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ご来光の原点は修験道 ~仏教宗派の個性(5):美術鑑賞用語のおはなし

2018年05月25日 | 美術鑑賞用語のおはなし



修験道(しゅげんどう)は、山岳信仰と仏教が融合した宗派です。奥深く険しい霊山を駆け抜ける厳しい修行を特徴とします。修行者は、修験者(しゅげんじゃ)や山伏(やまぶし)と呼ばれ、その姿はよく知られています。神仏習合を象徴する宗派でもあります。

【聖護院公式サイトの画像】 山伏

山岳信仰は海外でも見られますが、ほとんどは信仰の対象となる山への登山をしません。日本の山岳信仰は逆に、信仰の対象となる山への登山を行うことが世界的に稀有です。霊山の山頂から見る日の出を「ご来光」として尊ぶのはとても珍しいのです。

宗派としては、飛鳥時代に役小角(えんのおづの、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる)が創始したとされますが、実在の人物かどうかは疑問視されています。盛んに信仰されるようになったのは平安時代からです。

山岳信仰を基本としているため、日本全国の霊山で信仰が見られます。熊野三山と吉野・大峰山を筆頭に、白山・富士山・出羽三山・英彦山など日本全国に渡ります。土着の信仰として、多くの地では永らく宗派という概念はありませんでした。


熊野古道の面影を色濃く残す熊野那智大社「大門坂」

平安時代の1090(寛治4)年に白河上皇が熊野詣をした際に、園城寺の僧で聖護院の開祖・増誉(ぞうよ)が熊野三山を統括する職である検校(けんぎょう)に任命されます。以来、天台宗寺門派が熊野三山での修験道への影響力を強めます。聖護院がその中心となり、本山派(ほんざんは)と呼ばれるようになります。


大峰山への入口に立つ金峯神社

畿内での修験道のもう一つの拠点である吉野・大峰山は、醍醐寺の開祖・聖宝(しょうぼう)が894(寛平6)年に中心となる金峯山寺(きんぷせんじ)を中興しました。心理的に真言宗に近く、当山派(とうざんは)と呼ばれるようになります。当山派は安土桃山時代までは醍醐寺の影響下にはなく、吉野の金峯山寺を中心に独自の活動を行っていました。

吉野・大峰と熊野を駆け抜ける修行の道は、大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)と呼ばれ、世界遺産になっています。中世には、熊野から吉野へ向かう方法を順峯(じゅんぷ)と呼び、主に本山派が用いました。一方吉野から熊野へ向かう方法を逆峯(ぎゃくふ)と呼び、主に当山派が用いました。

時代が下るにつれ、両派には少しずつボタンの掛け違いが目立つようになります。江戸時代の初め、トラブルが深刻になったことを憂いた金峯山寺が、時の政界に顔が利いた醍醐寺・三宝院の義演(ぎえん)を頼ります。

義演から幕府に働きかけがあり、1613(慶長18)年に幕府の裁定で両派間のルールが定められます。同時に全国の修験道が両派のいずれかに所属することも定められます。この裁定は当山派に有利でしたが、一方で本山である金峯山寺が本山派に属すことになります。以降、当山派は真言宗の影響下に入り、醍醐寺・三宝院を本山とします。

明治新政府によって修験道が禁止されると、本山派・当山派は天台宗・真言宗の寺院となります。修験道の宗派として独立するのは第二次大戦後です。

宗旨 宗派 本山 所在地 本尊 住職名

天台宗
から
【独立】

本山修験宗 聖護院 京都市左京区 不動明王 門主(もんしゅ)
金峯山修験本宗 金峯山寺 奈良県吉野町 蔵王権現 長臈(ちょうろう)
羽黒山修験本宗 荒沢寺 山形県鶴岡市 大日如来・阿弥陀如来・観音菩薩 住職(じゅうしょく)


旧本山派は、京都の聖護院を総本山に本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)を名乗ります。江戸時代に本山派となった金峯山寺は、金峯山修験本宗(きんぷせんしゅげんほんしゅう)として旧本山派とは別の道を歩みます。羽黒山修験本宗(はぐろさんしゅげんほんしゅう)は、出羽三山の一つ・羽黒山の荒沢寺を総本山に独立しました。

旧当山派は独立せず、現在も醍醐寺・三宝院に属しています。

【Wikipediaへのリンク】 修験道
【Wikipediaへのリンク】 本山派
【Wikipediaへのリンク】 当山派


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