3104丁目の哀愁と感傷の記録

日々生きてます。自分なりに。感じた事を徒然に書きます。素直に。そんな人間の記録。
since 2008.4.4

死に至る病

2009-10-28 21:47:29 | 
最近は『ソフィーの世界』を読みすぎて頭が疲れている。
やっとキェルケゴールまでいきました。
キルケゴールじゃないよ。
キェルケゴールね。

彼、イケめんだったんですね。

ヘーゲルあたりが一番疲れた。
やっぱり西洋哲学はキリスト教を自分の身近に感じられないと理解するのはとても難しいと思う。

ここでさらりとドイツ語原文で読めたりしたら超カッコいいんだけどな。
そんな事はいいとして。


ついこないだ香港からロンドンまでバスだけで行ったこともあり、
(沢木耕太郎の深夜特急を読んだという意味)
またヨーロッパに行きたくなってきて困る。

システィナ礼拝堂の「最後の審判」が見たい。

どれ位見たいかというと、「時をかける少女」の千秋くらい見たい。
時空を超えそうな勢い。
あれ本当に凄いらしいよ。

ミケランジェロつながりで。
皆さんはダビデ像をご存知でしょうか?

歴史的に天才と称されるミケランジェロが、
なんと26歳の時に完成させた彫刻。

あ~俺あと5ヶ月で26になっちゃうよ。

この同じ26年間の埋めがたい差は一体なんだ。

別にミケランジェロになりたいなんて気はさらさら無いが、
彼はこんな下らない日記を書いていなかったことだけは容易に想像できる。



そうそう、11月には書店に並びます。

おしまい。

実体の無い情報としての言葉と実感を伴う情報との関係性

2009-10-24 22:13:28 | 
今日、言語教育系の学会に参加してきた。
場所は慶応義塾大学三田キャンパス。
慶応は初だ。

うん、遠いよ…

覚悟できる遠さだったら、例えば横浜とかだったら踏ん切りがつくんだが、
田町って、中途半端に遠いよ。
覚悟できない遠さのギリギリのところに鎮座してやがるぜ、三田キャンパス。

学会の内容はともかくとして、なぜ俺がその学会に参加したのかというと、
まあ、仕事の一環なんですが。

俺が編集を担当した先生が会長を務める学会だったのです。
その研究発表学会。
俺は本の企画者である上司一緒に完成した書籍をもって
颯爽とのりこんだわけです。

本が完成して、献本するときに先生に連絡したんだけど、
もし俺が来ることがあったら、
先生の名前出せば入れるようにしといてくいれたんです。

せっかくのご好意だし、
何より俺もご挨拶はしたいと思ったし、
更に何よりメールや電話では頻繁に連絡したが実際に会いたくって。

因みに前説にジャーナリストの池上氏が講演をしていました。

教授は学会長なので、常に誰かと話をしていて、
実際に先生と話せた時間はたったの5分。
いや、5分も無かったな。
ご挨拶だけで終わってしまった。

けど、いいんです、実際に俺は学会に行って、実際に会って、実際に話をしたんだから。
その事実は揺るがないわけです。
俺が話した内容なんて本当にどうでもいいんです。
だけど、実際に俺が会って、話したってことに意味があると思うんです。

情報は「速い情報」と「遅い情報」とに分けることができると思う。

今日に限らず、「速い情報」は常に溢れ返っている。
例えば、広告、看板、新聞の見出し、要約、本のタイトル、ネットのページ…

つまりは情報を瞬時に運ぶメディア全ては「速い情報」の提供者と言える。

新聞の見出し、リードなどはその最たるものである。
いかに速く情報を伝えるかに意味がある。

「速い情報」はつまりどれだけ情報を瞬時に相手に伝えるかに主眼が置かれているため、
「選択」という行為が必然的に起こる。

「速い情報」はその情報を伝えようとする主の主観が伴う。これは当然だ。

例えば、看板を見てみると、
駅にあるような看板に、ある店が看板を出していたとしよう。

店の名前、地図、電話番号、キャッチコピーがせいぜいではないだろうか。

看板に創立年月日や、社長の名前なんかを書くか。

これらはいかに客に足を運んでもらえるかという視点で、
凝縮されたものであり、選択されたものである。

戦争報道でも然り。
戦争を本当にリアルに描写しようとしたら、原稿用紙が何枚あっても足りない。
目の前で起こっていることだけでも全て描写したら、とんでもないことになる。
いや、不可能だろうな、実際。

