「時代を変えた国学者」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・
近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田春満、賀茂真淵を経て本居宣長に至って大成したと言われるが、平田篤胤以降の幕末国学もこの流れの中にある。国学をどのように定義するかについて「道統」をどのようにとらえるかによっても異なる。既に近世にも宣長没後門人などの間では、歌学派と古道派の間に争いが見られ、近代以降になっても国学を文献学とみなす村岡典嗣、久松潜一らの立場の間に見解の相違があった。いずれにせよ、その大成者と言われる宣長の学問内に、古典に対する文献考証学的価値と復興主義的古道論の二側面をとらえ、どちらが本質か依っては学者の眼差しは分岐点来たと言っても良い。趨勢的には、戦前は国体論と結びつけて来たのに対して、戦後はその考証学的側面を近代的なものと評価する傾向がある。そうした眼差しの相違にも関わらず、今なお近代の国文学、国語学などの淵源として国学をとらえる見方は大形で一致している。しかし、それは逆に近代国文学などの学知が、繰り返し国学を淵源として「再生」させてきたことによるもので、その系譜自体を疑問視する子安宣邦らの研究もある。国学が成立以前は古典研究・歌学研究は秘事口伝、古今伝授として相承されてきたが、これも疑義を呈した先駆者としては戸田茂睡、下河辺長流などが知られる。元禄初期の大坂妙法寺の僧、契沖はそのうえに書誌研究や言語的研究といった文献的方法に研究を加えて、国学者の先駆者としての位置づけている。
「新選組の佐幕の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・
幕末・維新期に佐幕浪士隊。新選組とも書く、幕府は浪士取り締まりに武芸上達の者を取りたてて浪士組を編成し、文久3年(1863)2月、将軍徳川家茂の警護を名目として上洛させた。その際の指導者清河八郎(幕末末期の攘夷運動家。本名は斎藤元司。出羽国田川郡清川村の豪農の、名主斎藤治兵衛の長男。弘化4年(1847)江戸に出て古学の東条一堂に入門。嘉永4年(1851)北辰一刀流の千葉周作に入門し、神田美川町で文芸塾を開き、近藤らと出会い、新選組に合流することになるが、考えが違った)清河八郎は国事掛に出入りし攘夷実行すべきとめざし動き始めたため、同年3月に江戸に呼び戻された。この時、京都に残留した芹沢、近藤勇・土方歳三らは、京都守護職松平容保の支配下に属し、京都近郊の壬生村に屯所を置いて新選組と名乗った。将軍身辺の警固から京都治安維持にあたり、尊王攘夷派志士の弾圧に努め、壬生浪人として恐れられた。無謀は行いが多かった初代局長芹沢鴨を斬殺したのち、新選組の実権は局長近藤勇、副長土方歳三らが握った。元治元年(1864)6月、池田屋事件、7月の蛤門の変における活動を頂点とし、その後も尊王攘夷派浪士を取り締まりにあたる。慶応4年(1868)正月鳥羽伏見の戦いには幕府軍に加わって敗れ、江戸に帰る。同年3月改めて近藤勇は甲陽鎮撫隊を編成し、甲斐国勝沼まで出兵して官軍と抗戦するが敗退、ここで実質的解隊に追い込まれる。その後近藤は下総流山で捕らえられる。、江戸板橋で処刑され、土方は翌年に箱館五稜郭で戦死した。
「歴史の回想・越後騒動」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
越後国高田藩で、藩士が二派に分かれて争った御家騒動。1665年(寛文5)の大地震後、藩財政窮迫打開のために家老小栗美作は諸施策を進め成果をあげたが、同時に小栗と配下吏僚に権力が集中し譜代藩士大多数が反感を持った。1679年(延宝7)正月、藩主松平光長の異母妹を妻とする小栗の子、大六を藩主とする陰謀が露見したとして騒動が始まる。幕府は美作を引退させ家老たちが合議制をとるべき調停を命じたが、反対派は納得せず誓紙を集めて一層団結した。大老酒井忠清は、藩主の弟氷見大蔵家老荻田主馬ら反対派を処罰し各藩に預けた。反対派は承服せず、多数が浪人した。農民は度々巡検使に小栗に悪性を訴えた。幕府は両派首脳を再度取り調べ、結局将軍綱吉の親裁により、1681年(延宝9)6月小栗美作・大六は切腹、氷見・荻田ら八丈島へ、ほかにも流罪やお預けとなり、藩主光長は改易となった。藩主美作父子を重用しすぎ、譜代家臣統率を怠ったことが、騒動の要因である。農民層の動きは複雑で、藩主光長が1687年(貞享4)許されて江戸に帰ると、大肝煎りのなかに祝賀の挨拶に赴いたのが多数あった。
