多くのギターがその店内に展示されていた。金額は10万から50万までの品揃えが幅広く、高いものだと100万を超えるものまであり、アキは度肝を抜かれてしまう。
何がその金額の差になっているのか、見ているだけでは判断基準に見当がつかない。店の奥でギターの弦をチューニングしながらメロディを奏でている人がいる。
一度、喉を鳴らしてからその人に近づいていく。この人が自分のお目当てのヒトか。そうだとすれば自分の存在を気づかせてはならない。
今日は会社が休みの日で、通勤途中にあるモールに近い駅で降りた。朝早くから開いているような店ではないと知ってはいても、気持ちを抑えきれずにいつもの通勤時間に合わせて家を出ていた。
電車を降りる時にちょとした出来事があった。最初は自分の勘違いで、相手に迷惑をかけてしまったのかと肝を冷やした。
最後は丸く収まって安堵したが、やはりこんな日ぐらいゆっくり家を出ればよかったと、またしても自分の判断が面倒に巻き込まれる要因になっており、せっかくの日なのにと気持ちが落ち込んだ。
気を取り直して午前はブラブラとモールを見てまわり、お目当てのこの店の開店時間も確認した。そのあとはコーヒーショップに入り時間までゆっくりしていた。
ドリッパーのヒトが入れてくれたコーヒーは、普段飲むモノより酸味が弱く、優しい舌ざわりだった。気持ちを落ち着かせたいアキにはピッタリで、飲み干すころには心身ともにスッキリとしていた。
また寄ろうと帰り際にレジに置いてあったカードを手にしていた。ひとりで店をキリモミしているその人は、嬉しそうに微笑んでいた。
気持ちも入れ直したところで、満を持して店に向かっていく。店に近づいたところであの音色が聴こえてきた時は、良い意味で総毛が立った。
店内に入って行くにつれ、音響設備が整っているかと思うほど、音が奥深くなっていく。その人は作業に集中していて、幸いにもアキが近づいているのに気づいていないようだ。
接客の観点からすれば誉められた状況ではないにしても、アキにすればこのまま気づかないでいてほしかった。
空気を伝わってアキに届くその音は、カラダに当たり、耳から侵入してくるとアタマの中で残音となる。アキが全然知らない曲でも、聴き心地が良く、次に弾かれる音に常に期待していた。
「何か気になるギターあったら、弾いてみていいよ」
ななめ後方から、気づかれないようにその姿を見ていたのに、その人はアキに声がけしてきた。アキの心臓が跳ね返った。このままギターの音色を聴いていたかったのに、これでおしまいかと観念した。
それなのに、その人はそれだけを言って、引き続きギターの音合わせを続けた。
もしかして自分に話しかけたわけではないのかとまわりを見た。ここにはアキ以外には誰もおらず、やはりこの状況ではアキに言っているとみるのが正しいだろう。
そう言われても何て答えればいいのか、すぐに反応できない。それに気になると言われても、なにが自分の気に入るギターかわかるはずもない。
そもそもが、アキはその目的で店内に入ったわけではない。おいそれと数十万するギターを手にするなど恐れ多すぎる。万が一にキズでも付けて、買い上げることになったら、今の手持ちでは間に合うはずもなく、少ない貯金を切り崩さなければならないだろう。
言うだけ言って、躊躇しているアキを気にかけるわけでもなく、その人は美しいメロディを奏でていく。
チューニングが終わったようで、これまでは途切れ途切れだったメロディは、曲のアタマから通しで演奏されていった。
それは何処かで聴いたことのある、懐かしいメロディだった。思わず口ずさみたくなりそうでも歌詞が出てこない。歌えたとしてもギターの音色のジャマになるだけなのでその気はない。
サウンドはさらに厚みを増していき、左右の五本の指が休むことなくうごめき、アキが知っているメロディの合間を縫って副音も複雑に絡んでおり、ボーカルのメロディに対して、音を深めるサブメロディ重ね合わせていき、ベース音が織り交ざっていた。
高校の時にうまい奴が演っていた奏法で、自分もやってみようと何度も練習したものの、どうしてもできなかった演奏だった。それを見ている分にはいとも簡単に、それも高校の時に見た以上の正確さ、音のハリ、流れるメロディを奏でていく。
この人はアキに自分の腕前を披露しているわけでもなく、弾いている内に熱中しだして、自然とそうなっているようだった。
アキは前に回り、食い入る様に指の動きを凝視した。もしかして名のある演奏者なのだろうかと、そんな期待もしたくなるほどのテクニックだ。
以前モールをブラついていた時に耳に届いたギターの音色。音源から流れてきたものではなく、生の音のダイナミックさと、ヒリヒリとする危うさに耳を奪われた。
どこから流れているのかと、あたりを見渡す。楽器屋の看板が目に入った。ギターのイラストの下に、カタカナでカノウと書かれているだけのシンプルなモノだ。
およそモールにある他の店とはかけ離れた、前世の遺物といった佇まいだった。アキにはそれが却って好印象となった。
その日は約束の時間があり、店の前を素通りするしかなった。店の前に立った時には、すでに音は止んでおり、店内も薄暗く中の様子は伺いしれない。
本当にここでいいのか確信が持てないまま、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れた経緯があった。
次に弾き出した曲は、アキにとって苦い思い出の曲だった。仲間内のひとりの彼女が良い曲だと勧めてくれた輸入盤で、今では世代を超えて大ヒットした曲だ。
アキも直ぐにレコードを買って何度も聴いた。そして友だちに無理を言ってギターを借りて、前奏だけでも弾けるようにと、指先がボロボロになるまで練習した。