新聞記事はリアルではない。
当然、記者の主観を通したリアルである。

それを情報として誰かに伝えようとするならば、
記事にしなくてはならない段階で絶対に選択をしなければならない。
記者が何かを意図して、何かを強調して伝えようとして選択し、情報になるのである。

「速い情報」は確か俺らの頭の中に入ってくるプロセスはとても速い。
うまく使えば非常に便利である。
だが、その分、凝縮され、何より選択が多く行われているという点がある。

まあ、世の中の情報全てが真実と思っているやつなんていないとは思うけど。

じゃあ、逆に「遅い情報」ってなんだ。

これは「実感」と行ってもいいかもしれない。

小学校2年生の国語の教材・アーノルド=ローベルの「お手紙」という作品をご存知でしょうか。

『ふたりシリーズ』というシリーズで、
「がまくん」と「かえるくん」という二人のかえるが主人公になっている。

「がまくん」は今まで一回も手紙を貰った事ないことを嘆いている。
親友の「かえるくん」はそれを見て、一回家に帰り、

「俺は君の親友です  かえる」

といった旨の手紙をトロいかたつむりに配達するように託す。

また「かえるくん」は「がまくん」のところに行き、
「きっと手紙がくるよ」といって二人で待ち続ける。

何日も待ち続けてもまだ手紙が来ない。

ここで「かえる」は「がま」に手紙の内容を話してしまう。

しかし、「がま」は「いいお手紙だ」といって喜び、その後も二人で待ち続ける。

その4日後、かたつむりがやっとこさ到着し、
二人は大いに喜ぶ、って具合だ。

この作品を「速い情報」と「遅い情報」との違いが非常によく現れていると見ることができる。

言葉ってものの特性を見てみる。

言葉とは「速い情報」の代表格である。

実際に「かえる」は「がま」に
俺はお前の「しんゆう」であるという事を言葉で、速い情報できちんと伝えている。

しかし、ここで考えて欲しいのは、
たとえば、「かえる」が手紙だしたからって伝えて、すぐに帰ってしまったらどうだったか。

もしくは、手紙まってたら一瞬で来てしまったらどうだったか。

二人の喜びは半減すると思う。

「速い情報」には何一つ変化は無い。全て同じ条件である。
「しんゆう」という言葉はきちんと伝わっている。

しかし、なぜ、三つの条件で嬉しさが違ってくるのかというと、やはり「遅い情報」が働いている。

「しんゆう」という言葉なんて誰にでも言え、簡単に相手に速く伝わる。
しかし、それが実感を伴うようになるには「遅い情報」が必要。

「俺はお前の親友だ」って言葉は確かにこの場合、「速い情報」として伝わった。
しかしこの場合、
「何日間も一緒に待ち続けたという事実」が「遅い情報」としてはたらしている。

「何日間も一緒に待ち続けたという事実」が「速い情報」である「しんゆう」という言葉を実感が伴うものまで引き上げているのである。

それが情報かって思うかもしれないが、
実際に俺らの思考、認識に何らかの変化を及ぼしていることには全く変わりは無いし、
時間をかけて何か認識に訴えかけたのなら、紛れも無い情報である。

これは失恋にもあてはまる。

「別れましょう」って言葉を言われたとする。
この段階でも当然ショックだろうが、本当に別れたことを実感するのは
毎日話してたり、近くにいた人がいなくなったんだってことをふと気付いた時だろう。

