今回表面化した、尼崎の連続監禁収奪殺人は、10年前の北九州一家監禁殺人と同様、被害者の亡骸に対する所業で、私の思う日本的心とは、全く相容れません。
日本人の気質の一つに亡骸に対するフクザツな心情があります。
屍体に対する畏れは生物的本能の一端でもあるのですが、(身内でない)亡骸は忌むべき穢れであり、同時に、決して不遜に扱われるものでもありません。
大陸での故事(エジプト、中国、古代ヨーロッパなど)や、現代アメリカのように屍姦が行われたりすることもほとんどなく、何らかの意志で亡骸に手をかけたりすることを疎う風潮もあるようです。つまり、同胞であれ、仇敵であれ、死を境に、そのパーソナルは神道でのカミとなり、同時に仏教でのホトケとなるのです。亡骸はそのカミ、ホトケの旧い入れ物であり、依りしろとして、その生前のパーソナルに対する扱いとは異なる扱いをされます。
両事件の主犯は、他人を恫喝制御屈服させる特殊な気質と執着心を持ち、平常な人では全く対抗できない怪異です。その出自を取り沙汰すのは、無意味なのですが、少なくともその深い暗闇に決して取り込まれることのないよう、自分の気持ちをやすらかな方向へと持っていきたいと感じてます。
それくらい、陰鬱な気分にさせる、嫌な事件です。
日本人の気質の一つに亡骸に対するフクザツな心情があります。
屍体に対する畏れは生物的本能の一端でもあるのですが、(身内でない)亡骸は忌むべき穢れであり、同時に、決して不遜に扱われるものでもありません。
大陸での故事(エジプト、中国、古代ヨーロッパなど)や、現代アメリカのように屍姦が行われたりすることもほとんどなく、何らかの意志で亡骸に手をかけたりすることを疎う風潮もあるようです。つまり、同胞であれ、仇敵であれ、死を境に、そのパーソナルは神道でのカミとなり、同時に仏教でのホトケとなるのです。亡骸はそのカミ、ホトケの旧い入れ物であり、依りしろとして、その生前のパーソナルに対する扱いとは異なる扱いをされます。
両事件の主犯は、他人を恫喝制御屈服させる特殊な気質と執着心を持ち、平常な人では全く対抗できない怪異です。その出自を取り沙汰すのは、無意味なのですが、少なくともその深い暗闇に決して取り込まれることのないよう、自分の気持ちをやすらかな方向へと持っていきたいと感じてます。
それくらい、陰鬱な気分にさせる、嫌な事件です。