どうしたか、どうすればよかったか等々を話し合った。
よくしたもので、彼らは困惑した私の顔を見てかどうかは不明だが、自ずと解決への道を探った。
それは、彼らなりに考えたものであった。
「・・・・・」
「今日のみんなの話し合いは、とっても素敵だったよ。自分のことだけでなく、友だちのこともよく考えてましたね。とっても嬉しかったな・・・。」
こう言うと、子どもたちは満更でもない顔をして私に笑顔を向けてくれた。
あっと言う間に一時間が過ぎてしまった。
こんなことができたのは、やはり昨年の「図工の先生」の実績があったからだと思う。
ちなみに、次の時間は教科書(副読本)を一切使わず私の子ども時代の(脚色した)体験談を聞かせることから始め、サービスに「怖い話」をしてあげた。
「こわーい!こわーい!」と、きゃーきゃー言いながら、喜んで聞いてくれた。
こんな調子だから、教室へ入っていくと拍手で迎えられる道徳の先生なのだ。
さて、次の時間は何をやろうかな・・・・・。
<やったるで>