ブランキーの歌詞ではないが

「知らない国のどこかの知らない誰かが死んだって、俺は涙なんかながせない」


けそ自分の知ってる人が亡くなったらやっぱ悲しい。

これは「遅い情報」の差であると思う。

自分の身の回りにいて、多くの時間を共有し、膨大な「遅い情報」を得ている人であればあるほど悲しい。

「あなたのじいちゃんの友達のいとこの娘の愛人のスピードワゴンさんが亡くなりました」
「あなたのじいちゃんが亡くなりました」

「速い情報」としての役割は全然違うことなんか無い。
それが悲しいか悲しくないかを決めるのは、

どれだけその人の「遅い情報」を得ているかだと思う。


先生から教えられたことを自分なりに解釈して書いてみました。

校了

2009-10-07 21:52:16 | 
上がりました。校了っす。

実に一年がかりの大プロジェクトでした。
本当に長かった。

度重なる原稿の差し替え、
そして度重なる俺の用字用語の統一ミス。

確か当初の予定では刊行予定は2008年度だったような。

校正完了、略して校了です。

後は製本に移すのみ。

今回は装丁も俺がデザインしました。
デザインの参考にしたのは塾時代に使っていた夏期テキスト。
白地でフォントで遊んで、英単語を散らしてみました。
デザイナーさんには俺のわがまま聞きまくってくれて本当に感謝です。
自分では結構カッコいい装丁になったかなと思います。
教育書の限界まで無機質にしてみました。


基本的にうちの会社では、

原稿→初校→再校→三校→校了
なんだけど、

原稿→初校→再校→三校→念校→抜念校→抜抜念校→抜抜抜念校→校了までいきました。
てかDTPの方、本当にすいません。

最後にゲラに「校了」ってスタンプを押すんですけど、
そのときは今までの苦労が走馬灯の様に駆け巡ってきやがった。

なので今日は一人でビール飲んでみた。

明日は装丁のプロッターが出てくる。
いやあ、楽しみ。

出版なんかに興味ない人は何言ってるか解らんと思うけど、
要は、俺が今日は嬉しいってことだけ伝わればいい。


そんなこんなで明日も頑張りましょうか。

生きるに値せずとも

2009-06-10 20:14:19 | 
ハローマイフレンド!

こんにちは、俺だよ。
首を痛めてしまいまして痛いです。
結構痛いです。激痛というレヴェルです。

しかもその原因が、寝違えたとかならまだいいんですけど、
この上なくかっこ悪いんです。
いつもの通勤の満員電車。ベストポジションで本読んでたら、
急激に眠くなりやがった、俺の身体。
暫くすると、眠気はそれはもう、半端じゃなくなってきて、一回、後ろにガクン、ってなった。そしたら、音で表すなら“ピキッ”って感じの激痛が首に。そっからずっと痛い。
選手生命に関わるわよってアヤコに言われた。

今日の仕事中は、5時間は揉んだんだね、首を。
パソコンでレイアウト作りながらズーと揉んでた、首を。
もう少しでテクニシャンになれそうでした。

単行本がもう一冊きました。
まだ、今までやってたの終わってないのに…
ちょうど著者校正に出してるってだけなのに…

6月15日にぼおなすが出るみたいです。
賞与なんてかっこいい言葉を使ってもいい。
考課面接して、課長にぼおなすは大事に使ってくださいねって言われました。
言われなくても大事に使いますけどね。
なんか買おうかな、トーテムポールでも買おうかな。

『死ぬかと思った』って言う本を知ってますか?
本屋でたまたま見つけたんだけど、相当くだらなくて笑った。
買うほどのものじゃないような気もするけど、
出張行く時の新幹線で読むにはちょうどいいんじゃないか。

○○さんの猫って話を聞いた。
○○にはとても有名な量子力学者の名前が入るのだが、忘れた。

完全防音の、しかも外から中が見えない箱に猫を入れる。
その箱にはボタンが二つついている。
どちらかのボタンを押すと箱の中で毒ガスが噴射され、猫は死ぬ。
しかしもう一方のボタンを押すと何も起こらず、猫は死なない。
もちろんどちらのボタンが毒ガスのボタンなのかは分からない。

では、押してみましょう。

ぽち


はい、いま、この状態では、
中の猫が生きているのか、死んでいるのか分かりません。
ある量子力学の分野では、この様な状態の事を、
「猫は二分の一、死んでいる」と表す。