「古事記紡ぐ一宮の神々」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。
特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。
また古くより先住し、御神体が山々に磐座に鎮座する崇敬の信仰、氏族の祖神を祀る古代の豪族の神社など、地域に根付いた崇敬の神々が存在した。
六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、崇敬、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。
本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。
天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は、一つの流れは大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、二つ目の流れは大和から能登、越中、越後へ、三つ目の流れは大和から丹波、出雲、への流れがあるようだ。
大和国一ノ宮は大神神社の祭神大物主神は大国主神と同一神とされる神で、天孫降臨の子々孫々は大和国から国津神を一掃できなかった。
大和を拠点の天孫も天武朝の少し前の五世紀から六世紀に伊勢に鎮座を見た。住氏族、部族、豪族の祖神、氏神が諸国多く見られ、潮流によって北上し漂着、土着し祖神を祀った。
地主神としてその地域の神として鎮座、君臨する神など居たと思われる。
一早く天孫の軍神となった四道将軍も派遣され、その地で土着し氏族の祖神となる場合など元来の地主神と融和をした。
渡来系の神々に、日本人の起源を考えてきた場合、縄文時代後期から弥生時代にかけて七倍ほどの人口増と周辺諸国からの流入が考えられる。
先住氏族と征服氏族らの天津神系も多種多様に戦いと融和を重ねながら、包み込み生み出されていった「八百万の神々」なのである。
平安時代から鎌倉時代にかけ、形成されていった一ノ宮は諸国の神社に熾烈な争いを巻き起こし、神仏習合と相成って明治の神仏分離令まで変遷を繰り返した。
今尚残る全国の地名に一ノ宮は往時の一ノ宮への威信かけた軌跡である。
「朝倉義景の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
朝倉義景(1533年~1573年)越前の戦国大名、朝倉氏5代当主。孝景の長男、1548年(天文17年)に家督を継ぐ。延景と称したが、1552年に将軍足利義輝の一字を受けて改名。左衛門督。加賀一向一揆を攻撃してい、若狭の武田氏に支援の派兵している。他方では1561年(永禄4)に武威を誇示する大掛かりな犬追い物を催し、翌年には一乗谷に下向した元関白近衛尚通の子で大覚寺義俊を招いて曲水宴を開くなど、華美で文人風の儀礼を好んだ。1568年、前年に義景を頼って下向した足利義秋(義昭)の元服の役を務めている。この頃から本願寺とは和睦して織田信長と対立し、1573年(天正元)8月に近江で信長軍の追撃を受けて、越前大野に落ち延びたが、同月20日に自刃した。
「長州下関戦争の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・
下関戦争は「四国連合艦隊下関砲撃事件」という。元治元年(1854)アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四か国艦隊による下関砲撃事件。下関事件。四か国連合艦隊が長州藩軍を破った事件。下関戦争、馬関戦争ともいう。前年(文久三年)5月10日、長州藩は下関海峡において攘夷を決行し、アメリカ商戦を砲撃、ついにフランス艦、オランダ艦を砲撃した。これに対して、6月1日からアメリカ、ついでフランスが下関を報復攻撃をした。さらに攘夷の急先鋒長州藩に打撃を与えておくことによる政治的効果を狙って、イギリス公使オールコックは列国の代表と協力体制を樹立した。また、太平天国の乱に鎮圧することにより、中国にいた極東イギリス軍の動員が可能になり、これを横浜に集結させた。1864年7月、イギリス9、フランス3、オランダ4、アメリカ1の総計17隻、兵員5000人の四国連合艦隊横浜を出港した。8月5日、下関への砲撃を開始し、陸戦隊が上陸し長州軍を打ち破り、砲台を破壊、大砲の奪取を徹底的に行った。聴衆は休戦を申し入れ、8月14日、下関海峡の航行の保障や賠償金の支払い等が締結した。なお賠償金300万ドルは、前年の攘夷は幕府の命令によるものと長州藩が主張し、列国もそれを認めて幕府が肩代わりして支払うことになった。幕府が150万ドルを支払った段階で討幕で、残りが明治政府が引き継がれることになった。
