訪問日 令和4年10月4日
深山 飯盛寺(はんじょうじ)
高野山真言宗の寺院
元正天皇の勅願により養老年間(720年)の草創(田徳山 椿林寺)
文和年間(1352年)に後光厳院の勅願所として覚能法印が建立、深山 飯盛寺と改めた
初めて訪れる寺院で、飯盛山の山腹にある
麓集落からお寺までの約1kmは車のすれ違いが困難の場所も多く緊張した
山門
石柱には「深山 飯盛寺」
縁起と境内図
本堂からの帰りにこの門の存在を知った
四天王のうち二天が祀られている
多聞天(北の方角を守護)
広目天(西の方角を守護)
参道を歩き本堂を目指す
左手には石塔
こちらの石仏は観音像か
鐘楼
本堂(重要文化財)
文明16年(1484年)火災に遭い、本堂・塔頭・什物すべて焼失
現在の本堂は、延徳元年(1489年)の建立<平成10年の解体修理によって判明>
自然石の石垣積基壇にたつ本堂は、間口13.66m(五間)、奥行き12.88m(五間)の広さ
単層、寄棟造、妻入、茅葺
堂内の様子(撮影許可をいただいている)
千手観音像立像
本尊:薬師如来坐像の脇侍仏
中興の祖 覚能法師が吉野より本像を請来したと言われ、飯盛寺には二体の本尊があったことが知られている
頭体幹部は木芯を含む桧の縦一材から彫り出し、内刳りを全く施さず、頭上の十面はホゾ指しとする
真手は臂(ひじ)で矧ぎ臂に宝鉢手を矧いでいる
脇手は殆どが桧の剥材から削り出して両肩にカスガイで止めている
全身に後世の補修が少なく、顔面・頭体幹部は造像時の形状を良く保っている
前立 弥勒菩薩
厨子左右の仏像と十二神将
開山 覚能法印
文和年間に高野山から来て七堂伽藍、十二坊等を創建
寺号を飯盛寺とする
堂内外陣
賓頭盧尊者
「飯盛」の読み方について
私は飯盛寺(いいもりでら)と読んでいたが
飯盛(はんせい)地区の、飯盛(いいもり)山の、飯盛(はんじょう)寺と読み方が全部違うことを知った
撮影 令和4年10月4日
深山 飯盛寺(はんじょうじ)
高野山真言宗の寺院
元正天皇の勅願により養老年間(720年)の草創(田徳山 椿林寺)
文和年間(1352年)に後光厳院の勅願所として覚能法印が建立、深山 飯盛寺と改めた
初めて訪れる寺院で、飯盛山の山腹にある
麓集落からお寺までの約1kmは車のすれ違いが困難の場所も多く緊張した
山門
石柱には「深山 飯盛寺」
縁起と境内図
本堂からの帰りにこの門の存在を知った
四天王のうち二天が祀られている
多聞天(北の方角を守護)
広目天(西の方角を守護)
参道を歩き本堂を目指す
左手には石塔
こちらの石仏は観音像か
鐘楼
本堂(重要文化財)
文明16年(1484年)火災に遭い、本堂・塔頭・什物すべて焼失
現在の本堂は、延徳元年(1489年)の建立<平成10年の解体修理によって判明>
自然石の石垣積基壇にたつ本堂は、間口13.66m(五間)、奥行き12.88m(五間)の広さ
単層、寄棟造、妻入、茅葺
堂内の様子(撮影許可をいただいている)
千手観音像立像
本尊:薬師如来坐像の脇侍仏
中興の祖 覚能法師が吉野より本像を請来したと言われ、飯盛寺には二体の本尊があったことが知られている
頭体幹部は木芯を含む桧の縦一材から彫り出し、内刳りを全く施さず、頭上の十面はホゾ指しとする
真手は臂(ひじ)で矧ぎ臂に宝鉢手を矧いでいる
脇手は殆どが桧の剥材から削り出して両肩にカスガイで止めている
全身に後世の補修が少なく、顔面・頭体幹部は造像時の形状を良く保っている
前立 弥勒菩薩
厨子左右の仏像と十二神将
開山 覚能法印
文和年間に高野山から来て七堂伽藍、十二坊等を創建
寺号を飯盛寺とする
堂内外陣
賓頭盧尊者
「飯盛」の読み方について
私は飯盛寺(いいもりでら)と読んでいたが
飯盛(はんせい)地区の、飯盛(いいもり)山の、飯盛(はんじょう)寺と読み方が全部違うことを知った
撮影 令和4年10月4日
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