なんとも不可解な響きではないか。
「お前は既に死んでいる」ってくらい不可解な響き。
人間的な感情を一切排除した響きがしますね。

これも前に、いつかの日記に書いたんだけど、
インドのどっかの哲学では、“~が無い”って観念が無くって、
“無がある”って言うらしいからね。
なんとも面白い。

いや、表現の話なんですけどね。
なんか言いようによっては同じこと伝えるのにも
ありとあらゆる表現があるわけで。
一つのこというのにも変えようと思えば
どんなニュアンスをもそこに付け加える事ができるわけなんです。

エジソンは天才のことを、
「99パーセントの努力と、1パーセントの才能」
なんて言葉は使っていない。

実際は、
「99パーセントの発汗と1パーセントの閃き」
でしょ。

前者は単純に訳者の表現。
まあ、それを言ったらそもそも言語体系が全く違う言語同士で翻訳してるんだから、全く同一の表現なんてできるわけないんだけど。

洋楽の歌詞見てみると笑っちゃうよね、なんか。
なんで洋楽の帯についてる表現って、
「~なのさ」とか
「~だぜ」
みたいなのが多いのかね。
レディへのcreepとか訳まちがっとると思うよ。
ケミスツのCDについてた帯も笑った。

さっきのエジソンに戻るけど、
「この実験は失敗だ」って表現するのと、
「この材料ややり方では電気はつかないことが分かった」
って表現するかは好きにしていただいたらいいと思うんだけど、

俺は適切な表現を使える人間にならなくてはいけないみたい。

仕事で適切な表現を求められてるから。
内容面や難しいことを突っこんでもしょうがないんだけど、
表現のしかたは編集者だったら、
常にその文章に適切な表現を
つかっていかなければならないなと思ったんです。

何よりイイ表現使う人の文章は読んでておもしろいじゃん。
どうやったらなれるのか知らないけど。

で、読み返したら俺の今日の日記がマジでクソだったから、
どうしたもんかと。

とにかく、眠くなっていたので、纏めると、
俺は明日早起きするんだ。


編集者として

2009-05-28 21:59:04 | 
ちゃお。
どうもどうもどうも。久しぶり、でもないか。

最近はアタマの中がマジでエクセル。
いきなり意味不明なことを言って申し訳ない。


用字用語の統一という相当にめんどくさい作業をやってるんですけど、
編者と著者が別の時って、
基本的に編者に用字用語を統一するんだ。

今回、編著者一人、
著者10人という構成だから、
基本的に編者の表記に他の10人を統一しなきゃならない。

これが思った以上に大変なんです。


例えば、

編者が「さらに」って書いてあったら、
他の10人が「更に」って書いてあってもひらくし、
他の10人が「とくに」って書いたあっても、
編者が「特に」って書いてあったら漢字にする。

「子ども」にするのか「児童」にするのか
「新学習指導要領」にするのか「平成20年版学習指導要領」にするのか
「平成20年」にするのか「2008年」にするのか、
「二十五」にするのか「ニ五」にするのか。
「教科書」と「教科用図書」
「OECD」ってかくか「経済協力開発機構」って書くか。
この辺の単語は解り易いからいいんだけど、

「捉える」と「とらえる」
「気づく」と「気付く」
「解ると」と「分かる」と「判る」
「生かす」と「活かす」

挙げてったらきり無いんですけど。


で、一見、エクセルに落としてけば、
簡単に思うじゃん。
俺もそう思ってた。
コントロール+Fで検索できるしね。
あ、どっちだったけ、と思ったら検索すればいいじゃん、と。

実際はそんな簡単じゃなかった。

何が一番の問題なのかと言うと、
そもそもその字が、
検索を掛けるかどうかに値するのかどうかを
覚えていなきゃいけないってこと。

どういうことかというと、
文中に、普通に漢字で様々って書いたって、
そのときは普通に読み進んでいって、
100ページ後に出てきた時に、
あ、前に「さまざま」は漢字で書いてあったな、
ってのを覚えていなきゃならないわけよ。