「生麦事件・薩英戦争」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・
幕末の外国人殺人事件。文久2年(1862)9月14日、当日、街道に出ることを控えることとした幕府の通告を知らずに馬で遠乗りに出かけたイギリス人4人が、神奈川県近郊の生麦村で、勅使大使大原重徳を擁して幕政改革を朝命を伝達して京都に帰る途中島津久光の行列と遭遇。行列を乱したとして奈良原喜左衛門ら薩摩藩士により上海商人リチャードソンが殺害され、貿易商人マーシャルとハード商会のクラークが負傷、ボロデール夫人は難を逃れた。事件を知った横浜居留民団は激高し、報復を要求をしたが、イギリス代理公使ニールは冷静に対処し即時交戦を回避。翌年4月に、幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(焼く40万ドル)、第二次東禅寺事件の賠償金と合わせ11万ポンドを要求、幕府は賠償金支払い、7月3日に解決を見た。薩摩藩には犯人の処罰と貴族負傷者への慰謝料2万5000ポンドを要求、幕府は賠償金を支払い、7月3日に解決を見た。薩摩藩には藩に処罰と遺族・負傷者への慰謝料2万5000ポンドを要求しクーパー司令官指揮の下イギリス艦隊7隻が鹿児島に遠征し交渉したが決裂、8月15日16日、薩英戦争を引き起こした。
薩英戦争、生麦事件に端を発した翌1863年6月27日イギリス東洋艦隊司令長官ALキューパーは7隻で鹿児島湾に侵入、翌日犯人処刑と前記償金の支払いを求めた。しかし交渉は進展せず、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸など3隻wp拿捕した。薩摩藩の天保山砲台はじめ各砲台も発砲、旗艦ユーリアラス号では艦長ジョスルング大佐、副長、水兵名が戦死し、6名が負傷した。旗艦の弾薬庫前に幕府償金の箱が積まれていたので、砲撃が2時間も遅れたという。翌3日も小戦闘が続いたが、4日に至りイギリス艦隊は、食料、弾薬、石炭が欠乏し、船体朱里のために退去、横浜に帰った。イギリス艦隊の旧式方の4倍の所定距離を持ち、集成館、鋳造所や城下町の一割を焼亡させた。死傷者は、イギリス側の戦士13名、負傷50名に及んだが、薩摩藩側は戦死5名、負傷十数人にすぎなかった。しかし薩摩藩側ではイギリス海軍の威力を認識し、無謀な攘夷を反省する機運が生まれた。講和は、薩摩藩が大久保利通、重野らを交渉委員に立て、償金を幕府立て替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入の斡旋することなどの条件で成約した。以降、薩英関係が急速に緊密になっていった。
「豊臣秀頼の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
豊臣秀次(1568年~1595年)安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の甥。通称孫七郎。父は三好吉房、母は秀吉の母の姉。1584年(天正12)小牧・長久手の戦に出陣し、敗れて有力家臣を失い、秀吉に叱咤された。しかし、翌年秀吉から近江に43万石の領知と山内一豊以下4名の宿老を付与され、八幡山に城を築いた。1590年秀吉の東国平定に際しては尾張清洲城に入り、宿老たちは東海道の要所に進出、豊臣政権の対東国最前線に配置された。実子に恵まれなかった秀吉が関白になると、羽柴秀長らとともに昇殿、1586年の右近衛中将から中納言、内大臣、左大臣と昇進。1591年には関白職を譲られ、後継者の地位についた。1593年(文禄2)秀頼が生まれると、実情は一変し、太閤として実権を握る秀吉と関白秀次権力との間に矛盾が表面化し、尾張の蔵入り地に太閤奉行衆の介入を受けるに至った。秀次に日本国の五分の四を与えるとか、秀次の娘と婚約など秀吉側から提案されたが、実現しないまま、1595年7月に謀反の罪で高野山に追放され、切腹させられた。妻子妾子女30余名も三条河原で悉く斬られた。秀次は調停に書籍を献上し、能の謠本百番の注釈など、作らせるなど、伝統文化の保存と継承した貢献した側面があった。正親町上皇の諒闇中に狩猟を行う軽率な性格があり、こうした結果を招いたといわれている。
「武田信玄の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
