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1960年代の日本

2023-10-04 20:02:00 | 日本史

【日米安全保障条約】 

 1960年に、日米安全保障条約が改定され、日米新安全保障条約が結ばれました。日米新安全保障条約は「新安保」と略されます。新安保は、日米安全保障条約より、対等な内容の条約でした。条約の内容は、もし日本が攻撃された場合、日本とアメリカが共同で防衛をする義務を負うというのものです。旧安保の時代は、東西の代理戦争である朝鮮戦争の真っ只中でした。日本の近くには、共産主義国「東側」である中国やロシアなどがあります。そのため、アメリカは、補給拠点の後方支援基地として、日本を活用しようとしました。アメリカは、資本主義陣営「西側」の代表格です。新安保には、日本が共産主義陣営につくことを防ぐ狙いもありました。 

 【極東条項と安保紛争】 

 新安保条約には「極東条項」というものがあります。極東条項とは、極東における平和と安全のために、米軍の日本駐留を正式に認めたものです。ただし、日本と関係がない戦争が起きた場合でも、日本にいるアメリカ軍は、条約によって動くことが出来るようになりました。そのため、日本が再び戦争に巻き込まれる可能性があります。国民のなかには、それに危機感を覚える人もいました。その人たちが起こした反対運動を「安保紛争」と言います。安保紛争は、日米安全保障条約の改定に反対した、国論を二分する戦後最大の国民運動でした。裏には、日本とアメリカを分断させたいというソ連の思惑も働いていたとされます。

 【岸信介】 

 新安保条約が結ばれた時の首相は岸信介です。岸信介は、東条英機内閣時代の「商工大臣」と「国務大臣」でした。東条英機は、太平洋戦争時の内閣総理大臣です。岸信介は、東条英機の関係者として、A級戦犯として拘留されていました。ただし、最終的には無罪になっています。しかし、戦争に加担した人物として、不安視する国民も多くいました。ちなみに、岸信介は、安倍晋三元首相の祖父です。岸信介は、この安保闘争に対抗するため、国会へ警官隊を配備し、新安保条約の強行採決を行いました。

 【所得倍増計画】 

 池田勇人首相は「所得倍増計画」というスローガンを掲げました。所得倍増計画とは、10年間で国民所得を2倍にするという長期経済政策です。この計画は、わずか7年間で2倍に達しました。ものが無い時代から大量生産、大量消費の時代となり、人々の関心は、政治から経済へと移ります。1960年代は、高度経済成長の最盛期です。日本経済は、飛躍的な成長を遂げ、GNPが資本主義国内で2位となりました。1965年から70年の「いざなぎ景気」は、戦後最長の好景気とされています。

 【交通網】 

 東京オリンピックの前後から、高度経済成長を支えるため、全国の高速道路網などのインフラが整備されました。1964年に開通したのが「夢の超特急」と呼ばれ、経済成長の象徴とされる「東海道新幹線」です。同年には、名神高速道路が、1967には、中央自動車道が開通しました。「東京」「大阪」「名古屋」を三大都市と言います。その三大都市で、次々と開通したのが地下鉄です。それに伴って、路面電車は廃止されました。東京が世界初の1000万都市になったのも60年代です。

 60年代の生活】 

 戦後、農村では基本的に生活は変わっていませんでした。日本人の生活が、本格的に変わったのは1960年代からです。この頃が、日本人の日常生活の原点だとされています。まだ生まれてない人でも、多くの日本人が、なんとなくノスタルジーを感じるのは60年代の生活です。高度経済成長期の60年代半ばになると、電化製品の3種の神器が、新3種の神器「3C」にとって代わりました。3Cとは「カラーテレビ」「自動車」「クーラー」のことです。この頃には、電子レンジも登場し「インスタント食品」「レトルト食品」「スナック菓子」などの食料品も普及しました。また、1964年の東京オリンピックをきっかけに開始されたのが、カラーテレビの放送です。



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