だからその言葉がどっちだったけ?
というレベルじゃなくて、
前にさまざまは漢字ででてきたないうことを覚えていながら
文を読み進めていかなければならないってこと。

まあ、もちろん一周で全用字用語統一なんてできるわけ無いんだけど。

200個くらいあるし。

でも慣れてくると凄いもんで、
その200個を常に頭の中で検索かけながら
文章を読めるようになるんです。

解りやすく言うと、
一つの単語を文章中から探すって言われたら、
その単語を見つけるために検索かけながらよむじゃん。

それを200個の単語に対して一斉にやるって事。

気分は既にクイズ番組。

ず~~~~~と原稿読んでて、


ピンポーン!
ハイきたーーー!
にやけながら赤ペンを取り出す。

みたいな事をアタマの中でやってる訳です。

知恵熱がでます。
文書読むのってあんなにも疲れるんですね。
もしかしたら最近ムシムシしてきただけかも知れんけど。

皆さんも本を書くとき、
論文を執筆する時は、
用字用語は全て統一させましょう。

するとなんとも完成度が高く見えますから。
内容はともかくとして。
少なくとも編集者には最高の文章ですから。



おしまい。


Mechanical Animal

2009-03-26 00:02:54 | 
仕事中に一人で泣きそうになってた今日。

また、いつもの著作権申請で、
前は印税報告書の作成って言う業務の次に嫌いだった。

けど、最近は楽しい。
コネが広がってくし、
何より本に詳しくなる。
純粋に。

今日、とある小中学校の国語科教師向けの教育書の
転載をしなくてはいけなかったんだけど。

で、その作品の中の一つに、
『かわいそうな象』って作品があって。

もちろん幼い頃に読んだ事あるし、
知ってる話なんだけど、
内容も覚えてはいるんだけど、

今、じっくりと読むとね、
泣けるよ。

今日読んだのは絵本なんだけど、

毒を入れた餌をあげても象たちは吐き出してしまう。
本能でわかるんでしょうか。

餓死寸前の象たちが
餌を貰うため必死に芸とかしているとことか、
本当にやばい。

転載の申請中に一人でゲラ見ながら、
涙ぐんでる奴がいたら回りは不審に思うな。

ってことで近々、上野動物園にいってきます。
戦争が終わったのってたかだか60年前だもんな。

今はそんな悲しい歴史の痕跡は、
何も残ってないだろうけど。

あ、動物で思い出した。
ロンサム・ジョージって知ってます?

てかガラパゴスゾウガメって知ってます?

ってかガラパゴス諸島は知ってると思う。
世界自然遺産で超有名。

そこにいるゾウガメの一種です。

その中の、
亜種ピンタゾウガメってのに凄い悲しい、
切ないストーリーがあるんです。

ピンタゾウガメは長らく絶滅したと思われていたが、
1971年に再発見され、ジョージと名づけられ、
現在はチャールズ・ダーウィン研究所で飼育されている。
事実上最後の一頭であり、ロンサム・ジョージと呼ばれている。
(またウィキぺディァから引っ張ってきた、めんどくさいから)