武田信玄(1521年1573年)甲斐の戦国大名。武田信虎の長男。通称は太郎。名は将軍足利義晴の偏諱をうけて武田晴信、出家して信玄と号した。官途受領は、大膳大夫、信濃守。はじめ扇谷上杉朝興の女としたが早世したため、1536年(天文5)京都の公家三条公頼の女を性質に迎えた。1541年6月、父武田信虎が今が義元に嫁いだ自分の女に会いに行ったとき、甲斐・駿河の国境を閉鎖し父を追放自ら武田氏を継いだ。その翌年には信濃を侵略して諏訪頼重を攻め、偽って講和したうえで頼重を殺害した。その後、頼重の女を側室に迎え、この側室との間に後に家督を継ぐ武田勝頼が生まれている。1547年「甲州法度之次第」26か条を制定して領国支配の規範としたが翌年2月14日、信濃上田原戦いで村上義清と戦って敗れ、かつて、同じ年、塩尻峠・勝弦峠の戦で小笠原長時を破り、信濃進出を確実なものにした。越後の上杉謙信とは前後5回戦い、同時に背後の安全を保つため、相模の北条氏康と同盟を結び、女を氏康に嫁がせている。1561年(永禄4)の第4次川中島の戦が、5回の中で一番厳しい戦いとなり、信玄の弟信繁が討ち死に。そのあと、信玄は「北進策」をあきらめ「南進策」転じ、駿河の今中氏真を攻略、その過程で、氏真の妹をめとっていた嫡男義信を自刃に追い込んだ。1568年、駿河を奪取、ついて遠江に進出して徳川家康と敵対する石山本願寺と結んで天下統一を進める信長に対する包囲網を強めていった。1572年(元亀元)2万5000の大軍を率いて遠江に侵入三方ヶ原で家康を破り、さらに西に進んで病が悪化し、翌年甲斐に兵を戻す途中、信濃の駒場で没した。死因はこれまでは労咳、すなわち肺炎(結核)とされてきたが、最近の研究では胃がんとする説が有力である。
「細川忠興の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
細川忠興(1563年~1645年)安土桃山時代から江戸時代の初期。初代小倉城主。細川藤孝(優斎)の長子。足利義輝の命により細川輝経の養子になる。幼名熊千代のち与一郎。織田信長の雑賀一揆討伐が初陣。信長の嫡子信忠より一字を与えられ忠興と名乗った。明智光秀の娘玉子を妻に迎え、1580年(天正8)重なる軍功で丹後半島12万石を与えらえた。11582年本能寺の変に際し光秀に誘われたがくもせず、秀吉についた。1585年羽柴の姓を許され、1592年(文禄元)朝鮮に出陣、1596年(慶長元)参議従三位に昇進し越中守になる。秀吉の死後徳川家康に属し、1600年三男忠利を人質に江戸に送った。同年関ヶ原の功により豊前一国、豊後のうち国東・速見2群30万石に封じられて中津城に入り、1602年小倉城に移った。1615年(元和元)大坂の陣の出陣、羽柴姓から細川姓に復した三斎宗立と号し中津城に移った。1632年(寛永9)忠利の肥後熊本城に転封により四男細川立充を伴って八代城に入り隠居領3万石をもった。立充の子行孝は忠興の死後翌年支藩宇土藩を創設して忠興の遺領を伝えた。秀吉の下では武将派に上げらえたが、茶の湯、和歌、有職故実に通じた文化人であった。
「松永久秀の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
松永久秀(1510年~1577年)戦国時代・安土桃山時代の武将。弾正忠。山城守。出身地につては阿波、山城、摂津など諸説がある。三好長慶の家臣で、はじめ摂津滝山城(神戸市)の城主として、摂津西半国から播磨東端で活動する。1559年(永禄2)には大和信貴山城に入り、大和国を勢力下に入れた。1560年には多聞山城を築城。長慶没後は三好三人衆と協力して、1565年に将軍足利義輝を暗殺。長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。やがて三人衆との戦闘で奈良東大寺の大仏殿を焼失させた。1568年の織田信長上洛にあたっていつ早く信長方に帰参し、大和支配を認められた。1571年(天正5)再び信長に背いたが赦免され、1577年(天正5)再び信長に反旗を翻して信貴山城の籠城するものの敗北。10月10日、名器茶釜「平蜘蛛」ともに焼死した。
「歴史の回想・平治の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