それでも演奏するというより、何とか音が出るというレベルから抜け出せず、彼女と友だち以上になることを諦めると同時に止めてしまった。そしてギターに触ったのはその時だけだ。
そんなこともありしばらく避けていた曲だった。もはやラジオでも滅多に聴かなくなった今、このタイミングで耳にするとは何の偶然か。
間近で聴くと、さらに空気の振動がビンビンと肌に響いて、心の奥まで振動してくる。アキがこんなふうに弾けたらいいなと望んでいた弾き方をしている。
最後のAメロが終わり、前奏と共に世界で一番有名と言っても過言でない、ギターソロに入ろうとした。アキはそのリフを想像するだけで肌が粟立った。
「オサムーっ!」元気のいい声が店内と、アキと彼に響き渡り、ふたりは同時にビクリと背筋を正した。
黒のTシャツに、緩めのデニムパンツ。紺地のエプロンをした店員が胸を張った。Tシャツの背中とエプロンの腹の部分に、店の名前がプリントされている。
倉庫から弦や、ストラップなどの在庫を取り出してきたあとで、手に幾つもの商品を抱えていた。商品の隙間から胸のネームプレートが見え、そこにはユウリと書かれていた。
ダメでしょう。お客サン来てるのに。ギター弾くのに集中してちゃと、オサムをたしなめ、アキに振り向き、ゴメンナサイ、いつもこんな調子でと、アタマを下げた。
店の客と言われ恐縮してしまう。オサムのギターが聴きたかっただけで、ギターが欲しい訳ではないアキは返答に困り、ただアタマを下げるしかない。
買う予定で来ていないので、資金も持ち合わせていない。押しに弱いアキなので、こういったタイプの店員にグイグイと言い寄られると、ローンとかカード払いでとか勧められて買ってしまいそうだ。
何か言ってこの場を取り繕わねばと焦っていると、余計に言葉が出なくなる。素直にギターの音色に釣られて入店しただけで、買う予定はないんですと伝えたかった。
「なんだよ~、ちゃんと接客したぜ。気になるギターがあったら手にとって弾いてみてって。なあ?」
そう、オサムに同意を求められ、首をコクコクと振るアキ。
「そう言うのは接客って言わないの。手に取ってって言われても困るよねえ?」
今度はアキは、引きつった笑顔で応える。肯定も否定もできない。それにしても一応客であるアキに、何故かふたりは一切の敬語はなく、以前からの友達のように話しかけてくる。
それが別に馴れ馴れしいという感じではなく、初めての店なのにアキを優しく懐柔していく。それで随分と気持ち楽になって言い訳の言葉も出てきた。
「あの、店長さんのギターがすごく上手で、聴き惚れてしまったというか、、」
店のふたりは、アキの言葉が終わらないうちに、声をあげて笑いはじめた。何がおかしいのか戸惑うアキ。ユウリに笑われるのはまだしも、上手だと誉めたはずのオサムにまで笑われてしまい、自分ごときが上手などと言うのも憚れるのかと焦ってしまった。
「ゴメン、ゴメン。オサムのこと店長だって言うから。そんな勘違いしたのアナタがはじめてよ。このヒトたんなるバイトよ」
「バイト?」オサムはウンウンとタテに二度クビを振って肯定した。
「そう、バイト。なんだったらわたしは店員だから、格付けとしてはオサムより上だし」
ユウリは満面の笑みでそう言った。オサムは若い子に呼び捨てされて、そんなことを言われているのに一緒になって笑っているだけだった。
アキは焦って、ユウリにアタマを下げた。それは気づかず、失礼しましたと平謝りする。店員だからといえ、そこまで卑屈になることもない。案の定、また大声で笑われることになる。
「やっだ、何それ。アナタ面白いわねえ」
全く言われる通りで、自分でも迷走しているのがわかる。ただ、そういった流れを作り出したのはユウリであって、どちらかと言えば、乗せられただけだと言いたいところだ。
とは言え反論できるはずもないアキは、引きつった笑顔をするだけだ。オサムはひと通り笑ったあとで、アキに近くのイスに座るように勧めてくれた。
ユウリは、アブラばっかり売ってないでちゃんと商売してね、と言って商品の陳列をはじめた。オサムはクビをすくめて聞き流す。
「キミは、この曲好きなの?」
アキにそう聞きながら、先ほどの曲のイントロを弾き出す。五本の指から弾き出されるメロディは、やはり複雑に絡み合って奥深いサウンドを創り出していた。
「どうしてわかるんですか?」アキは素直に疑問を問う。
オサムはニヤリとするだけで、理由は言わず演奏を続ける。とても一本のギターから紡ぎ出される音源とは思えない。自分が弾いていたメロディとは全く別物だった。
「凄いテクニックですね。もしかしてプロの方ですか?」おだてるつもりもなく、そんな聞き方をしていた。
オサムは目を見開く。これはまた笑われる流れだ。そう心配するアキをよそに、オサムは表情を緩めるに留めていた。アキの天然っぽい言動を可笑しがるよりも、自分の過去を思い起こす思考が勝った。
「プロになろうとしてた。でもよ、オレぐらいの腕のヤツはいくらでもいるんだよ」
この人のウデを持ってしてもそうなのかとアキは愕然とする。そういう話はいろんなところで耳にしていた。そしてその言葉を聞くたびに、彼らをほめたたえている自分の存在がより小さくなっていく。
これほどの演奏ができても、かの世界では平凡であり、下界に降りてきてはじめて、自分のような耳の肥えていない者から、唯一崇められるに留まっている。
それが現実であるとわかっていても、すぐには受け入れがたいアキは、以前より引っかかっていた疑問を、勢いでオサムにぶつけてしまう
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