何が凄いって、
そいつが最後の一匹なんだよ。

絶滅種の最後の一匹。

世界で存在しうる最後の一匹。

コレは凄くないですか。
切ないくもあり、儚くもあり、悲しくもある。

コイツが発見されるまで、
コイツはずっと一人だったらしい。
だから、ロンサムって言われてるんだそう。

つまりは最後から二匹目が死んじゃってから、
コイツは地球上で種の最後の一匹として、
ずっと生きてきたってことだ。

しかもゾウガメの寿命は人間より長いので、
年数も人間に換算していただいて、問題ない。

もちろん、彼はそんな事実を知る由もないだろうが、
客観的に見るとそれは果てしなく悲しいことであると思う。

地球上で仲間が死滅した中、
たった一人で生きてきた事実を知らなくてよかったと思う。



おしまい。



MW

2009-03-21 00:51:25 | 


今日ジュンク堂にいったんですけど。

俺の担当している雑誌が平積みにされてまして。
何か非常に嬉しくなってしまいまして。

そこら辺の人手当たり次第に、
これ俺がつくったんですよ!
って言いたくなってしまいました。

まあ、一番高く積まれていたので、
つまりは一番売れてないってことなのか…

まあ、俺のせいじゃねえな。

あー早く単行本が世に出ないかな。



手塚治虫の『MW』という作品をご存知でしょうか。

『MW』と書いて“ムウ”と読む。


この作品は手塚治虫の作品の中で、
最高の問題作であると言われている。

ウィキペディアによると、
本作は生々しい性描写や猟奇的殺人場面が描かれており、
子供の目にさらすことのできない手塚作品の一つといってよい。
タイトルであり作中の化学兵器の名でもあるMWとは、
結城が犯行の際に得意の女装や男娼的行為をすることに
関連づけられているといわれている(Man/Woman)。

で、もちろん読んでみたんですけど。

そんなに言うほどグロくはない。
残酷描写も想像してた程ではなかった。
残酷描写ならばサイコとかのほうがよっぽどグロい。


てか、手塚治虫の書いた漫画だ。
絵が絵だからな。
あの絵でグロくするほうが難しい。

まあ、人間的にどうなのってか、
タブーに触れている感の強い作品だとは思います。



最後に、
暇な人は、

“レンソイス”ってグーグル画像検索してみ。

この世のものとは思えない光景が出てくるから。

こんな光景が地球上にあったなんてビックリだ。
はじめて見た時は衝撃的でした。

あ、グロいとかそういうんじゃ無いんで。
安心してください。



で、今回の写真はどこでしょう?


拝啓 重松清様

2009-01-20 22:31:56 | 
拝啓
ますますご清祥の事とお喜び申し上げます。


唐突に申し上げますが、
私は先生の作品が好きなのです。

この度偶然にもこの様な機会がありましたものですから、
この様な失礼な手紙を差し上げてしまった次第でございます。

私が大学二年の時、
先生の著作『疾走』に出会いました。

その時の衝撃は忘れられません。
素直になぜこの様な物語を書くことができるのだろう。
そう思いました。

それからというもの、
先生の著作を読み漁りました。
特に教育という分野に非常に関心があったものですから、
今の自分は先生の作品に多大なる影響を
受けている事は間違いありません。

先生の作品で『きよしこ』と題されたものがございます。
実は私も吃音でして、
吃音の同じ苦しみ、不便さがまるで自分のことのように
書き記されていて感動したものでした。

もしかしたら私が今この仕事をしているのも、
先生の作品に出会ったからなのかもしれません。
つまりは先生の作品をもし知らなければ、
ここまで本というものに対し関心を持つ事もなかったかもしれません。

そしてもし知らなかったのなら、
このような機会もきっとなかったでしょうし、
私がこのように先生に対して
手紙を書くなどということもなかったでしょう。

先生の作品に多大に影響された、
いち読者として、失礼とは知りつつも今回、
この様な手紙を出さずにはいられませんでした。

一方的ではありますが、
私の気持ちを伝えられるこの様な機会がありましたことに
感謝しています。

最後になりますが、
先生の更なるご活躍を心より願っております。


草々





2008-12-17 23:31:09 | 
先週の日曜日に、
印刷博物館と言うものに行って来た。

要するに世界中のかっちょいい(死語)
本のデザインを見ることが出来るグランプリ。

江戸川橋。
何にもありゃしねぇ。

喫茶店一つ見つけるのに30分かかる。

大学のコモンスペースに広告が貼ってあって、
前から行きたいなあと思っていたので、
いい機会だからと行ってきたわけです。

今やってることと非常に通じる部分が多いんじゃなかろうかと。
あわよくばデザインの一つや二つぱくってやろうかと。

○○で最も美しい本グランプリ見たいなコーナーがあって。

やっぱヨーロッパのデザインはヤバイ。
何なんだろう、あの美しさ。
特にスイスとか、
北欧系の書籍のデザインはヤバイ。
ホントに芸術品の域に達している。

イギリスもちょっとロックを感じるような匂いがして好きだ。
美しいものよりも、
発想が斬新なデザインも多くある。

ぱっくてやろうとか、
勉強させていただきます、とか
そんな次元じゃないよ。
本場のデザイナー様様は。

俺には一生かかってもあんなかっこいいのは作れないだろうな。


もう俺にはデザイナーとしての才能は皆無だ。

やればやるほどに気付いてきた。
まあ、それでも自分でよく頑張ってるほうじゃないかと、
今日新潮文庫のデザインを見て思ったが。
(文庫本相手に何を言ってんだ)