平治の乱(1159年平治元)に京都に起こった争乱。後白河天皇藤原通憲(信西)は保元の乱後の朝廷を主導し、保元新制発布、記録書設置、大内裏復興など、目覚ましい活躍をした。しかし、1158年(保元3)に後白河天皇の子二条天皇に譲位すると、院の寵愛を受けた藤原信頼、二条天皇親政を目指す藤原経宗らによって反信西派が形成されていった。一方、保元の乱の後白河天皇も武力中心であった平清盛と源義朝と義朝の間に確執が生じていた。1159年12月4日に清盛が熊野詣に出立すると、信頼・義朝は9日夜半に内裏、院御所派の協力のもとに院と天皇を幽閉した。脱出した信西は宇治田原の山中に自害し、その首は京都で獄門にかけられた。急遽帰京して、16日の夜半六波羅邸に入った清盛は、信頼に名簿を提出して恭順の意を表したが、天皇側近の経宗・惟方と密かに結んで、天皇と上皇の脱出工作に成功、両人を六波羅に遷御させた。これによって形成は逆転、追討の宣旨が報じた清盛は、信頼・義朝の軍勢と戦い勝利を収めた。捕らえられた信頼は27日に六条河原で処刑され、義朝も東国に逃れる途中、尾張国の内海で永田忠致の謀殺された。義朝の三男頼朝は清盛の継母池禅尼の口添えにで一命を助られた。伊豆国に流された。この戦乱で、京都は源頼政を除き清和源氏の武力は一掃され、朝廷の軍制において、清盛の軍事力が果たす位置が圧倒的に大きなものになり、平氏の朝廷における勢力伸張の契機となった。
「浅井長政の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
浅井長政(1545年~1573年)北近江の戦国大名。足久政の子。名ははじめ賢政。備前守を称す。南近江の戦国大名六角氏の重臣平井定武の娘と結婚したが、六角の下に立つことを嫌って離縁して、1560年(永禄3)の野良田表の戦いで六角氏を破った。1567年、織田信長が美濃平定すると、信長の妹お市の方と結婚して信長と同盟関係を形成させた。浅井氏は、初代浅井亮政の時から越前朝倉氏とのつながりが強く、1570年(元亀元)4月、信長が朝倉氏を攻めたときは、信長との同盟を破棄。同年6月の姉川の戦いで、長政は小谷城に籠城する形になり、1573年(天正元)信長方に攻められて落城、自刃した。お市の方と3人の娘(茶々・淀殿)発、小督は城を出たが、嫡男万福丸は木下秀吉によって殺され、浅井氏は断絶した。
「蒲生氏郷の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
蒲生氏郷(1556年~1595年)安土桃山時代の武将。蒲生氏。近江日野城主、伊勢亀山・松ヶ島城主、会津若松城主。近江六角氏家臣日野城主蒲生賢秀の第一子よして生まれる。幼名鶴千代、幼名教秀、賦秀、通称忠三郎。1568年(永禄11)織田信長に降伏した賢秀の人質として美濃国岐阜に差し出される。その後岐阜城にて元服。1569年信長の娘を娶り日野に帰還する。以後信長に従って多くの戦功をあげる一方、1582年(天正10)には城下町日野に対して12か条の掟をだして経済発展を図っている。信長の死後の翌年1583年には羽柴秀吉と結んで滝川一益を攻めて、その戦功をみとられ伊勢亀山城を与えられ、またこの年飛騨守に任じられた。1584年小牧・長久手の戦の功により南伊勢に12万石を与えられて松が城に移る。よく588年には紀州攻めや越中の佐々木成政攻撃に従軍した。1586年侍従、1587年の急襲攻めで軍勲をあげ羽柴姓賜る。1588年正四位下左近少将となり松坂城に移る。1590年小田原攻めの後会津黒川42万石の転封、1592年(文禄元)若松と改め城下町を整備を進めた。同年文禄の役には肥前名護屋城に出陣した。なお、早くから洗礼を受けて、天正年中ローマに施設を派遣したという説もある。
「九州探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍BOOK★WALKER電書籍
「はじめに」九州探題は室地幕府が九州の軍事統率の為設置した機関。鎌倉幕府が設置した鎮西探題と区別をする。実質的九州探題の任に始めて着いたのは一色範氏であった。子の直氏の九州下向後は直氏が探題になり、父子一体となって経営をした。恩王の遊覧の一時期、足利直冬鎮西探題に就任したが、間もなく九州の地を離れた。康元元年(1361)には藩氏・直氏の後任として斯波氏経が九州に下向したが、征西将軍宮の全盛期時代であった。任務遂行に出来ないまま2年後に帰京し、その後任渋川義行はついに九州に入ることが出来なかった。このような状況の中、
1、今川貞世であった。貞世は応安4年(1371)から応永2年(1395)に解任されるまで25年間九州経営に当たった。北朝方勢力確立に当たり、その後九州探題は北朝勢力が確立し、九州探題は渋川氏によって世襲されたが、在地勢力に圧倒され、九州全体が行使することが出来なくなっていった。