ああ、昨日書いた本は読破しました。

もっとグロいというか
猟奇的なものを想像してましたが。
タイトルがそんな雰囲気だったもんで。

結構あっさりとしていた。
読みやすかった。

『希望の鐘が鳴り響き
僕はただ悲しいふりをする』

これはブランキーのアルバムですね。

本は安上がりだ。
そのくせ楽しめる時間が長いと思う。
私は小説ばっか読んでますが。

ブックオフに行けば
文庫本なら高くても500円以内でかえる。
105円なんてのも平気である。
著者泣くぞ、マジ。


俺は本を読むのが好きなんですけど、
嫌いな人も結構いるみたいで。

またプロレスの時のように考えてみた。


①本を読むのがだるい

→本も読めないようなお前の存在がが既にだるい。
 

②時間がない。
 
→1日10分でも読めば進んでいく。
 本気でそんな言い訳が通用すると思ってるあたり気が知れない。
 

③時間がかかる

→たかが読書の時間でどうこうってほど
 お前の人生は大したもんじゃないから、安心しろ。



③読書ってなんか暗いイメージ

→大丈夫だ、お前の人生のほうがお先真っ暗だから。


④本なんか読んでるより他に
 楽しいことがある。

→まあ、これはそうでしょうね。 

だから要するに本読んでる人はなんか面白いのあったら
教えてくださいねって話。

 
 



どうかKappaと発音してください

2008-11-03 23:32:52 | 
今日は何の日。
文化の日。

という事で、何か文化っぽい事をしたくなったわけじゃないけど、
文化的なことをしてみた。

ああ、よく間違えられるんですけど、
俺は決して厭世主義者ではないので。
むしろ逆で夢と希望に満ち溢れていると思いますよ。

何したのかというと、
ただ、小説を買って読んだんですけど。

芥川龍之介の。

俺が今まで、読んだ事あるのは、
『蜘蛛の糸』と
『羅生門』だけだった。

『蜘蛛の糸』は多分幼稚園くらいの時。
なんか絵本みたいな感じだった記憶がある。

『羅生門』は中学の時の国語の授業で。

興味は余りなかったんだが、
まあ、とあるきっかけで読んでみる事になったんですけど。

まだ、全編読んでなくて、
読んだのは『河童』ってやつだけ。

どうですか、このなめたタイトル。
『河童』ですよ。
しかもご丁寧に“どうかKappaと発音してください”
と書いてあるし。

どうかと嘆願されずともKappaと発音する気満々だ。

で、感想を書くと…

一言で書くと、

サイコ。

恐いくらい気が違ってます。

まあ、とても面白かったんで、
なんでもっと俺は早く彼の作品に出会ってなかったんだろうと
後悔もしましたけど。

なんつうか、
かの有名なキチガ×小説、
夢野久作の『ドグラ・マグラ』を彷彿とさせる精神異常っぷり。

彼が
「唯ぼんやりとした不安」に駆られて
自殺する直前に書かれた物だからってのもあるでしょうけど。

ここまで、キテるとは思わなかったよ。

後味は悪いです。

芥川の河童は日本の文学界でも有名な作品である。
おそらく多くの人はこの作品が
“名作”として扱われるなら、
文学界のセンスを疑うのではないか。

全くもってお勧めはしません。
俺は大好きだけど。あああいうの。
夜にも奇妙な物語になりそうなオチもまたよし。

もっと寺山修司が好きそうな
アンダーグラウンドなにほいがぷんぷんする作品だと思いました。


話は変わって、質問。

ミクシーのコメントに返事をする時あるじゃないですか。

あれってまとめて返すのは失礼なんでしょうか。

よく、一人一人に対して、一回のコメントで返信してる人を見るので。

てか、アレすげえめんどくさいよね。
俺にはあんなめんどくさい事出来ないと思いますけど。

ちょっと気になったんでね。